始動
1.
僕の前に魔物が出現する。それは当たり前のできごと、だけれど僕は諦念にも似たため息を吐く。
僕の袖を引っ張ろうと目の前の魔物――ゴブリンが襲いかかってきた。
ゴブリンは醜悪な顔を持ち、眉間の少し上に角が生えていた。体長は個体差を無視しても僕の胸元程度と随分と小柄。冒険者の大半が初めに対峙し、そして初めて退治するモンスターだった。
「くそっ」
近寄られたことに毒づきながらも後退。袖を引っ張れなかったのを悔やむかのように地団駄を踏むゴブリンを尻目に距離を開ける。
ゴブリンのような奇行鬼種は僕たち冒険者が現れても勝手な行動を取ることもあり、比較的戦いやすい相手だが、油断はできない。
僕は右手で【造型】を発動し、鉄球を作り出す。【造型】は様々な球を作り出す、投球士の基本的な技能だ。
そのままゴブリンめがけて【速球】を繰り出す。【速球】は投げた球が速度に応じて威力を増すように補正がかかる投球士の基本的な技能ながらも、もっとも使いやすい技能だった。
繰り出された【速球】はゴブリンに届くよりも前にワンバウンド。完全に威力を殺してゴブリンに当たる。威力は当然ない。しかしそれを挑発と受け取ったゴブリンは、怒り出す。
「ゴブッ!」
こうなるとゴブリンは奇行に走ることはない。
逃げなければ僕はどうなるか容易に想像できた。まずゴブリンは僕の服を引っ張るだろう、ゴブリンがそうするのはかつての時代――β時代に召使として彼らを使っていた名残だという。
つまりゴブリンは「ゴブ」としか喋らないながらもその名残で、何か手伝えることはないか、と手伝いをねだり、袖を引くという行為に走るのだ。
ただ召使として使うのをやめ野生化したゴブリンたちのその行為は安い防具を破壊する迷惑甚だしい行為でしかない。しかもゴブリンたちは袖どころか冒険者の腕を引っ張り、小柄ながら強靭な力で引きちぎってしまう。
そうはなりたくない、僕は倒すことを諦めて【造型】によって【煙球】を作り出し、ただちに放る。【煙球】が狙い通りに地面に着弾。瞬時に煙を発生させる。この煙に害はないが、目くらましには充分だった。
僕はこの隙を突いて逃げ出した。情けない、とは重々承知のうえで。
今月に入って二十二回目の敗走だった。
***
「おい、見てみろよ。また落第者が戻ってきたぜ」
「ゴブリン一匹すら倒せないんだから笑えるよな」
僕を見て、宿屋にいるランク0の、つまりは僕と同ランクの冒険者が笑う。
一瞥したけれど何も言えず、カウンター席に座る。
「いつもの、お願いします」
そう言うとこの宿屋の女主人アビルアさんはココアを無言で置いてくれる。
笑われる資格――なんて自分で言うと悔しくてたまらないけれど、僕にはその資格があった。
冒険者はランク1になってようやく一人前。そうなるために僕たちはこの島で――原点回帰の島で新人の宴に合格する必要がある。
その試練の合格率は二年前までは百%。 二年前、僕が初めて試練に失敗した。
そうして与えられたのが落第者という烙印。それから二年間、僕は自由に試練を受ける権利を与えられたけど毎日、失敗し続けた。
今では僕は嘲笑の的で、僕が選択した投球士は最初に選択できる基本職のなかで一番不人気になってしまい、二年前から誰も選択しなくなった。
「知ってるか、大陸じゃ投球士系複合職はぞくぞくと転職しているらしいぜ」
「そりゃするだろ。誰かさんが、誰でもできるはずの試練を失敗したんだからな。ギャハハハハ」
「にしてもアビルアさんは優しいよなあ。寄宿舎から追い出された落第者に部屋を貸してやるなんて」
「でも、そうするしかないだろ。そういや最近聞いたんだけど初心者協会からも打診があったらしいぞ?」
「ああ知ってる知ってる。クビにされた誰かが暴露したなかにあったらしいな。餓死されても後味が悪いから、だっけ」
「あんたら、出ていきな!」
同時にバシンという音がなり、冒険者が倒れる。
いつの間にか移動していた女主人のビンタが冒険者を薙ぎ倒したのだった。
「いってぇ〜、何すんだよ。アビルアさん!」
「あたしの店では誰の悪口であろうと許さないよ」
「けっ、落第者の肩持ちやがって! もう来てやんねぇー!」
「好きにしな。あんたらがいなくてもこの宿屋はやってけるんだよ!」
アビルアさんがそう言ってのけると、ふたりの冒険者は逃げるように寄宿舎のほうへと帰っていく。
「あんたも毎日災難だねぇ」
「まあ、慣れっこですよ」
僕は今まで飲んでいたココアの代金をカウンターにおいてニ階にあがる。
慣れっこと言いつつも、微弱な精神磨耗はあった。精神力は僕たちが一部の技能を使ううえで必要なもので、磨耗によって精神力がなくなると死んでしまうこともあるらしい。
さっきの口撃で僕の精神は磨耗してしまっていた。
