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第二章

 誠一が東郷大将に言った『ある言葉』、それは「九月十一日に戦艦『三笠』で爆発事故が発生してしまうから、まずは後部弾薬庫の火薬が変質していないか調べ、もし大丈夫だったらその日後部主砲の周囲を監視させて欲しい」というものだった。当然東郷大将は驚いたが、日本海海戦の結果を完全に言い当てられているということもあってこの要請を受け入れ、至急搭載している下瀬火薬を調べさせた。


 しかし、火薬には何の異常も無かったのである。


 これを聞いた誠一は、もう一つの原因と言われている「水兵が発火信号に使うアルコールを洗面器に入れて火をつけ、臭いを飛ばして飲もうとしていたところ、火が火薬に燃え移って爆発した」という事態を未然に防ぐべく、当日砲塔を監視する人手を用意することにした。そこで再び東郷大将に頼んで、水兵を何人か配置してもらうことに成功したのである。とはいえ勿論この際水兵に三笠が爆沈する恐れがあるということは知らせず、ただ「砲塔の周囲で何らかの容器にアルコールを入れて持っている者がいた場合、すぐにこれを取り押さえよ」とだけ指示が出された。


 当日、誠一は自分が犯人を見つけた際事が運びやすいように、事前に用意してもらった士官用の服を着て、犯人を捕縛するための縄を持ったうえで後部主砲塔に向かった。そしてしばらく待っていると、怪しい動きをする水兵を発見した。しかも決定的なことにその水兵は案の定洗面器を持っていたのである。


 誠一は水兵が逃げようとした時に取り押さえ易いよう、物陰に隠れてぎりぎりまで引き付けてから水兵に向かって「貴様、そこで何をしている!」と叫んだ。士官用の服に身を包んだ誠一を見た水兵は慌てて洗面器を置いて逃げ出したが、誠一の渾身の体当たりによって転倒し、取っ組み合いの末敢え無く捕縛されたのである。その後その水兵は軍法会議にかけられ、官職を奪われたうえで服役することとなった。また結果としてこの一件により、誠一が未来から来たことを東郷大将に一層強く信用してもらえることにもなった。


 東郷大将への報告を終えて東京行きの準備をした誠一が自分と三笠の部屋に戻ると、突然三笠が泣きそうな顔で駆け寄ってきた。

「宮沢さん、大丈夫ですか!?」

「うん。怪我はしてないけど…って、なんで三笠が知ってるの?」

「東郷長官から聞いたんです。宮沢さんがあらかじめ『三笠』が爆沈する恐れがあると知っていたことも、その原因となった水兵と取っ組み合いをしたことも、全部…。どうして、私に教えてくれなかったんですか?」

「ごめん。心配をかけたことは謝るよ。でも、このことを教えて三笠を不安にさせたくなかったんだ。どうか、許して欲しい」

「そんな、謝らないでください。そのおかげで私は今こうしていられるんですから。…そういえば、東郷長官から頼まれた設計図の件はどうなったんですか?」

「それならもういくつか出来上がったから、東京に行った時にでも見せることにするよ」

「ということは、しばらく会えないんですね…」

「僕だって辛いさ。だけど、なにもこれが今生の別れっていうわけじゃない。それにもうしばらくの間日本は大規模な戦争はしないはずだから、また近いうちに会えるよ」

「…そうですね。それでは、お元気で」

「ああ。三笠も元気でね」

「はい」


 こうして誠一は三笠を降り、東郷大将たちとともに東京へと向かった。


 誠一たちが東京に着いて数日後、誠一は東郷大将から驚くべきことを頼まれた。…いや、これは最早「頼まれてしまった」と言って差し支え無かった。なぜならその内容というのが


「数日後に天皇陛下に謁見し、自分が未来から来てから今までのことを説明してもらいたい」

というものだったからである。これを聞いた瞬間、誠一は身震いがした。当時の天皇ともなれば、大日本帝国憲法で絶対的な権力を持った、神聖にして侵すべからざる存在と規定されているのである。もしそんな存在の前で迂闊な行動を取ろうものなら、命を取られても文句を言えないのは明白だった。そう考えた誠一はなんとか断ろうとしたが、すでに予定が組まれている以上、断るのは不可能であった。


 そして数日後、とうとうその日がやってきてしまった。

 

 誠一は緊張のあまり自分でもなにを言っているのかよくわからないまま、無我夢中で自分の過去に来たいきさつ、これから日本がたどる歴史、日本海海戦の結果を当てたこと、これから自分かどうするつもりなのかなどといったことを説明した後に、東郷大将も自分の見たことや意見を述べた。すると天皇が誠一の方を見て驚くべきことを言ったのである。


 曰く、たかが二年後に新型戦艦(後のドレッドノートのこと)が完成して日本がつい数ヶ月前に建造を開始した戦艦(史実の「薩摩」)と巡洋戦艦(史実の「鞍馬(くらま)」)及び建造が予定されているそれぞれの同型艦である史実の戦艦「安芸」と巡洋戦艦「伊吹」が旧式化してしまうのであれば、その四隻に代えて誠一が設計した弩級戦艦を同数建造したほうがよいのではないか、ということだった。


 当然これを聞いた全員が驚愕し、その場にいた海軍の将校たちから少なからず反対の声が上がった。というのも、今建造している二隻を廃棄して一から建造をするとなると、これまでかけた時間と資金が全て無駄になってしまうからである。それに対し天皇は急いで旧式艦を作ってもそれこそ時間と資金の無駄であり、金が足りないなら戦艦「富士」「八島」を建造した時のように宮中の費用を削って建造費にあてればよいと言って聞かず、結局将校たちが折れる形となった。また天皇は、これから建造する誠一が設計した艦船の命名権も誠一に一任したのである。


