逃走
17
僕たちは逃げていた。戦略的撤退と言えば響きはとてもいいけれど、毒素の恐ろしさを知っているからこそ恐怖からただ逃げた、目を背けたような気がしてしまう。
「大丈夫でしたか?」
町外れの癒術会まで撤退した僕へとリアンが声をかける。
「なんとかね」
「あれは何なんですか?」
毒素を初めて見るリアンが不安そうに尋ねる。
「ボツリヌストキシン。ブラジルさんが持っていた、封印されていた毒素系の魔物よ」
答えたのはネイレスさん。僕もそうじゃないかと思っていけれど、やっぱりボツリヌストキシンで間違いはなかった。
「やはりそうじゃったか……」
バルバトスさんが呟く。
「あの魔物は野生の状態に戻ってしまってます」
メレイナは何か事情を知ってそうだ。
「野生?」
「そう、野生です。もっとも封獣士にしかその見分けがつかないんですけど……。ちなみに野生っていうのは召喚士が扱ってないものや魔物使士に操られてないものを指します。つまりワタシたちが普段狩っている魔物のことですね」
「でも【召喚結晶】の中の魔物が、解放されるのは召喚士が死んだときのみよね?」
ネイレスさんの言葉には焦りが浮かぶ。
「【下野】しない限りはそうです。もちろんブラッジーニさんはそんなことしないでしょう」
「当たり前よ」
「だからこそ野生の状態に戻ったボツリヌストキシン、正式名称毒素00は召喚士が死んだからこそ、解放されたといえます」
「でも待ってよ。ブラジルさんはセフィロトの樹に名前を刻まれていない」
「当然じゃ」
バルバトスが言う。
「あやつの名はすでにわしが武器へ名前を刻んだ」
「嘘! そんなの嘘よ。だいたい、こんなに早く武器を打てるの? 不可能でしょ? 粗悪品になんてブラジルさんの名は刻まれない」
「何を言っておる?」
理解ができないとバルバトスさんは呆れた様子だったけれど、やがて何かに気づて口を開いた。
「……そうか。お主は何も知らされてないのじゃな? わざと知らせなかったのかもしれんが……」
「どういう意味よ」
「アイトムハーレの結界ってご存知ですか?」
その問いに答えたのはリアンだった。意外だ。
「知らない」
リアンを睨みつけながらネイレスさんが答える。
「あの大草原にはそう呼ばれる結界が張られています。アイトムハーレが認めた人間はその結界内でなら、魂がない肉体を生き長らえさせることができます。もちろん効果はそれだけじゃないんですけど……」
「つまりじゃ。ブラッジーニは既に死んでいた。それでもあの中だけでは生きることができたというわけだ。もっとも結界から出てもすぐには死にはしない。結界の恩恵とでも言うべきか、少しは活力が保たれるようにしてある」
「じゃあアタシと一緒に過ごしてきたブラッジーニさんは何者なの?」
「嘘吐きテアラーゼ。お主の持つその武器に刻まれた名前こそ、ブラッジーニの真の名前だ」
驚愕の事実だった。
「そ、そんな……!?」
項垂れるネイレスさん。僕も言葉が出ない。
「アイトムハーレの結界は世界を欺く結界ですが、セフィロトの樹だけは欺けないんです」
「だからわしがあやつの名を刻む武器を打った。あくまでまだ生きていると見せかけるために。だから既に死んでいるあやつはブラッジーニはセフィロトの樹に刻まれないのじゃ」
ネイレスさんは動揺を隠しきれないのか、無言のままだ。
バルバトスさんが続ける。
「アイトムハーレが結界を張ったのは、毒素たちを世界に再び放たないためじゃ。きちんとした持ち主がいない【召喚結晶】は時間経過で再び解放されるからの。災厄を防ぐためには、召喚士の誰かが持ち続けるしか方法はない。しかし人の命は永遠ではない。だからこそアイトムハーレは草原に永久的に生き続けることのできる結界を張った」
「じゃあブラッジーニさんは、その役割を務めていたの?」
「それだけではない。永久的に生き続けることはブラッジーニにとって好都合じゃったのだよ」
「どういうこと?」
ネイレスさんの問いにバルバトスさんは、ネイレスさんの持つもう片方の武器を指し示す。
「正直者アリサージュ。それはブラッジーニの妹だ。彼女を元に戻すことこそ、あやつの願いだった」
「でも、武器に刻まれる名は……」
「死者のみじゃな」
