拾■収束
最終話
自分の部屋を出てからかなりの時間が経っているような気がするのに。私はどのくらいの距離を歩き、いま屋敷のどの辺りにいるのだろう?
この果ての見えない目隠しの中で……。
しかし、次の瞬間にはっとした。微かに前方の何処からか、床板を踏みしめる音が響いてきたのだ。
――誰かしら?
思わず足を止め、息を詰める。
「……おい。お前、何をしているんだ?」
不意に訝しむような声がかかり、私はびくりと肩を竦めた。低い……若い男性の声だ。深夜だからという配慮からか、僅かに潜められた、聞き慣れた声音。
「……義兄さん?」
私は恐々と声の主に問いかけた。
「一人で此処まで歩いてきたのか?」
そう言って肩に触れてきた温もりに緊張が解けてしまい、私はすっかり体から力が抜けてしまった。足を真っ直ぐに伸ばしている事が出来ず、両膝が“く”の字に曲がる。ぐらりと体が傾ぐのが判った。
「おい!」
弾かれたような義兄の声と共に、差し出された腕が私の体を支えてくれた。そのお陰で膝こそ付いたが、完全に崩れ落ちる事はなかった。
すると、急にふわりとこの身が浮き上がった。私は、あっと小さく叫んだが、すぐに人肌に包まれる。どうやら、義兄が抱き上げてくれたようだ。そして、彼がゆっくりと場所を移動しているのが振動で伝わってきた。
ガチャリとドアノブを回す音が聞こえる。義兄は再び足を踏み出し、数歩進んだところで私を柔らかい物の上に座らせた。手触りからすると、どうやらソファらしい。
「此処は……?」
「僕の部屋だ」
当然と言える私の疑問に、義兄は憮然として答えた。
「どうした? 解らずに他人の部屋の前で立ち竦んでいたのか?」
呆れた調子の義兄の言葉を聞いて、初めて自分が目的地に自力で辿り着けていた事を知った。しかし、私は返答に困り「そう、だったの」と、気の抜けたような事しか言えなかった。
「お前、こんな時間に一人で何をしているんだ。何処に行こうとしていた?」
それこそ“当然”と言わんばかりの義兄の問いに、私は一瞬、言葉に詰まった。
――本当に話しても良いのかしら?
その思いが私を躊躇わせる。何故なら、どうして義兄に会いたくなったのか、その理由を私自身が見出だせずにいるからだ。
漠然としすぎていて言い表せぬ、この感情。
切り出せずに沈黙していると、そっと温もりが頬に触れた。
――ああ、手だ。
指で輪郭を撫でられて、ゆるやかに心のわだかまりが解けていく。すると、今まで迷っていた言葉がするりと出てきた。
「義兄さんに……会いたかったの」
頬に触れる義兄の手が、ぴくりと硬直する。そんな彼へ畳み掛けるように、私は続けた。
「聞いて欲しい話があるの」
義兄はゆっくりと息を吐き、話を促すように今度は私の頭を優しく撫で出す。それを合図に、私もぽつりぽつりと心の澱を吐き出していった。
私はなにも、初めの頃から不登校であった訳ではない。
幼稚舎から大学までが併設されている女子校の、厳かな校内を行き交う凛とした教師達。教室では己と同じ年頃の少女達が天使のような微笑みを浮かべながら、小鳥の囀りのようにお喋りに興じ、時折ころころと鈴を転がすような声で笑っていた。
入学したての頃は、幾人もの少女達が私に話し掛けてきてくれたが、私の受け答えを聞いていくうち、一人また一人と徐々に離れていき、最終的に私は独りになってしまった。
どうやら、あの少女達にとって私のような人間は“異端者”であったらしい。
私も敢えて彼女達に溶け込もうとはしなかった。嗜好の違う者と無理に共にいても、心が死んでまう。そんな抜け殻になってしまうのは嫌だった。それならば、独りでいる方がマシだった。“孤高の人”と陰で揶揄されようと構わなかった。それこそ、こちらからも彼女達を“低俗な人間”と心の中で見下してやっていた。
それでも、孤独感は消せなかった。
“私は他の子達とは違う”と虚勢を張った。
めったに共に過ごさなかった両親への“私は一人でも平気”という、幼い頃から少しずつ蓄えられてきていたストレス。
“純心”を守る為に薄く塗装された鍍金は、尖端のような鋭い言動で容易く剥がされてしまう。だから“塗り潰す”事をやめて、敢えて言葉を“刻み込む”事にした。
でも――脆さは変わらない。
寧ろ、他人につけられた傷と自分でつけた傷とで身動きがとれず、痛手は以前の倍だった。
己の言葉で傷付くのは、もううんざり。
だからこそ、散るのなら若い内に散りたかった。
私の心はもう、長くは持ちそうになかったから――。
そう――たった“独り”でいるのならば。
「……高い天井や、広く続く空は怖いの。私は……独りなのだと思い知らされるから」
狭い世界で粋がっていた蛙は、やがて広い世界を知り――絶望する。
知らぬままでいる無自覚な恐怖と、知ってしまったが故の恐怖。幾つもの恐怖が循環され、吐き出し口が見付からない。その不安と怯えを知っている?
独りでは、とてもその恐怖に耐えられない。
でも義兄ならば――“彼”ならば、己と同じように生きてくれると……唯一、傍に居てくれると。
そう……本能が囁いたのだ。
「……独りは嫌なの……」
話ながらいつの間にか泣きじゃくっていた私の頭を、義兄は静かに撫で続けてくれていた。
「だから、お前は上を見ないんだな」
そう呟く彼の声音には、ささやかな優しさが滲んでいた。
〈了〉
ここまでお付き合い下さり、有り難うございました。
少しでも気に入って頂ける事を願って。
白月 拝.
(旧:蒼條 玄紫)