 こうして日本初の弩級戦艦の建造が決定し、それぞれ「薩摩」に代えて「大隅(おおすみ)」、「鞍馬」に代えて「豊後(ぶんご)」、「安芸」に代えて「常陸(ひたち)」、「伊吹」に代えて「能登(のと)」が、また建造予定だった巡洋艦についても利根型の「利根」、筑摩型の「筑摩」「矢矧」「平戸」に代えてそれぞれ誠一が設計した5000トン級防護巡洋艦の「石狩」「鈴鹿」「黒部」「米代(よねしろ)」が建造されることとなった。なお駆逐艦については建造計画の変更は史実の神風型の起工が全て終わる(32隻)までそのままとされ、その後に誠一が設計した600トン級駆逐艦の建造を行うことになった。各艦の起工年月日は以下の通り。


大隅型戦艦(起工から進水まで一年、進水から完成まで一年を予定)

大隅 明治三十九(1906)年四月十五日 豊後 同三十九年五月一日

常陸  同四十年四月一日       能登 同四十年四月十五日


石狩型防護巡洋艦(建造期間は大隈型戦艦と同等を予定)

石狩 明治三十九年四月二十日 鈴鹿 同四十年四月十日

黒部  同四十一年四月十日  米代 同四十一年四月二十日


 また誠一はこれから天皇のもとで政治及び軍事の特別顧問として働くこととなり、階級はひとまず海軍少尉と決まった。


 天皇との面会が終わった後、誠一と東郷大将は別の部屋で話をしていた。

「まさか、陛下があんな御裁断をなさるとはなあ」

「私だって驚きましたよ。でもこれで『三笠』の件に続いて、いよいよ歴史が変わり始めました。もう後には引けません」

「ところでさっき朝鮮併合をやめるように進言していたが、何故だ?それと代わりの策はあるのかね?」

「朝鮮を併合してしまうと如何せん学校や病院と言った社会的基盤(現代で言うインフラストラクチャー)の整備に金がかかり過ぎますからね。それよりも今から五年ほど後に清国で革命が起きて清国が潰れますから、その時に革命をこっそり支援してその後に同盟なり何なり結んだほうが遥かに安上がりですし、後々万が一アメリカが喧嘩をふっかけてきた時にも天然資源の仕入先等として役立つと思いますから。ただ、袁世凱は潰しておかないと厄介なことになりますので、注意が必要です」

「しかし、資源ならイギリスに頼めばよいのではないか?」

「日英同盟が続く保障はありません。現に史実では今から十五年ほど後に海軍の軍縮条約が調印された際、日英両国を同時に敵に回したくなかったアメリカの横槍で日英同盟は無くなり、挙句の果てには米英両方を敵に回して戦争するはめになりましたしね」


 このように話をしていると、水兵が部屋に入ってきた。何事かと東郷が尋ねると、水兵は明日連合艦隊が横須賀に入港する予定であることを伝えて部屋を出ようとしたところこんな場所にいるにはどう考えても若すぎる誠一を見て怪訝そうな顔をしたが、東郷大将に「この少年は私の知り合いだ。気にするな」と言われたので大人しく退出した。

「思ったより早かったですね」

「ああ。佐世保を離れる前に三笠が早く横須賀に回航してくれと言うもんだから予め準備をしておいたんだ」

「三笠が?それはまたなぜです?」

「さあな。ただ、顔を真っ赤にしていたぞ。何かあったんじゃないか?」東郷大将は苦笑いしながら言った。

「確かによく話はしていましたが、特にこれといったことは…。でもなぜ顔を赤くする必要が?」

「そうか。どうやら君はまだ気づいていないらしいな」

「何にです?」

「それは自分で考えることだな。ははは」そう言いながら、東郷大将は部屋を出て行ってしまった。


 誠一がその意味に気づくのは、当分先のことになりそうである。


 誠一が天皇に謁見した翌日の午前中に、第一艦隊を基幹とする連合艦隊のほぼ全戦力が横須賀沖にその勇姿を見せた。しかし史実と大きく異なるのは、何といっても旗艦である「三笠」が健在であることだった。そんな「三笠」の艦首に、親しくなった少年との再会を待つ少女の姿があった。


 その日誠一は朝食を済ませると東郷大将と共に東京を後にし、一路横須賀鎮守府へと向かった。鎮守府の建物内で東郷大将と一緒にいる見慣れぬ少年(誠一)を見た将兵は皆一様に不思議そうな顔をしたが、誠一が士官服を着ていたことと東郷大将のおかげでどうにか埠頭までたどり着くことができた。すると二人の眼前には見事な大艦隊が姿を現したのである。

「そんなに経っていないはずなのに、もう随分見ていないような感じがします」

「そうか。さあ、三笠が待ちかねているだろうから、早く行ってやりなさい」

「ですが、東郷長官は?」

「少し用事があるから、後から行く」

「わかりました。では、お先に」


 誠一が「三笠」に近づくと、艦首に立っていた三笠がこちらに気づいたのか嬉しそうに手を振ってきたのでそれに気づいた誠一も手を振り、急いで「三笠」に乗り込んだ。

「お久しぶりです」

「ああ、久しぶり。…といっても、何週間も経ってないけどね」

「そうですけど…あの後何をしていたんですか?」

「少なくとも基本的なことは今までと大して変わらないよ。とはいえ昨日陛下に謁見して政治や軍事の特別顧問として働くことになったから、これから忙しくなるだろうなあ」

「陛下に謁見したんですか!?」

「うん。最初は緊張したけど、でも思ったより早く未来から来たことを信じて頂けたようでよかったよ」

「そうですか。ところで、その服装は?」

「ああ、これはその時にひとまず少尉に任官されたから着ているんだ」

「おめでとうございます、宮沢少尉」

「そんな、僕なんて海軍兵学校すら出ていないんだから、天ぷら少尉(階級だけ立派で、経験や技量が伴わないこと)もいいところだよ。…あれ、そういえば『三笠』ってまだ連合艦隊の旗艦だよね?」

