第三章
明治天皇亡き後、誠一は来たるべき第一次世界大戦に備えて新しい戦略・戦術を考案し、それらを積極的に演習などに活用していった。中でも重点を置いたのは、商船の護衛や対潜掃討といったものであった。
そんな中、ついに「その日」は訪れた。
1914年6月28日、当時オーストリア=ハンガリー帝国領であったサラエボにおいて、オーストリアの皇位継承者であったフランツ・フェルディナント大公とその妻ゾフィーがセルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されたのである。
暗殺に使用された武器がセルビア政府から支給されたものであることを知ったオーストリア政府はセルビアに最後通牒を突きつけ、全条件を無条件で承諾しなければ宣戦を布告するとした。セルビアは二つの条件を除いてこれを受諾したが、オーストリアは7月28日に宣戦を布告した。
その後、8月2日にドイツがセルビアの独立を支援していたロシアに対し、3日にはフランスに対し宣戦を布告。またベルギーへの侵入も開始した。するとこれを受けたイギリスが4日にドイツに宣戦を布告し、カナダやオーストラリア、ニュージーランドも続いた。
その後イギリスは日本に対しヨーロッパへの派兵を要請。これに対し日本はドイツに最後通牒を突きつけたうえで8月23日に宣戦を布告(ここまでは史実どおり)。同時にヨーロッパへ史実より大規模な兵力である三個師団(当時本土にいたのは20個師団)と最新鋭の超弩級戦艦である「筑前」「越後」を主力とする艦隊の派遣を決定した。なお、当時の連合艦隊主力は以下の通り。
連合艦隊
第一艦隊(ドイツ領南洋諸島の攻略に向かう予定)
戦艦 大隅、豊後、常陸、能登
防護巡洋艦 石狩、鈴鹿、黒部、米代
六百トン級船首楼型駆逐艦 秋霜、大霜、斑霜、清霜、水霜、夕霜、朝霜、薄霜、晩霜、露霜、早霜、皮霜
第二艦隊(第三艦隊とともに膠州湾攻撃に向かう予定)
戦艦 三笠、朝日、敷島、富士、鹿島、香取
巡洋艦 音羽、対馬、新高、須磨、明石
駆逐艦 神風型16隻
第三艦隊
装甲巡洋艦 浅間、常盤、八雲、吾妻、出雲、磐手、日進、春日
駆逐艦 神風型16隻
第一遣欧艦隊
戦艦 筑前、越後(後に「出羽」「志摩」が追加)
軽巡洋艦 勝浦、四万十、九頭龍、天塩(すべて勝浦型)
千トン級駆逐艦 秋風、雨風、天津風、浦風、海風、大風、沖津風、川風、北風、寒風、潮風、空風
なお、ここに出ていない日露戦争以前の艦艇は本土防衛にまわされているか、すでに除籍ないし解体されている。また、指定船を基にした水上機母艦や輸送艦も数隻づつ各艦隊に編入されているが、ここでは省略する。
9月1日、誠一はイギリスに向け出港する第一遣欧艦隊の見送りをすべく、横須賀を訪れていた。そこには戦艦「筑前」と「越後」の艦魂の姿もあった。
「筑前、越後。必ず生きて帰って来るんだぞ」
「心配いらないよ。だって私たちの船体には後知恵がたっぷり使われているんでしょう?」
こちらは「筑前」の艦魂である。見た目の年は十五、六歳といったところで、髪はかなり短く切られている。
「姉さん。そんなこと言ってて誠一さんが言ってた『クイーン・メリー』っていう戦艦の二の舞になってもわたしゃ知りませんよ?」
こちらは「越後」の艦魂である。身長は150cmに届くかどうかという低さだが、切れ長の目と眼光の鋭さから、かなり大人びて見える。ちなみに越後の言う「クイーン・メリー」とは、ジュットランド沖海戦で轟沈したイギリスのライオン級巡洋戦艦三番艦である。
