動揺
11
ソレイル・ソレイルは動かなかったのではなく、実は動けなかった。
アジ・ダハーカが持つ特質――流血の代わりに虫が湧くというのはもちろん知っていた。
その知識があったからこそ攻撃を止めたと周囲がそう判断したのだとしたらそれは過剰評価。
ソレイルはそんなことおかまいなしに攻撃しようとしていた。そうしなければアジ・ダハーカを倒せない。むしろ虫が湧くのに攻撃が躊躇えばアジ・ダハーカの思う壺だ。
しかしいざ攻撃しようと思った矢先、自身の奥底に眠る悔恨の記憶が攻撃を躊躇わせた。
そのときに遺した記憶の傷が精神的外傷となって、ソレイルの動きを止める。
それは竜殺しという異名がつく以前の話だった。
その異名がつく前も、ソレイルは竜討伐愛好家でたった一度の敗北を除いてドラゴンとの戦いは全て勝利してきた。
しかしそのたった一度の敗北でソレイルの何かが壊れた。
敗北したドラゴンこそがアジ・ダハーカだった。ソレイルは唯一心を許していたパートナーをアジ・ダハーカの手によって失っていた。
それからだ、ソレイルが最強の魔物を倒すことに固執し、最強になると決めたのは。
それは最強になるために改造者になったディオレスと似ていた。
数日前。
自分の目的――本当に最強の魔物を倒す――を達しようとドラゴンを狩る中、最強の魔物がドラゴンではないことを教えられたソレイルはブラッジーニの誘拐を実行する。
毒素。それこそがブラギオの言うところの最強の魔物。ブラッジーニが死ねばその魔物たちは野に帰り、戦うことができるという。
それを倒してこそ最強。言われるがまま、ブラギオがユグドラ・シィルに用意した隠れ家にブラジルを監禁する中、アジ・ダハーカが襲来する。
それを唆したのもブラギオだとソレイルは悟った。ブラギオが何を企んでいるかはソレイルにとっては些事。最強を倒して自分が最強となる。
そのためにはアジ・ダハーカでさえも乗り越えなければならない。
幾度となく死地を乗り越え、ドラゴンを虐殺しまくった今の自分ならば大丈夫だろう。
事実、アジ・ダハーカを見るだけはなんともなかった。
けれど、いざ攻撃しようとすると過去の遺恨が攻撃を封じた。恐怖に震えた。久しく抱かなかった感情だった。
誰かを失うかもしれない、心が惨めに震えた。守りたいものなどもうとっくに失っているのに。
「うおおおおおおおおおっ!」
過去を打ち払うように咆哮を上げる。劈く声があたりを震わせた。ソレイルは今まで使っていた剣を【収納】する代わりに、使うことを躊躇っていた剣を取り出した。
こいつを倒さねば、最強どころの話じゃない。ソレイルはその一心で過去に打ち克つつもりでいた。
取り出したのは屠龍魔剣〔自己犠牲のギネヴィア〕。
握り締め、疾走。恐怖に打克つべく、未だ咆哮は続く。
ギネヴィア・シークエリこそ、竜殺しの名を与えるのにふさわしい気高き女だった。ソレイルは今でもそう思っている。
「最強になりたい」、ギネヴィアは何かあるごとに呟いていた。誰よりも強くなれば、誰だって守れるのだとギネヴィアは誇らしげに言っていた。
――だからこそ、ソレイルには未だ残る疑念があった。
「宿れ! 復讐の炎よ! 恐怖に打克つ炎よ! 宿れ!」
まるでそれが恐怖を打ち消す魔法、奮い立たせる勇気とでも言うのだろうかソレイルは魔剣に【中炎】を宿す。
最強を目指すと言ったくせにギネヴィアはかつてソレイルのアジ・ダハーカの討伐にはついてきてくれなかった。
ソレイルは未だにそれを疑問に思っている。
***
ソレイルは怒りに満ちた声でこう尋ねていた。
「カッカッカ!! 冗談だろう、最強になると言っていたじゃないか」
「分が悪すぎるのよ。いくらあなたとワタシでもあいつは倒せない」
「倒せる。俺とテメーなら」
確固たる自信にソレイルは満ちていた。ソレイルはこのときはまだ敗北を知らなかった。
「ワタシはあなたに無理をして欲しくない」
「カッカッカ。テメーらしくない。それは最強になれなくていいということか?」
「ええ、そうよ」
ギネヴィアの言葉に失望するソレイル。
ギネヴィアの瞳を見ればそれが嘘じゃないと理解でき、さらにソレイルは絶望の底に沈む。
「カッカッカ。見損なったぜ。だったら俺ひとりで行く」
ギネヴィアがなぜ臆病になったのか知りたくもなかった。