「ええ。そうですよ」

「となると、その艦魂である三笠はさしずめ艦魂の連合艦隊司令長官」

「そんな…まあ、みんなにもたまに言われますけど」

「だとしたら当然、階級は大将ないし中将」

「え?ちょっと、何を言って…」

「これまでの無礼、どうか許して頂きたい」突然頭を下げた誠一に、三笠は混乱する。

「そんな、頭を上げてください。それと、敬語も無しでいいと最初に言ったではないですか」

「しかし、階級が七つも八つも上の相手に敬語無しというのはどうかと思いますが」


 誠一はわざと他人行儀に言ってみせた。すると三笠も負けじと

「ではこれは命令です。これから二度と私に敬語を使わないで下さい。いいですね?」と言った。これにはさすがに誠一も根負けし、言うとおりにせざるをえなかった。

「わかった。そこまで言うならそうするよ」

「…少尉の意地悪。今度こんなことをしたら、富士さんたちを呼んで少尉を全員でバルチック艦隊の二の舞にしますよ?」

「ごめん。謝るからそれだけは勘弁して。ところで、その富士さんたちは?」

「すっかり忘れていました。いま、呼んで来ますね」


 そう言うと三笠は一旦「三笠」を離れ、暫くして他の艦魂を連れて戻ってきた。

「暫くぶりだな。それと少尉になったそうじゃないか。おめでとう」(富士)

「久しぶりだね、元気にしてた?それと少尉任官おめでとう」(敷島)

「久方ぶりです。この度の少尉任官、おめでとうございます」(朝日)

「皆さん、有り難うございます。今後もよろしくお願いします」


 するとそこへ、東郷大将がやってきた。

「おお。みんなもいたのか」

「ええ。さっき三笠が連れてきてくれました」

「ところで少尉、それ以外に何か陛下と話はしたのか?」

「ええ。僕の設計した兵器のうち、陛下の御裁断でまずは15000トン級戦艦と5000トン級防護巡洋艦を四隻づつ建造することになりました」

「ほう、それはまた思い切った御裁断をなさったな」

「僕も驚きましたよ。ですが、これからはどんどん歴史を変えないと、対米戦争を避けるのは至難の業でしょう」

「そうか。私は艦魂だから大したことは出来ないかも知れないが、それでも出来る限りのことはしよう。だからお前も、決して日本を焦土にしてくれるなよ」

「もし戦争になったとしても、犠牲が少ないに越したことはないからね」

「日本の未来、頼みましたぞ。拙者も微力を尽くさせて頂くゆえ」

「私も、いざとなれば身命を賭して戦うつもりです。ですから、少尉もどうか自分の為すべきことに全力を注いでください」

「わかっています。一度歴史を変えてしまった以上、私としてもこの新しい歴史に骨を埋める覚悟ですしね」


 その時東郷大将がふと時計を見ると、いつの間にかかなりの時間が過ぎていた。

「おお、もうこんな時間か。そろそろ戻らないといかんな」

「そうですか。それでは、また後日」

「ああ。達者でな」

「また来てね」

「再びお会いできることを、楽しみにしております」

「できるだけ早く来てくださいね」

「わかった。じゃあね」


 そう言って二人は「三笠」を後にした。


東京に戻った誠一は、兵器の設計に加えて日本の国力、特に工業力を底上げするための法案作りに取り掛かった。これらはまとめて『第一次大日本帝国国力増強法案群』と呼ばれた。主なものは下記の通り。

 

『工業製品標準化法』

史実の工業標準化法(JIS法)にあたる。それまで工場やメーカーにより差があった工業製品の仕様や寸法などを出来る限り共通化し互換性を高め、生産性を向上させるだけでなくひいては有事の際に工業関係の統制をしやすくするべく制定。

 

『新税制法案群』

 当時の日本に少なからずいた貧困層(東北の農村など)の負担を軽くしナショナルミニマム(必要最低限の生活水準)を保障すると共に、富裕層の負担を増大させて貧富の差を現代に近い水準にすべく制定。所得税や法人税など、現代の税制の影響を大きく受けている。

 

『小作農救済法』

 地主から土地を半ば強制的に買い上げ、小作農に安く提供することによって貧困層の減少を狙った法律。内容はGHQが行った農地改革に近い。

 

『普通選挙法』

 選挙権及び被選挙権の保有者を増やし、民主化を促進するために制定。しかし最初から完全な普通選挙は困難と思われたため、第一段階として男子のみの普通選挙を、第二段階として女子も含めた完全な普通選挙を目指すことになった。

 

『指定型船舶建造助成法』

 政府が指定した型の船舶を建造する場合、その建造費用の一部を国が負担するというもの。史実で昭和十四年に選定された平時標準船に相当し、種類は貨物船や貨客船、果ては漁船と非常に多岐にわたる。最初は8000総トン級が最大だったが、後に少数ではあるものの24000総トン級(史実の「橿原(かしわら)丸」、後の空母「隼鷹」型に匹敵)なども建造された。なお同時にこれらの船舶を特設艦船に改造する時の設計図も秘密裏に作成されている。各級の要目と用途は以下の通り。