「越後は心配性だなあ。私たちの装甲はライオン級の1.5倍はあるんだよ?それを破れるのはバイエルン級の38cm砲ぐらいだよ。しかも出てきたところでバイエルン級の速力は22ノットだから余裕で逃げ切れるしね」
「私が言いたいのはそういうことじゃありません。ただ、油断しないに越したことはないと言いたいんです。何なら、例えがミッドウェー島沖海戦でもいいんですよ?」
「むう…」
筑前が言葉を詰まらせる。その時二人の言い合いを見ていた誠一が口を開いた。
「二人とも、今から仲間割れなんてしていたら本当に生きて帰れる保証なんて無いぞ?言いたいことはわかったから、今はしっかりと任務を果たして、ここに帰ってくることだけを考えて欲しい。僕としても、みんなの武運長久を祈らせてもらうとするよ」
「ありがとう。またこの戦争が終わったら会いましょうね」
「また会えるのを楽しみにしてますよ。それじゃあ、私はこれで」
こうして、遣欧艦隊は長い航海に出た。彼女らが帰ってくるのは、実におよそ四年後のことである。
遣欧艦隊はイギリスに到着した後、ドイツの海上封鎖を主な任務としていた。しばらくの間はドイツ海軍の戦艦が出撃することは少なかったために大規模な海戦は発生しなかったが、1916年にシェアー中将が司令官になると積極的な作戦を取るようになり、5月31日には主力艦部隊を出撃させた。戦力は戦艦22隻、巡洋戦艦5隻、軽巡洋艦11隻、駆逐艦51隻である。
しかし、当時すでにドイツの暗号はイギリスに解読されていたため、出港の前日にはイギリス側の艦隊司令官であるジェリコー大将の知るところとなり、ドイツより先に艦隊を出撃させた。戦力は史実の戦艦29隻、巡洋戦艦9隻、装甲巡洋艦8隻、軽巡洋艦26隻、駆逐艦79隻に加えて巡洋戦艦部隊に「筑前」「越後」が随伴していた。
6月1日午後二時半頃、両軍の巡洋戦艦がお互いを視認した。この時の両軍の巡洋戦艦はイギリス6隻(うち超弩級が4隻)プラス「筑前」と「越後」対ドイツ5隻(超弩級はなし)であり、イギリスが優位かと思われた。その後午後3時46分にドイツ側が、そしてそれに応戦するかたちでイギリス側が相次いで砲撃を始めた。
「確かこの戦いでイギリスは3隻の巡洋戦艦を失うって聞いたけど…私たちは大丈夫だよね…?」
出港前は威勢がよかった筑前だが、ここにきて急に弱気になっていた。いくら自分たちの装甲が厚いとはいえ、戦艦5隻の集中砲火を食らえば撃沈破されないという保証はどこにもなく、むしろ無事ですむ可能性のほうが低いと思えたからである。
「姉さん、どうしたんですか?そんなに弱気になるなんて、らしくないですよ?」
「越後、なんでここに?」
「もしかして姉さんも不安なんじゃないかと思ってね」
「姉さんも、ってことは越後も…?」
「ええ。柄にも無くね。でもさ、今はドイツ艦隊をぶちのめすことだけを考えましょうよ」
「ええ、そうね。…ありがとう、おかげで楽になったわ」
「なあに。礼には及びませんよ。それでは」
そう言って越後が「筑前」の艦橋から去ろうとした時だった。
ドゴオオォォ…ン
二人が爆発音のした方向を見ると、一隻の戦艦が天に沖する火柱を揚げて轟沈した。沈没したのはイギリスの巡洋戦艦「インディファティカブル」である。そしてその直後
ズガアアアァァァン!