嘆息しながら僕は『205』と書かれた一番奥の部屋に向かう。ニ年前からそこが僕の家だった。入ろうとして扉が開いていることに気づいた。閉め忘れたのかもしれない。だとしても 大したものは置いてないので別にいいのだけど、それでも無用心だった自分に腹が立つ。開きっぱなしだった扉を引き、僕は部屋へ入る。
部屋は暗い。カーテンが閉まっているが窓は開いていた。こうも閉め忘れが多かったのか。でもそんなことはどうでもいいぐらい今日はもう寝たい。
いや今日に限らず、試練に失敗した日は、何もかも忘れるように寝たかった。今日も同じだ。
雲雀の外套を脱いで、肌着のみになって、そのまま死んだように倒れこむ。
変な感触がした。今まで触ったことがない、とてつもなく柔らかい感触。
「んんっ……」
同時に色っぽい声がした。声からして女性だろう。女性が僕の寝台に寝ている、と気づいた直後、その女性も僕が倒れこんだことに気づいたのだろう。目を開け、僕を直視した。
「キャアアア!」
悲鳴とともに彼女は僕の顎をめがけて、拳を振り上げる。僕もランク0とはいえ、冒険者の端くれ。
もちろん冷静に対処しようとした。でも、閉め切ったカーテンが開きっぱなしだった窓からの風によりめくりあがって、その窓からさし込んだ光で彼女の裸体が曝け出される。
それを直視してしまった僕は、ガードが疎かになる。僕も男だから当然だった。見とれてしまったのだ。その美しい顔と豊満な胸に。
彼女の燃えるような赤い瞳には殺意が宿っていた。赤い髪を逆立てた彼女の拳が僕の顎に直撃する。
「変態! なに、人の部屋に入り込んでんのよ!」
僕を殴り飛ばして怒号。
「このこのッ!」
床に倒れた僕に彼女は裸体のまま、足蹴にしてくる。
「ちょ……痛っ、待って。話を……」
「変態の言い訳なんて聞きたくない!」
僕をさらに踏みつけ、それは止まらない。
「ちがっ……第一、ここは僕の……部屋っ!」
あたかも時が止まったように彼女の動きが止まる。
「ここって『305』でしょ?」
「ここは『205』だって。どうやったら二階と三階を間違えるのさっ!」
「……うそ!?」
彼女は白い手折布長布で身体を包み、廊下へと出て、部屋の番号を確認する。そして部屋へ戻ってきて一言。
「間違えちゃった。テヘッ☆」
テヘッ☆なんて語尾をつけても許せるわけがない、はずなのに……そうやっておどける彼女の笑顔で僕は許しそうになっていた。
それでも気を引き締め、
「そういう問題じゃないと思うんだけど」
「まあいいじゃん。あんただって私の身体を見たんだから」
言われて、また思い出してしまう。無意識に意識しないようとしていたのに、手折布長布を巻いた彼女はむしろ裸よりも扇情的で僕は頬を赤くする。
「……それは不可抗力だよ!」
それがばれないように言い訳がましく言い放つ。
「でも見たことには変わりはないわよね?」
全てを見透かすように彼女はニンマリを笑う。
「ってことで貸し借りなし!」
はぁ、と思わずため息が出る。脱力してしまった。
「これも何かの縁だし、自己紹介しとく。私はアリテイシア・マーティン。アリーでいいわ」
差し出してきた手を握り、僕も言う。
「僕はレシュリー・ライヴ。レシュって呼ばれている」
「レシュってもしかしてこの島で有名な?」
「そう。自分でも言うのもなんだけど、……落第者だよ」
皮肉めいてそんなことを言うと、アリーの表情が少しだけ歪んだ。どことなく悲しそうな顔をしたけれど、まるでそれが錯覚といわんばかりにすぐに満面の笑みになって、
「私はこの島に修行に来たんだけど、そのついでにあんたを鍛えてあげるわ」
「いきなり何を言ってるのさ?」
「でもいい加減、あんたも島から出なくちゃ。言っとくけど私は放剣士よ。放剣士は投球士もかじってるから投球士の心得はあるの。それともなに? ランク2の私が教えることに文句があるの?」
文句は当然あった。突然、そんなことを言われても納得なんてできるはずもない。
しかし同時に僕はこれをいい機会だとだと考えてもいた。
大陸に渡ると、正確にはランク1になると副職をつけることが許される。
放剣士は本職が剣士、副職が投球士で構成される複合職だ。つまりアリーが言ったように、アリーには投球士の心得があるのだ。
「お願いします」と頭を下げた。そうでもしないと僕はランク0から抜け出せない。
「頭上げてよ。私たち、もう仲間でしょ?」
アリーが笑顔でそう答える。
「じゃ明日の朝、酒場の裏の広場に集合ね」
そう言ってアリーは手折布長布を巻いた体で三階へと上がっていった。
僕がアリーが脱ぎ散らかした肌着や、荷物に気づいたのは照明灯をつけてからだ。 もちろん、すぐさま気づいたアリーが取りにきた。ついでに恥ずかしさを紛らわすかのように僕を殴ったのはいい迷惑だった。
――それでも僕の日常は変わろうとしていた。