 

24000トン級 全長210m 幅28m 深さ14m

16000トン級 175m 21m 14m

12000トン級 157.5m 21m 10.5m

8000トン級 140m 21m 10.5m 

4000トン級 105m 14m 7m

2000トン級 70m 14m 7m

1000トン級 70m 10.5m 7m

500トン級 52.5m 7m 3.5m

250トン級 35m 7m 3.5m

125トン級 35m 7m 1.75m

25トン級 17.5m 3.5m 1.75m

 

 貨客船…500トン級以上の全級、貨物船及びタンカー…125トン級から12000トン級の各級、捕鯨母船…12000トン級以上の全級、漁船…1000トン級以下の全級

 

『国民年金及び健康保険法』

 国民の老後の生活不安及び医療費の負担を軽減すべく制定。当時は退役軍人やごく一部の企業にしか無かった年金制度や史実では大正十一年まで日本に全く無かった健康保険制度の整備を段階的に推し進め、最終的には国民全員が加入することを目標とした。

 

 後にこれらの法案のうち『工業製品標準化法』及び『指定型船舶建造助成法』等については大した混乱も無く議会で成立させることが出来たものの、『小作農救済法』は地主から、『普通選挙法』は一部の男性、特に富裕層からそれぞれ強い反対があり成立は困難を極めた。しかし最終的には勅令という最後の手段を用い、どうにか成立に至ったのである。


 誠一が過去に来てから暫くの間は兵器の設計や法律の整備などやるべきことが山のようにあり、休日も半ば返上して働いていたこともあって年月はあっという間に過ぎていった。また歴史改変は外交面にもおよび、韓国併合の中止(但し第三次日韓協約までは締結)、日露戦争において鹵獲した艦艇の安価での売却及びロシアとの関係強化が行われた。また、連合艦隊は常設化されている。


 そんな中、ついにこの日がやってきた。誠一が設計した最初の大型艦となった戦艦「大隈」の進水式(場所は横須賀工廠)である。誠一はこの艦の建造途中から何度か視察に訪れていたために船体を見た時の驚きといったものは無かったが、それでも自分が設計した戦艦が進水するとあって自ずと気持ちが昂った。ちなみにこの日をもって誠一は中尉に昇進し、服の階級章も付け替えられていた。


 まず命名式が行われ、「大隈」という艦名が発表される。それが終わるといよいよ船体を造船台に固定している支綱が切断されて船体が滑るように入水し、進水式の成功となるのである。


 進水が無事に済んで暫くすると、錨甲板のあたりが突然光りだした。その光はほとんどの人間には見えなかったが、艦橋にいた誠一には見ることが出来たし、それが何の光かも分かっていた。光が消えると誠一の予想通りそこに女性が立っており、その女性は身長が155cm程、髪は肩の辺りまで伸びており、外見の年齢は十八歳程度といったところであった。その後その周りにも多数の光が現れて三笠を始めとする艦魂が現れたので、誠一もそこに向かった。


「初めまして。この度進水した大日本帝国海軍大隅型戦艦一番艦『大隅』の艦魂、大隅と申します。皆様、何卒よろしくお願い申し上げます」

 そう言うと大隅は見事な敬礼をして見せ、誠一たちもそれに応じた。すると誠一に気づいた大隈が不思議そうな表情でこう言った。

「そちらの方は、艦魂が見えるのですか?」

「ああ。自己紹介といきたいところなんだけど、ここじゃあ人目に付いちゃうから会議室にでも移動してもらっていいかな?」

「わかりました」


 誠一は艦魂たちと共に「大隅」艦内の会議室に移動すると、早速大隅に自分の経歴などを説明し、他の艦魂たちもそれぞれ自己紹介をした。

「そうだったのですか。そんなことが…」

「ああ。僕も最初は信じられなかったけど、今はどうにかやっていけてるよ」

 そこで思い出したように、三笠が口を開いた。

「そうだ。せっかくですから今からここで大隅さんの歓迎会をしませんか?」

「私は大丈夫だよ」

「私も問題は無い」

「拙者も不都合はありません」

 と敷島、富士、朝日以下の多くの艦魂が参加を表明したが、誠一は

「ごめん。これから東郷大将と打ち合わせをしないといけないから、僕は参加できないや」

 と、参加を辞退した。

「そうですか…残念です。また第二期新兵器案のことですか?」

「うん。出来れば明治四十三(1910)年には一番艦を就役させたいからね」

「なら、わしも参加しよう」


 誠一たちが声のした方を見ると、東郷大将が立っていた。

「東郷大将!?いつから、どうやってここに?」誠一が驚きの声を上げる。

「なあに、気にするな。それにこうすれば君も安心して参加出来るだろう?」

「そういうことでしたら、お言葉に甘えさせて頂きます」

「お二人ともはい、どうぞ」三笠がラムネを差し出す。

「おお、すまんな」

「ありがとう」

「では長官、乾杯の音頭を」

「いや、君がしたまえ。この『大隅』は君が設計、命名したんじゃないか」

「わかりました。そういうことでしたら」

 そう言って誠一は立ち上がった。

「では、戦艦『大隅』の進水を祝って…乾杯!」

「乾杯!」


 その後歓迎会はさながら宴会のような様相を呈し、日本酒を何合も飲んで完全に酩酊した敷島が大隅だけでなく誠一や三笠にまで襲い掛かり、見かねた富士や朝日に力ずくで止められた後、最終的には組んず解れつの肉弾戦になった。その後疲労や泥酔などにより戦線離脱する艦魂が増えたため、歓迎会はお開きになったのである。