とさっきより近い位置で炎が噴きあがると同時に越後が「ぐはあっ!」と声を上げて吐血した。右肩も裂け、血が勢い良く流れ出している。
「越後、しっかりしてっ、越後っ!」
「くっ、迂闊だった…にしても、28センチ砲のくせに案外痛えな…」
「大丈夫なの?」
「ああ。これ位で沈みはしないでしょうよ。さて、ちょっくらお返ししてやるか。超弩級戦艦を怒らせたツケ、払ってもらわないとな」
そう言って越後は不敵な笑みさえ浮かべながら「筑前」から去った。幸い「越後」に命中した二発の砲弾は装甲に阻まれ、戦闘に何ら支障は無かった。逆に闘志を燃やした越後の感情が影響したのか、命中弾を叩き出すペースが上がったほどである。そしてそんな怒りの一斉射が、ドイツ海軍に史実では無かった損害をもたすことになった。
一方、その頃ドイツ海軍巡洋戦艦「モルトケ」の艦橋では、轟沈した「インディファティカブル」と黒煙を上げる「越後」を見て一人の少女が歓喜の雄叫びをあげていた。
「よっしゃあっ!くたばれイギリスとその腰巾着どもっ!」
彼女はこの巡洋戦艦「モルトケ」の艦魂である。身長は175cm程とかなりの長身で、茶色が混じった金髪を背中のあたりまで延ばしていた。ちなみに彼女の言う「腰巾着」とは、この場合「筑前」と「越後」のことである。
しかし、彼女は夢にも思っていなかっただろう。
まさか、これが自分の最後の言葉になろうとは。
次の瞬間、「越後」の放った一斉射八発の砲弾のうち、実に四発が「モルトケ」に命中。当時としてはかなりの急角度で落下した砲弾は50mmの装甲しか張られていない「モルトケ」の甲板を貫き、一発ずつが弾薬庫と機関室に到達。そこで炸裂した砲弾は近くの弾薬や燃料を立て続けに誘爆させ、しまいには竜骨をへし折って、そのままVの字になった船体を数十秒で海中に引きずり込んだ。時に午後4時12分、「インディファティカブル」の轟沈から八分後のことであった。
「モルトケ」の轟沈により混乱したドイツ艦隊はその後敵に十分な打撃を与える事が出来ず、史実では撃沈できていた「クイーン・メリー」も討ち漏らすことになってしまった。
そこに、ドイツ軍の戦艦部隊が現れた。なんとイギリス巡洋戦艦部隊はいつの間にかおびき出されていたのである。あわてたイギリス側は今度は敵を自軍の戦艦部隊に引き付けることにした。ここで「筑前」と「越後」はイギリス艦隊の殿を務め、砲弾をその身に浴びつつも大任を果たすことが出来た。
一時間以上続いた撤退の後、午後6時30分頃にようやく両軍の戦艦部隊が遭遇し、砲撃戦を始めた。不利を悟ったシェアー中将は後退を命じたものの、その結果巡洋戦艦部隊が激しい攻撃にさらされ、大損害を受けることとなった。しかしそんな状況にも関わらず、イギリスは装甲の薄さが仇となって巡洋戦艦「インヴィンシブル」を撃沈された。
撤退を試みたドイツ艦隊ではあったが、イギリス艦隊はそれを通せんぼする形で航行していた。そこでシェアー中将はすでに満身創痍となっていた巡洋戦艦部隊に突撃を命じ、その間に戦艦部隊を逃がすという賭けに出た。この賭けは成功し、その後は日が没したこともあって小規模で偶発的な戦闘が繰り返されることとなった。
この戦闘でイギリスの装甲巡洋艦三隻、ドイツの前弩級戦艦「ポンメルン」等が撃沈された。「筑前」と「越後」はドイツ艦隊に果敢に攻撃を仕掛けたものの、巡洋艦など数隻に手傷を負わせるにとどまり、逆に二隻とも中破の損害を受けた。
この海戦は喪失艦から見ればドイツの優勢勝ちとも言えるが、制海権を守りきったという意味ではイギリスの戦略的勝利であった。しかし同時に巡洋戦艦の脆弱さも露呈され、これ以降急速に廃れていくこととなる。
その夜、「筑前」にある筑前の部屋では、筑前と越後が傷だらけの体を寄せ合っていた。
「やっと終わった、か」
「ええ。でも、生き残れてよかったわ。傷は痛む?」
「なに、私は大丈夫です。姉さんは?」
「私も、だいぶ痛みは引いたわ。…でも、これで終わりじゃないのよね」
