7.斜め下のマドレーヌは絶品
落ちる。
落ちる。
落ちる。
落ちる落ちる落ちる落ちる……!
「う、うそ! いやぁぁぁぁぁ!」
口から零れた悲鳴を置いて私たちはどんどん暗闇を落ちていた。
「あははは! いい悲鳴だねぇ!」
「笑い事じゃないわよ! ちょ、ちょっとこれ大丈夫なんでしょうね? 着地地点にはちゃんとクッションとかそういうの準備されてるわよね?」
「あはは、そんなものあるわけないじゃん~」
私の言葉を冗談とでも思っているかのようにチェシャ猫が大笑いした。
し、死んだ……!
これもう死亡確定じゃない……!
「うぅ……、こんな闇の中で転落死なんて絶対いや……」
「あはは、死ぬわけないでしょ~。オレはプロだから依頼品を傷つけたりしないよ」
チェシャ猫の言葉に自分がさらわれている事実を思い出してハッとした。
そうか、私をさらって依頼主に届けるのが彼の仕事なら、こんな自殺行為を何の考えもなしにするわけがない。
それにこの不思議な空間に私の常識が通用するとは思えない。
少しだけ落ち着きを取り戻した私は辺りを見回した。
改めて見るとおかしな空間だった。
暗闇なのに、闇には窓やドアが至る所に取り付けられていた。
食器棚やティーポット、紅茶缶、クッキー、ジャムなども闇に浮かんでいることもあった。
「到着まであともう少しかかるし、よかったらお茶でもどうだい?」
チェシャ猫は落下しながらも器用に闇に浮かぶ食器棚からティーセットを取り出し、これまた闇に浮かぶティーポットを手に取って紅茶を注ぎ始めた。
落下しているという緊張状態にそぐわず、紅茶からはハーブの香りを纏った湯気が湧き立っていた。
いいかげん、この不思議な状況に頭が痛くなってきた。
「……いい、遠慮しておくわ」
「あ、もしかして茶菓子も欲しかったかな。なら、そろそろクッキーとマドレーヌの傍を通過するからどちらかとってあげるよ。どっちがいい?」
私は大きくため息を吐いた。
「そういう問題じゃないわ。というかこんなところに落ちているもの口にできないわ。お腹壊しちゃう」
「何言ってるのさ。落ちているのはオレたちだよ」
チェシャ猫はティーポットを放り捨てて、闇に浮かぶマドレーヌを手に取った。
「さぁ、食べてごらんよ。この辺のマドレーヌはおいしいんだ。向こうの斜め上にあるマドレーヌはイマイチだけど。ここを通るなんて君はついてるね」
そう言って彼は可愛い花柄の袋に包装されたマドレーヌを差し出した。
お腹がすいていたのもあり、私はそれを受け取った。
一応匂いをかいだけれど、腐った臭いはしなかった。
甘い香りに誘われるようにして一口食べた。
「……! おいしい! こんなにおしいしマドレーヌはじめてだわ!」
傍から見ればありきたりで大袈裟な感想だと思われるだろうけど、このマドレーヌには決して過剰な褒め言葉ではなかった。
本当に言葉通り、こんなにおいしいマドレーヌを食べたのは初めてだったし、これを食べた人みんながこう思うに違いないと確信できるものだった。
チェシャ猫も私の言葉が大袈裟な褒め言葉でないことは十分に分かっているのだろう。
笑みを深めて頷いた。
「そうだろ、そうだろ? オレもお気に入りなんだ。あそこのマドレーヌは絶品なんだ」
まるで自分が作ったように得意げに話すチェシャ猫に思わず笑みが零れた。
「……さぁて、そろそろ着くから、しっかりオレに掴まっておきなよ」
チェシャ猫の言葉に下を見る。
視線の先にあるものに自分の目を疑った。
それは大きな鉄の扉だった。
落下速度は当たり前だけど、全く緩む気配がみられない。
このままあの扉に激突したらどうなるかは火を見るより明らかだ。
「ちょ、ちょっと、待って! ま、まさか着くってあの扉?」
「そうだよ、あの扉だよ」
「あの扉、私たちが近づいたら開くのよね……?」
恐る恐る、どうかそうだと言ってと祈りながら訊ねた。
けれど返ってきたのはお馴染みの気遣いや配慮、ついでに常識も欠けたケタケタ笑いだった。
「まさか! そんな賢い扉の話、聞いたことないよ」
扉がどんどん近づいてくる。
ぶつかる……--!
私は目前に迫った衝撃に備えて、目をぎゅっと瞑った。