 戦艦「大隅」の進水から再び月日が流れた1908年3月11日、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が戦艦16隻を主力とする大西洋艦隊が世界一周の航海をする旨を発表した。しかしこれは史実通りの行動だったので、誠一たちは全く驚かなかった。むしろ大西洋艦隊に無い弩級戦艦である「大隅」と「豊後」を見せることにより将来日本に戦争を吹っかけようという気を無くさせようとさえしていた程である。


 そして大西洋艦隊がアメリカ西海岸の各都市にに入港していた1908年4月から5月にかけて、「大隅」と「豊後」、さらには新型巡洋艦である「石狩」が相次いで竣工。しかし、このことは外部には一切知らされなかった。


 それから半年近くが経った10月18日、ついに大西洋艦隊が横浜に入港した。その時の日米双方の艦隊編成は以下の通り。


米大西洋艦隊

戦艦 コネチカット、カンザス、ミネソタ、バーモント、ジョージア、ネブラスカ、ニュージャージー、ロードアイランド、ルイジアナ、バージニア、ミズーリ、オハイオ、ウィスコンシン、イリノイ、キアサージ、ケンタッキー(16隻、全て前弩級戦艦)

通報艦 ロンクトン

工作船 パンサー

給品船 グレーシャ、カルゴーヤ

病院船 レリーフ

給炭船 エイジャックス


連合艦隊

戦艦 大隅、豊後、香取、鹿島、富士、敷島、朝日、三笠

(8隻 うち弩級戦艦2隻、前弩級戦艦6隻)

装甲巡洋艦 浅間、常盤、八雲、吾妻、出雲、磐手、日進、春日

防護巡洋艦 石狩、笠置、千歳、音羽


 大西洋艦隊の将兵は、横浜に近づくと我が目を疑った。それもそのはず、てっきり就役していないと思っていた弩級戦艦が二隻も目の前にいたのである。それは人間だけでなく、艦魂も同様であった。

「姉さん、何で日本がドレッドノート級戦艦を二隻も持ってるのよ!私は聞いてないわ!」

 金髪を後頭部でまとめた「カンザス」の艦魂が怒鳴った。外見の年齢は十六、七歳といったところだろうか。

「カンザス、少しは落ち着きなさい。何でも今年の四月と五月に就役したんだけど、アメリカ本国に情報が入ったのもついこの間だったそうよ」

 こちらは戦艦「コネチカット」の艦魂である。外見の年齢は二十歳ほどで、金髪を肩のあたりまで伸ばしていた。

「何よそれ、まるで私たちを驚かせようとしてるみたいじゃない」

「実際そうじゃないかしら?それ以外に理由が思いつかないもの」

「こっちのドレッドノート級戦艦は一体いつ完成するのよ?」

「『ミシガン』が五月二十六日、『サウス・カロライナ』が七月一日に進水したばかりだから、完成するのは早くて来年か、ひょっとしたら再来年かもね」

 

 なお、実際にこの二隻の就役はそれぞれ1910年の1月4日と3月1日まで待たなければならなかったのだが、カンザスにはそれが許せなかった。

「ふざけてる。アメリカが日本に一年以上も遅れをとるなんて…」

「仕方ないでしょう?それに戦艦の数ではこっちが圧倒的に勝ってるんだから、それでいいじゃない」

「そうかも知れないけど…」


 結局、暫くの間カンザスは不機嫌なままであった。


 一方、その頃戦艦「大隅」の艦橋では、誠一と艦魂たちが集まって話をしていた。

「向こうの将兵は、さぞ驚いているだろうなあ」

 と誠一がしてやったりと言いたげな顔で言う。

「やはりアメリカの船にも、艦魂はいるのでしょうか?」

 新しく連合艦隊旗艦となった大隅が興味深げに聞いてきた。

「いるんじゃないの?アメリカの船だろうと、イギリスのだろうと」

「し、敷島さん…」

 

 実は、大隅は敷島が苦手であった。というのも、生真面目な大隅を敷島がしばしばからかっているからである。誠一や他の艦魂が止めようとしても、まるで効果は無かった。

「敷島。大隅が嫌がっているんだから、からかうのはやめてやったらどうだ?」

 このように富士が言ってさえ、

「え~?だって楽しいんだもん」

 この有様である。誠一は、思わず頭を抱えた。

「如何なさいましたかな?」

「いや、これからのことが色々な意味で不安になったからね」

「何の話?」

 誠一は「あなたのせいですよ」と言いたい気持ちをぐっとこらえ、適当にはぐらかした。


 こうして時は過ぎ、10月25日に大西洋艦隊は横浜を出港した。


 1908年に入り、誠一はさらに進んだ兵器の開発を開始した。通称「第二期新兵器案」である。主なものは以下の通り。

 

 二万トン級戦艦

全長175m 幅28m 喫水7m 基準排水量20000トン 速力30ノット

航続距離 15ノットで6000海里

主砲 50口径35.6cm連装砲四基 八門

副砲 50口径12.7cm単装砲十二基 十二門

装甲 舷側350mm 甲板105mm 主砲塔350mm

配置 艦首から一番及び二番主砲塔(背負い式)、艦橋、煙突二本、三番及び四番主砲塔


 第一次世界大戦時の主力戦艦として設計。甲板に厚めの装甲を施すなど、史実のジュットランド沖海戦で得られた戦訓がふんだんに取り入れられている。また副砲は砲架形式であり、将来高角砲への換装が可能である。起工から竣工まで三年を予定しており、1910年から毎年一隻ずつ起工する予定。艦名は「筑前」「越後」「出羽」「志摩」「伊豆」「飛騨(ひだ)」。