ネイレスの言葉にバルバトスさんが続ける。
「しかしじゃ、仮にアリサージュも結界内にいるとすればどうじゃ? 彼女も死してなお、生きているとすれば?」
永久的に彼女も生き続けることが可能だ。おそらくアイトムハーレに利用される条件として、ブラジルさんはそれを提示したのだ。
「でもだとしたら元に戻すって何? セフィロトに既に刻まれた死者をよみがえらせるとでも言うの?」
「アリサージュはある日、何者かの手によってゾンビパウダーの片割れに接触した。放っておけばゾンビになる。そんなことはさせまいとブラッジーニは永久的な生によって対となるゾンビパウダーを探しておった。それがあればアリサージュは救われる。色々と弊害はあるがの」
「つまりブラジルさんは妹を助けて、ふたりで永遠にあの草原で生き続けるつもりだったの?」
「そういうことじゃ」
「でもそれはもう叶わない。誰かが、ブラジルさんを誘拐した誰かが……ブラジルさんを殺した! 草原から出れないブラジルさんのささやかな夢を奪った! 誰が……誰がこんなことを!」
ブラジルさんの死を認識したネイレスが涙を流し、行き場のない怒りをそのまま声に出していた。
「おそらく、ソレイル・ソレイルじゃろうな」
バルバトスさんが答える。
「なんで……そう思うのよ?」
ネイレスさんに代わってアリーが尋ねた。
「この街の近辺にドラゴンは棲息してはおらん。だとしたら竜殺しのソレイルが理由もなしにこの街に来るのはおかしい。基本的にあやつは竜がいる場所にしか姿を現さないのじゃ」
「それはただの憶測でしょ? 確証はないわ。それになんでここに誘拐したのかってのも不明だわ」
アリーが糾弾する。
確かにそれが分からない。何のために竜殺しはここにブラジルさんを誘拐したのか。
「わしにも分からぬよ。ただひとつは、あやつは最強になりたがっていた」
少しの間。
「ふむ、なるほど」
バルバトスが何かに納得したように言葉を紡ぐ。
「おそらく、それでここに誘拐したのじゃ」
「ひとりで何を納得しているのよ?」
アリーが説明しなさいと言わんばかりに急かす。
「ソレイルが誘拐したブラッジーニをここに連れてきたのは共同墓地が近いからじゃよ」
「それがどう繋がるでござるか?」
「ソレイルのかつての仲間の命日がもうすぐなのじゃ。ここであれば倒したらすぐにでも報告にいける」
「何の報告?」
ネイレスが震える声で尋ねる。
「奴は最強になりたかった。だから毒素を倒して最強だと報告したかったんじゃよ。もっともこれは憶測じゃし、だとしたら愚かとしか言いようがない」
「じゃあドラゴンが来た理由は?」
「ソレイルはブラッジーニが毒素を持っていることを知らなかったはずじゃ。つまりソレイルにそれを教えた誰かがいるということじゃな。これも憶測でしかないが、そやつはおそらくソレイルを恨んでいるドラゴンすらも唆した。齢を重ねたドラゴンは人語を理解できるからの。ソレイルがこの街に現れるとでも言ったんじゃろうて」
「でもドラゴンを唆した意味って何なのよ?」
「分からぬ。そもそも憶測じゃ。仮にソレイルを唆した誰かがいたとしても、その目的は分からぬのじゃ」
「ってか、それを俺らが知ったところでどうなるよ?」
アクジロウが呟く。
目的やら状況を確認するのは僕たちがなぜ起こったのかを整理し、冷静に対処できるようにしたいからだ。
まあそれをアクジロウに言ったところで理解してくれるか不明だ。所詮、アクジロウだし。
ネイレスやアリーがアクジロウに冷たい視線を送り、バルバトスがため息をつく。
「あれ……あれ……俺なんか余計なこと言った?」
「あんた、冒険者だっけ?」
アリーが呆れる。
「自慢じゃないが元・冒険者。今は鍛冶屋ってところだ!」
アクジロウが自慢げに言い放つ。
「やめて正解ね。さっきみたいな発言をする人間は大概死ぬから」
「なんという死亡フラッグ!」
「なんかいろいろ違うから。ってかもう喋るな」
呆れて僕も言い放つ。
「ひでぇだろ、そりゃ」
アクジロウの悪態は全員が無視した。
「うへぇ、ガン無視ですか、そうですか」
ぼやきも全員が無視した。
リアンだけ申し訳なさそうな顔をしたが、ちょっかいを出せば話が進まないのでそれが正解だった。