「ワタシは失いたくないものを手に入れたのよ」
だから、そんな呟きすらソレイルには聞こえなかった。
ギネヴィアが誰を失いたくなかったのか理解できていなかった。
もし、ギネヴィアの言葉が聞こえていたら、あるいは――、けれどそれはもはや幻想だった。
***
ソレイルは炎の宿る魔剣を握り、アジ・ダハーカの背中へと跳躍。
皮膚にずっと蠅が止まっているような感触を嫌がるようにアジ・ダハーカは身体を揺する。背中の剛毛を掴み、振り落とされるのを防ぐとソレイルはその背を登っていく。目指すは首の付け根。
ギネヴィアは死んだ、愚かな俺のせいで。
ギネヴィアは最強になるという夢すらも捨てた、俺のせいで。
だからこそ、俺は打克つ。
俺がギネヴィアの代わりに、最強にならねばならないっ! そのためにはなんだってする。
「アジ・ダハーカよ。俺の最強の糧になれ! そして死んでくれ!」
まるで死者に捧げる鎮魂歌のようにソレイルは呪いの言葉を吐き出す。
憤怒に燃える炎の魔剣が首の付け根へと突き刺さった。
本来なら正面から勝負するソレイルだが、恐怖と経験がそれをさせなかった。先ほどの【灼熱息吹】が原因だった。
【灼熱息吹】がギネヴィアを殺していた。自分の慢心と驕りがギネヴィアを焼き尽くした。
「俺が最強だっ!」
何度突き刺してもアジ・ダハーカは倒れない。
「死んでくれ!」
溢れ出る虫系魔物を憎悪のままに切り刻み、ソレイルはアジ・ダハーカを傷つけていく。
「死んでくれ! 死んでくれ! 死んでくれ! 死ねぇええええ!」
けれどアジ・ダハーカは倒れない。
***
再び、かつての情景が脳裏に蘇る。
アジ・ダハーカの【灼熱息吹】が、ソレイルの眼前に迫る。
今まで自分が攻撃を加えても動き出さなかったアジ・ダハーカの巨躯が突如動き出したことに意表を突かれたせいか、ソレイルは不意の一撃に動くことができなかった。
避け切れそうもない。けれどソレイルは諦めていなかった。
なんとかなる。なんとかする、と襲いかかる炎の息吹を前にして考えをめぐらす。
結果、なんとかなった。ギネヴィアがソレイルの前に飛び出して。
自らの身体を犠牲にして、ソレイルを灼熱から守っていた。
「どう……して……だ? 来ないんじゃなかったのか?」
焼け焦げたギネヴィアは何も語らず、ソレイルは何かを失ったことに初めて気づいた。
知らずに嘆いた。アジ・ダハーカなど無視して泣き叫んだ。
泣き止んだころにはアジ・ダハーカは消えていた。ギネヴィアの焼死体はなく、そこにただ一本の魔剣があった。
「最強の魔物を倒し、俺が最強になってやる」
その魔剣を握り締め、ソレイルは誓う。ギネヴィアの意志がすでに「最強を目指すこと」ではなくなっていたことにも気づかずに。
***
あのときの誓いを思い出してソレイルは先程よりも慎重になる。
ソレイルはここに来て進化していた。ランクアップしたわけでもレベルアップしたわけでもない。
それでも明らかについ先程までとは動きが違っていた。
誓約の言葉が恐怖を薄れてさせていく。ギネヴィアの代わりに目の前のドラゴンを倒してみせると復讐心が滾る。
首を駆けのぼるソレイルはふたつの口とひとつの目を持つ左の頭へと到達する。
手加減などもちろんしない。ソレイルは昂る激しさのまま、魔剣を突き刺した。憤怒の一撃が首ごと頭を切り落とす。
中央の頭に飛び移り、ソレイルは笑う。
「カッカッカッカ! やってやったぞ!」
狂ったように叫び笑う。まるで悪魔のようだった。
それでもアジ・ダハーカは再生する。
「カッカッカ! 愉快だ! 愉快すぎる! 俺の復讐心はまだ消えないっ! いいだろう、殺してやる! この際、俺の目的は後回しだ。俺は今こそ、復讐鬼になってやろう。だから、ついでに死ね!」
ソレイルは落下と同時に中央の頭を真ん中から切断。
「うおおおおおおおおおおおおっ!」
憎悪を乗せた気合の咆哮とともにさらにその刃は長い首を分断し、体まで到達。そのまま真横に切り裂き首をそり落とす。
それでもアジ・ダハーカは再生する。
「ふざけてやがるっ!」
怒号が風に乗る。それでも復讐鬼と化したソレイルの気は逸れてなどいなかった。
ソレイルはその驚異的な再生力に絶望など感じなかった。むしろそれはソレイルの気を高めている。
「なら死ぬまで痛めつけてやる。そして死ね!」