 三万トン級戦艦

全長210m 幅28m 喫水8.75m 基準排水量30000トン 速力30ノット

航続距離 15ノットで7500海里

主砲 50口径40.6cm連装砲四基 八門

副砲 50口径12.7cm単装砲十六基 十六門

装甲 舷側350mm 甲板175mm 主砲塔350mm

配置 二万トン級戦艦とほぼ同一


 予想される対米戦争時の主力戦艦として設計。基本的には「筑前」型の拡大版ともいえる艦であり特筆すべき事柄はないが、バランスの良い性能ゆえに対艦戦闘から空母の護衛など、幅広い任務に投入が可能である。建造期間は三年ないし三年半を予定しており、1916年から毎年二隻ずつ起工予定。艦名は「備前」「美濃」「安房」「豊前」「美作(みまさか)」「伊予」。


 中型航空母艦

全長210m 幅21m(船体)28m(飛行甲板) 喫水7m 基準排水量12500トン 速力30ノット

航続距離 15ノットで7500海里

高角砲 50口径12.7cm連装砲六基 十二門

機関砲 40mm四連装機関砲十六基 六十四門(ボフォース社のを参考にしたもの)

機銃 20mm単装機銃三十二基 三十二門(エリコン社のを参考にしたもの)

搭載機 艦上戦闘機三十六機、艦上爆撃機十八機、艦上攻撃機十八機、予備八機

エレベーター 二基(縦横各14m)


 艦隊航空戦力の中核として設計。飛行甲板がコンクリートで舗装されていたり、格納庫の一部が開放式であったり、また煙突は右舷にある艦橋と一体化した傾斜煙突であるなど、史実の「隼鷹」と「ヨークタウン」の合いの子のような外見である。建造予定期間は二年で、ネームシップは「祥龍」。


 六千トン級重巡洋艦

全長175m 幅14m 喫水5.25m 基準排水量6000トン 速力35ノット

航続距離 15ノットで6000海里

主砲 50口径20.3cm連装砲三基 六門

副砲 50口径12.7cm単装砲四基 四門

魚雷 53.3cm連装魚雷発射管 四基(片舷二基)

装甲 舷側105mm 甲板35mm 主砲塔35mm

配置 艦首から一番及び二番主砲塔(背負い式)、艦橋、煙突二本、三番主砲塔


 二万トン級及び三万トン級戦艦に次ぐ準主力艦として設計。副砲は将来高角砲に、魚雷発射管は両舷に発射可能な四連装発射管に換装可能である。1920年より建造を開始し、完成までに三年を予定。ネームシップは「白根」。


 四千トン級軽巡洋艦

要目 「石狩」型防護巡洋艦とほぼ同一

 

 水雷戦隊の旗艦として設計。船体は「石狩」型防護巡洋艦とほぼ同一であるが、機関を強化して速力を35ノットに引き上げている。また魚雷発射管は将来重巡洋艦と同じく換装を見越した設計がなされている。建造期間は二年を予定。なお、一番艦「勝浦」の就役と前後して、石狩型の四隻も本級に準じた艦に改装される。


 千トン級駆逐艦

全長105m 幅10.5m 喫水3.5m 基準排水量1000トン 速力37.5ノット

航続距離 15ノットで4500海里

主砲 50口径12.7cm連装砲二基 四門

魚雷 53.3cm連装魚雷発射管二基 四門(三連装のものに換装し、次発装填装置の装備も予定)

爆雷 爆雷投下軌条二基

配置 艦首から一番主砲、艦橋、第一煙突、発射管二基、第二煙突、二番主砲


 昭和二十年ごろまでの主力駆逐艦として設計。海が荒れても外洋を航行できる最小限の大きさにまとめられ、シンプルなデザインであり他の艦とも比べて量産性により一層配慮がなされている。兵装にはある程度の余裕があり、将来雷装や対空兵装の強化も十分可能である。建造期間は一年を予定。1920年に完成予定のネームシップは「秋風」。


 七百トン級潜水艦

全長70m 幅7m 喫水3.5m 基準排水量700トン(水上) 速力20ノット(水上)10ノット(水中)

航続距離 10ノットで6000海里(水上)5ノットで75海里(水中)

主砲 50口径7.6cm単装砲一基 一門

魚雷 53.3cm魚雷発射管 艦首四門 艦尾二門(魚雷十二本搭載)

潜航深度 100メートル


 潜水艦戦力の主力として設計。史実のガトー級潜水艦のように、集団での通商破壊を主な目的としている。航続距離や武装の搭載量よりも、騒音の低減や量産性に重点が置かれた設計である。ネームシップは「笠戸」。建造期間は一年程度を予定。史実とは異なり、潜水艦には島の名前がつけられることになった。


 330トン級護衛艇

要目 500トン級指定船とほぼ同じ 基準排水量330トン 速力18ノット

航続距離 15ノットで6000海里

主砲 50口径7.6cm単装高角砲一基 一門

機銃 20mm単装機銃四基 四門(増設予定)

爆雷 爆雷投下軌条一基


 外洋のシーレーン防衛用に設計。船体は小型だが、捕鯨船を基にしているため海が荒れても十分航行可能。また機雷や掃海具も搭載可能で、護衛や敷設に掃海、果ては輸送任務にも投入できる。艦名は樹木からとられ、一番艇は「桑」。