「ああ。そろそろドイツの潜水艦がうるさくなってくるらしいですからね。勝浦たちにも、頑張ってもらわないとなりません」
「大隅さんたちは、大丈夫かしら?」
「あいつらなら平気でしょう。宮沢さんもついていることですしね」
「…それもそうね。それはそうと、今何時?」
「よ…っと、もう日付が変わってやがる。そろそろ寝るか。姉さん、お休み」
「ええ。お休み」
こうして、歴史上有数の大海戦が行われた一日は終わった。
遣欧艦隊がイギリスを目指していた頃、誠一は南洋諸島及び青島・膠州湾の攻略の準備をしていた。青島の攻略は史実より早めの9月半ばに行うものとし、第二及び第三艦隊と八千トン級指定船24隻に二個師団約三万名が分乗して、9月10日に呉を出港した。その後16日には膠州湾の沖合いに到着し、要塞に対する艦砲射撃を行った。
そして18日に陸戦隊が上陸。史実とは異なり日本単独での攻撃となった。その日の夕方、戦艦「三笠」の艦橋では艦魂が集まって会議を行っていた。そしてその会議が終わるや否や、三笠が愚痴をこぼし始めた。
「いつになったら日本に帰れるんですか?最近は第一艦隊からすら外されるし、このままじゃじきに戦艦ですらなくなっちゃうんじゃ…」
「仕方ないよ。兵器である以上いつかは旧式化しちゃうんだから。それに私たちは今から二十年後でもお役ごめんにならないらしいから、それまでに解体されちゃう子達からしてみれば十分幸せなほうだよ」
「敷島姉さん、確かにそうですが…やはり戦艦として生まれたからには、生涯戦艦のままでいたいです」
「だったら大尉に頼んでみたらどうだ?」
「それはいくら三笠の頼みとはいえ厳しいかと存じます。将来軍縮条約を結ぶ際には、誠一殿が設計なさった超弩級戦艦十二隻以外、全て他艦種へ変更するとおっしゃっていましたから」
「超弩級…と言うことはつまり、大隅たちも戦艦では無くなるということか?」
「ええ。なんでも、主砲や副砲は全て撤去し、平時は練習艦として使用するとか」
「うう、主砲どころか、副砲もですか…」
結局、この時は三笠の気分が余計沈んだだけに終わった。
その後、現地のドイツ軍は26日に降伏。不幸中の幸いで早期に降伏がなされたため、犠牲者を増やさずに済んだ。この後第二及び第三艦隊は9月1日に呉に帰港し、しばらくの間目立った活動はしなかった。
一方、第一艦隊も8月15日に横須賀を出港。一個師団、約一万五千人を伴って南洋諸島及びニューギニアの制圧に向かった。この遠征は約半年を要したものの、幸い一隻の戦没艦も無く帰港することが出来たのである。
第一艦隊を見送った後、誠一はどこか寂しそうに海を見つめ続けた。
「やはり寂しいか?」
「あ、東郷大将」
慌てて敬礼をする誠一に対し、東郷大将が答礼をした。ちなみにこの時東郷大将は元帥になっていたが、元帥とはあくまで一種の称号であり、階級としては大将のままである。
「…まあ、そんなところです。沿岸警備に就いている艦以外は、みんな出払ってしまいましたから」
「一番早く帰ってくるのはおそらく三笠たちだろうが…早くて来月初めだろうな」
「大隅たちは早くて来年の春、筑前たちなんていつになるやら。ひょっとしたら、戦争が終わるまであと四年ぐらい帰って来れないかも知れませんなあ」
「やはり自分の娘が心配か?」
苦笑いしながら誠一をからかう東郷大将に対し、誠一は危うく吹き出しそうになった。
「む、娘って…。確かに彼女たちの船体の設計をしたのは私ですが、娘だなんて思ってませんよ。強いて言うなら友人か、あるいは軍人として言うなら戦友だとは思っていますが」
「ほほう。じゃあ君は、まだ三笠が顔を赤くする理由が分からないわけか」
「ええ、まあ…」
「ははは。こりゃ、当分後のことになりそうだな」
笑いながら去っていく東郷大将を見て、誠一はただ首をかしげるだけだった。
ジュットランド沖海戦から一年近く後、ドイツは1917年2月に無制限潜水艦作戦を開始した。この作戦はイギリスに甚大な被害をもたらし、2月から7月までの約半年間は一ヶ月当たりなんと50万総トンもの商船が失われた。
