5話 小石
結構歩いたとは思うが、まだ町は見えてこない。
暗かった空には、少しずつ朝日が差し込んできている。
「全然見えてこないんだけど」
「俺に文句言うなよ、なじむ」
「あぅ……」
俺に名前を呼ばれるや否や、なじむは俺から顔を隠してしまった。見えるのは真っ赤になった耳だけだ。
「どうした?」
「な、なんでもないの! ほら、早く行かないと! わたしもうお腹空いた!」
「分かってるよ。俺だってそうだ」
爺さんの家で一度食事をしたものの、今日はずっと歩き続けているので、早くも空腹でしばしば腹が鳴っている。
「あ、あそこ!」
「ん、どうした?」
「あそこの草むら、ガサガサ動いてるよ」
「お、ほんとだ。よく見つけたな」
なじむの言うとおり、確かに草むらが動いている。風でなびいているわけでも無さそうだし、おそらく何かがいる。
「も、もしかして、あの時のお爺さんなんじゃ……」
「なわけあるか! なんで俺達より先の方角に爺さんがいるんだよ。そんなに早く移動できるなら通り過ぎる前に後ろから刺すわ!」
「じゃあ、何?」
「まあ動物じゃねーの。うさぎとか」
「うさぎ!」
まるで自分がうさぎにでもなったかのように、なじむはぴょんぴょんと跳ねて喜んだ。
「おいおいどうしたんだよ」
爛々と輝いている目は、いつも俺に対して向ける目とは大違いだ。
「わたしうさぎ好きなの!」
「そうだったけ? って、おい!」
なじむはどこにそんな体力が残っていたのか、動く草むらの方へ一直線に走り出した。
「まったく……」
こういうところは女の子らしいというかなんというか。
なじむが近づくと、草むらの陰に隠れていた存在が勢いよく姿を現した。
「なんだ――!?」
そこに現れたのは、どう見てもうさぎなんかではない。俺が知っているうさぎってのは、もっと愛嬌のある可愛いヤツだ。
「グギャァァアアアア!!」
草むらから現れた"それ"は、奇声を上げてなじむに突進した。
「キャッ!」
間一髪のところで、なんとかなじむは躱した。だが、躱すことができたのはただの偶然だ。もう一度同じことをされたら、間違いなく悪い結果が待っている。
なんだあれは。オオカミか? いいや違う。オオカミには、地面に届くほどの長く鋭い牙なんて無い。じゃあなんなんだ。あんな動物、今まで見た事がない。というか、動物と言うよりはまるでモンスターだ。
姿こそ小さいけれど、恐ろしい形相で唸りながらずっとなじむを睨みつけているそいつは、身を震わせるほど怖い。
なじむは怯えながら、俺の背へと逃げてきた。
頼りにされるのはありがたいが、俺にあいつをどうにかできるとは思えないぞ……。
今できる最善の策を考える。
爺さんと違って、おそらく足は速いだろう。普通に逃げたら追いつかれると思っていい。だから、ただ逃げるだけでは駄目だ。
ならば、何かを利用するしかない。だが今の俺は、この状況を打開できるものどころか、そもそも何一つ持ち物を持っていない。
打つ手無し、か。
いや、何も無いわけではないか。俺の足元には、いくつかの小石が転がっている。
「これでなんとかしろってか?」
正直、小石なんてもんがこいつに効くとは思えない。だがそれを使う以外に、馬鹿な俺の脳では何も思いつかない。
――やるしかないみたいだな。
「なじむ、全力で走れ」
「え?」
「俺が少しだけあいつの気を引き付ける。だからお前は、その間に逃げろ」
「そ、そんなこと言ったって。あんたは大丈夫なの?」
いつも悪態をついてくる妹にしては珍しく、心配をしてくれているようだ。
「なあに。俺はそんな簡単にやられる男じゃないさ」
爺さんからだって、逃げることができたじゃないか。今回だってきっと。
「でも!」
「でもも何もない。これしかないんだ。頼む、俺を信じてくれ」
と言っても、こいつが俺のことを信じるわけ――
「……やられたら承知しないから」
そう言うと、なじむは俺に背を向けた。
「信じてくれるのか?」
「あんたが自分で信じてくれって言ったんでしょ」
「なじむ……!」
なじむは俺を置いて、信じて走って行った。すると、敵は俺のことなど眼中に無いのか、すぐに妹を追おうとした。
「おいワン公! てめえの相手はこの俺だ!」
大声をだし、敵の興味をこちらに惹きつけた。そして――落ちていた小石を顔面めがけて投げつけた。
「キャウン!」
見た目からは想像もできないほど可愛らしい声でそう鳴くと、もうなじむには興味が無くなったのか、俺の方を見てガルルルルと唸った。
そのまましばらく硬直状態が続く。幸いにして、すぐに飛びかかってくるようなことは無かった。敵が攻撃するタイミングを見計らっている間、俺の視線は目の前のそいつではなくなじむの背中にあった。少しずつ少しずつ、なじむと俺との距離は遠くなっていく。そして、完全に背中が見えなくなるほど遠くに行った時――
「じゃあなワン公!」
再び小石を顔面に投げ当てた。見事直撃して敵が少しよろめいたのを確認すると、地面に落ちていた小石を両手に抱え走り出した。
くそっ。ほんとに俺は走ってばかりだな。
敵は頭を二度振ると、大きく唸ってすぐに体勢を立て直し、俺を追ってきた。だが俺は、決して追いつかれることは無かった。追いつかれそうになる度に小石を投げ、犬の動きを止めていたからだ。どうやら俺には投擲の才能があったらしく、持っている小石を外すことは少なかった。
一生懸命足を動かし、なじむの方へと向かう。敵との距離は少しずつ離れていってはいるものの、それでもまだまだ近い。手に持っている小石だって無限じゃないし、いつやられるかは分かったもんじゃない。
だが、あの生意気なクソ妹にすぐに行くと約束してしまった以上、諦めるわけにはいかない。
絶対に逃げ切ってやる。その一心で俺は走り続け、そして――
「遅かったじゃん」
「はぁ……。はぁ……。おま、戻ってきただけ、凄いと思え」
生意気な妹様の所へとたどり着いた。
後ろを見ても、あの敵の姿はもう見えない。どうやらなんとか逃げ切ったようだ。
「一体なんだったんだあいつは……」
夢でも見ていたのか? 今のおかしなヤツが現実の生き物だとはとても信じられない。
「分かんないけど、もうあんなのいないでしょ。きっと新種の動物かなんかだよ」
「だと、いいんだけどな……」
もしまだ他にもあんなのがいるのだとしたら、この世界は俺達のいた世界とは違う世界なのかもしれない。そんな風に思えてならなかった。