 250トン級護衛艇

要目 250トン級指定船とほぼ同じ 基準排水量250トン 速力18ノット

航続距離 15ノットで4500海里

主砲 50口径7.6cm単装高角砲一基 一門

機銃 20mm単装機銃四基 四門

爆雷 爆雷投下軌条一基


 沿岸及び近海のシーレーン防衛用に設計。船体の大きさの割りに高い航行能力を持っており、甲型護衛艦と同様に掃海や敷設、護衛など幅広い任務に使用可能。艦名は植物からとられ、一番艇は「東菊(あずまぎく)」。


 この他にも陸戦兵器や指定型船舶を基にした支援艦船や雑役船が多数設計されたが、それらは必要に応じて要目を公開することにする。


 日露戦争終結後、誠一は日本の国力を底上げするべく各種法律の制定を急いだが、対米戦を考えるとそれでもまだ十分とは言えなかった。そこで、外国の企業から技術を提供してもらうのと引き換えに、日本企業との合同で工場などの進出を認めたのである。この政府の通達に対し、フォードやダイムラー、ベンツなどの企業が名乗りを上げた。


 また日本軍も、民生用に転用可能な技術の条件付(資金や兵器の献納など)解放を行い、工業力の強化を図った。その結果、日本の技術力は世界水準に大きく近づいたのである。また後には自動車や家電製品の普及を加速させる土台にもなった。


 外交面においては、桂・ハリマン覚書に「アメリカの資金で満州を開発する際の工事はアメリカの技術指導のもとで日本企業に下請けをさせること」という条件を加えて締結したので、このことがさらに日本の工業力を高めることにつながり、また結果としてアメリカの軍事費が満州の開発に回され、アメリカは史実以上の軍拡を行うことが出来なくなった。


 そんな中、1911年10月に孫文率いる中国革命同盟会が反乱を起こし、これに呼応するように清の14の省が独立を宣言。翌年1月には孫文が臨時大総統となって中華民国臨時政府を成立させた。しかしその後、清国政府から革命鎮圧の命を受けた袁世凱が宣統帝(溥儀)を退位させる代わりに大総統に就任し、独裁を開始した。


 袁世凱の独裁をなんとかしてやめさせたい革命側に対し、日本は革命成功後に日本とあらかじめ決められた内容の同盟を締結するという条件のもとでの支援を約束した。そのおかげもあって孫文は1913年の第二革命において袁世凱の打倒に成功したのである。また史実(1915年)より早く袁世凱が失脚した結果、軍閥の跳梁を史実より抑えることが出来た。そして革命の成功後、日本と中華民国の間に「日中協約」が締結された。主な内容は以下の通り。


一、中華民国は地下資源(当初は主に鉄鉱石や石炭、後には原油やボーキサイトなども追加)を、日本は工業製品(当初は絹織物、後には自動車など)をそれぞれ優先的に相手国に輸出すること。


二、中華民国は国内にある日本(及びイギリス)の権益を保障すること。また、在留邦人を保護するための軍の指定地域への駐留を認めること。


三、両国はもう一方の国が第三国と開戦した場合、もう一方の国を支援するか、中立を守ること。


 またこの協約の締結後、日本は中華民国に軍事支援を行い、その中には中華民国向けに設計された軍艦の輸出も含まれていた。その要目は以下の通り。


 二千トン級軽巡洋艦

船体の要目 千トン級駆逐艦と同じ、但し船体形状の変更により基準排水量は2000トンまで増加。速力は30ノット

航続距離 15ノットで4500海里

主砲 50口径15.2cm連装砲二基 四門

機銃 20mm単装機銃四基 四門

魚雷 53.3cm連装魚雷発射管二基 四門

配置 千トン級駆逐艦に類似


 小規模艦隊の旗艦として設計。軽巡洋艦としては最小限のサイズであり、戦力的な価値は高くない。「寧海(ニンハイ)」「平海(ピンハイ)」の二隻が建造された。


 600トン級船首楼型駆逐艦

要目 日本の600トン級船首楼型駆逐艦と同じ


 日本の同型艦とほぼ同じである。但し機密の漏洩を防ぐため、一部設計変更(つまり艦としての性能は低下)がなされている。「丹陽」「衡陽」「恵陽」「信陽」「華陽」「汾陽」「瀋陽」「洛陽」の八隻が建造された。


 100トン級砲艦

全長35m 幅7m 喫水0.7m 基準排水量100トン 速力15ノット

航続距離 10ノットで900海里

主砲 50口径76.2mm単装砲一基 一門

機銃 20mm単装機銃二基 二門


 河川や沿岸の警備用に設計。外見は日本の250トン級護衛艇に似ているが、喫水が浅いために外洋を航行するのは困難である。「恵安」「正安」「臨安」「固安」「新安」「黄安」「吉安」「潮安」「成安」「泰安」「同安」「西安」の十二隻が建造された。


 辛亥革命の後、日本の支援を受けていた孫文が袁世凱の打倒を計画していた1912(明治四十五)年七月、日本国内で緊急事態が発生していた。明治天皇の持病であった糖尿病が悪化し、尿毒症を併発してしまったのである。そんなある日、誠一は東郷大将に質問された。


「陛下は…これからどうなる?」

「誠に申し上げにくいことですが…陛下は、史実通りになるとすれば今月29日の午後10時43分ごろ、崩御なさいます」


 誠一は、一言一言を搾り出すように言った。誠一にとっても、明治天皇は東郷大将と同じようによき理解者であり、どこの馬の骨ともわからぬ自分の話を信じ、自分がやろうとしていることに全面的に協力してくれた、必要不可欠な存在だったからである。明治天皇なくして今の誠一は、そして今の日本は無かっただろう。そう考えると、今はただ明治天皇の死を待つことしか出来ないことがどうしようもなく悲しかった。