イギリスはこれに対抗すべく護送船団方式を採用。その護衛用として、日本から派遣されていた艦隊も参加することとなった。また日本に対して護衛用艦艇の派遣も要請され、日本は330トン級護衛艇十二隻の派遣を決定した。艇名は「桑」「梅」「糸桜」「石楠花」「玉椿」「梨」「藤桜」「柳」「山椿」「枇杷」「牡丹」「若楓」である。これらの艦艇は7月20日に日本を出発し、船団護衛に参加することとなった。なおこれらの艦艇には史実より高性能なソナー等が装備されていたが、そのことはイギリスには一切秘密にされた。
また、日本はイギリスへの破格とも言える条件での戦費の貸し出しと兵器や物資の供給を開始。兵器の供給については若干設計を変更した(すなわち後知恵を使った部分を削った)上で駆逐艦や護衛艦艇、火砲などを輸出。戦費の供給はほぼ無利子で行われた。このことが、後に日英同盟を強固なものにする一因となった。
そんな中、ツィンメルマン電報事件や無限潜水艦作戦に業を煮やしたアメリカは4月6日にドイツに宣戦を布告。12月にはオーストリアにも宣戦を布告した。またアメリカはイギリスへの戦費の供給や兵器の貸与を申し出たが、日本のほうが条件が良かったために、史実と比べ小規模なものに終わった。
一方、ロシアでは3月8日に三月革命が勃発。日本はこれに対し一定の条件のもとでの革命鎮圧への協力を申し出た。最初は自力で鎮圧できると高をくくっていたニコライ二世であったが、革命が急速的に広がるのを見て考えを改め、日本の申し出を受諾した。
日本は直ちにモスクワ周辺部などへの派兵を実行。その戦力は二個師団、約三万名にも及んだ。国内では本土の防御が手薄になる(この時点で残り十二個師団)との懸念もあったが、極東のドイツ軍があらかた駆逐され、他に敵対勢力が無い以上心配は無いとされた。また陸上兵器の輸出も行われ、革命の鎮圧に一役買った。
その後革命は鎮圧され、主な指導者であったレーニンやスターリン(当時はこの名前ではなかったが、便宜上使用することにする)等は処刑されたものの、ロシアは日本からの支援の条件であった新しい議会の創設や、日中協約に似た内容の日露協約の締結を行った。また革命が鎮圧された結果、ロシアは形式上第一次世界大戦への参戦を続けることとなった。
そして1918年9月29日にブルガリアが休戦協定に調印したのを皮切りに、10月30日にトルコが降伏。11月4日午後3時にオーストリアとの休戦が発効した。最後まで残ったいたドイツでも11月9日に共和国が樹立され、パリ講和会議が開かれることとなった。
パリ講和会議では、戦勝国の中からドイツに対し史実どおり過酷な条件を突きつけろという意見が相次いだ。しかし日本政府やイギリス代表の一人であった経済学者ジョン・メイナード・ケインズが過酷な条件を突きつければ再び戦争が起きかねないと反発。日本の支援によって損害が史実より軽くなっていたイギリスなどの戦勝国はこれを受け入れ、史実とは一部異なる内容でのベルサイユ条約が調印された。主な内容は以下の通り。
一、ドイツの全海外領土及び植民地の没収。ただし史実と異なりドイツ本土の分割はほとんど行わない。なお日本に統治が委任された地域は史実通り。
二、史実通り非武装地帯の設置及び徴兵制の禁止。
三、賠償金は20億金マルクとする(史実では1320億金マルク、のち30億マルクに減額)
四、軍備の制限。毒ガスや航空母艦、潜水艦の保有は禁止され、陸軍の兵員数は20万人以内、うち士官は五千人以内とされた(史実ではそれぞれ10万人、四千人)。海軍艦艇の制限は史実通り。
またその他の敗戦国に対しても、史実より賠償金の額が減らされるなど多少ましな内容での条約が締結された。日本にはこの戦争によって史実を上回る特需が発生し、工業力の向上にも効果を発揮したが、そのぶん大戦後はニューディール政策を参考にした大規模な公共事業を行ったにも拘らず、数年の間不況が続くこととなってしまった。