「…そうか。しかし、陛下が崩御なさったとしても、君には今まで通りのことをやってほしい。まだ、やることは山ほどあるんだろう?わしも、出来る限りのことはしよう」

「はい。…ご協力、感謝します」


 その後明治天皇は史実通り崩御し、9月13日に東京・青山の帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)で大喪の礼が執り行われた。誠一は最初乃木大将の殉死を止めようかとも考えていたが、乃木大将が殉死に至った経緯を踏まえ、本人に任せることにしたのである。その結果、乃木大将は史実通り妻と共に大喪の礼の当日自ら命を絶った。


 一方そのころ、誠一には一つ気がかりなことがあった。最初は自分でも気が付かなかったのだが、東郷大将に「君と会ってもう何年も経つが、全然見た目が変わっていないな」と言われたのである。


 まさかと思って身長を測り、鏡に映った顔を見てみたが、なるほど現代にいた時と全くといっていい程変わっていなかった。身長はともかく、高校生の時から五年以上経っているのに顔が変わらないのはどうもおかしい。そう考えた誠一は軍民問わず何人も医者を尋ねて回ったが、体に異常はないとのことであった。


 困った誠一は訳が分からず途方に暮れたが、ふと艦魂も今の自分と似たような性質を持っていることに気づき、三笠たちに相談をするべく休みをとって横須賀に向かった。そして戦艦「大隅」の予備の会議室(実質艦魂たちの会議用)に集まってもらった艦魂たちに、自分がおかれた状況を説明したのである。しかし誰も、そのような話は聞いたことが無かった。


「もしかしたら、未来から来たことと関係があるのではないか?」(富士)

「とすると、大尉(この年四月の戦艦『筑前』進水と同時に昇進)はずっとこのままということでありましょうか?」(朝日)

「どの道、原因が分からないのでは手の施しようがありませんね」(大隅)


 結局得たものは何も無く、皆頭をひねったが結論は出ず、様子を見るしかなかった。誠一がこの理由に気づくのは、もっとずっと先のことである。


 陸海軍の兵器開発が一段落した後、誠一は将来空軍を設立するための準備にとりかかった。当時はまだ本格的な戦闘機など無いに等しかったが、誠一はイギリスの技術支援のもと、可能なら1915年には戦闘機を国産し、空軍の設立をしたいと考えた。というのも、あまり空軍の設立が遅くなってしまうと、陸海軍が勝手に別々のやり方で航空戦力を導入してしまい、互換性が無くなってしまうからである。国力に限界のある日本にとって、それは何としても避けなくてはならなかった。


 そこで艦船などの設計を一時期中断し、航空隊の編成や航空機の設計を行うことにした。もちろん最初は非武装の偵察機から始まったが、それらはあくまで技術力を上げるためのいわば練習に過ぎず、主力となる航空機は別に設計された。その主なものは以下の通り。


 四年式戦闘機(1915年実戦配備)

全長7.2m 幅7.2m 機体重量500kg 最大重量750kg 出力150馬力 最高速度185.2km

上昇限度5250m 航続距離555km 乗員一名

機銃 7.7mm機銃 二門(前方固定)


 第一次大戦時の主力戦闘機として設計。この時期には珍しい低翼単葉の機体で、運動性能よりも速度性能を重視した設計がなされている。なお、極秘に開発した機銃同調装置を装備している。


 四年式軽爆撃機

全長10.8m 幅14.4m 機体重量750kg 最大重量1250kg 出力200馬力 最高速度138.9km

上昇限度3500m 航続距離833.4km 乗員二名

機銃 7.7mm機銃 三門(前方固定二門、後方旋回一門)

爆弾 最大250kg程度


 初期の主力爆撃機兼偵察機として設計。この機体も単葉機であり、以後日本が生産する軍用機はほとんど全て単葉機となる。 


 この後は五年(戦時中はその半分)ごとに後継機や新機種を開発することになった。それぞれの機種が初めて実戦配備された年は以下の通り。


1920年 艦上戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機(兼偵察機)、双発爆撃機、水上偵察機


1925年 双発輸送機、双発飛行艇


1930年 四発爆撃機、四発輸送機、戦術偵察機(長距離航続が可能)


1935年 対潜水艦哨戒機(史実の三式指揮連絡機のような機体。空母への搭載も可能)、襲撃機(大口径機関砲や小型爆弾で地上の敵を攻撃する航空機)


1940年 四発飛行艇、急降下爆撃の可能な艦上攻撃機(兼偵察機)、オートジャイロ(固定翼機とヘリコプターの中間のような機体。弾着観測や対潜水艦哨戒に使用)


 1915年4月1日、こうした努力が実を結んで日本空軍が創設された。なお全ての航空機が空軍の管轄に入った訳ではなく、空母や水上艦の搭載機、陸上部隊用の輸送機や観測機などはそれぞれの軍の管轄となった。


 航空隊の編成については、当時単機でのドッグファイトが当たり前だった時代においていち早く二機(後のドイツ空軍で言うロッテ)や四機(同じくシュヴァルム)でのいわゆる「サッチ・ウィーブ」や「フィンガー・フォー」などと呼ばれる集団戦法を採用し、たとえパイロットの錬度や航空機の性能で多少劣っていても十分戦うことが出来るようにした。これが後の対米戦においてパイロットの消耗が激しくなり、一人一人の質も落ち始めた時に真価を発揮するのだが、それはまたずっと後のことである。

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