玖■追憶
生温い空気は倦怠感を誘う。
大袈裟に息を吐き出し、僕は煩わしげに寝返りを打った。小刻みに鳴る時計の音に混じり、ぱた……ぱた……という音が廊下から聞こえてくる。
――誰か起きているのか?
静寂が司る微睡みの中、僕の眠りを妨げたのは突然の強風だった。ひと時、物凄い勢いで空中を駆け抜けるや、それっきり。心地好い眠りに就いているところに、窓がガタンと大きな音を立てれば気鬱にもなる。
一度、頭が冴えてしまうと中々眠気はやってこない。暗がりにも目が慣れてしまい、 室内にある様々な私物や内装が気になり、一々目で追ってしまうという悪循環ぶりだ。
ベッドの中で睡魔を待つうち、僕は喉が渇いてきてしまった。
――仕方ないな。
僕は不満げにベッドから這い出し、スリッパを履いてドアへと向かった。金属製のドアノブはひんやりとしていて、寝起きの火照った体に現実を教えてくれる。ゆっくりとそれを回してドアを押し開け、僕はキッチンへと急いだ。
冷蔵庫を開けて常備されている水差しを取り出し、僕はコップの中へと注いだ。こぽこぽと気泡のような音を立て、コップは徐々に冷水で満たされていく。
見計らって水差しを戻し、口に付けたコップを一気に傾けた。冷えた液体が内臓を侵す。
僕は暫し、その余韻に浸っていた。
元々ただ一人の嫡子であった僕は、両親から何かにつけ期待感からくる指導を受けた。
しかし、過度な期待はストレスを生む。彼らに手をかけられるのが煩わしくて、僕は独力で必死に勉学に励んだ。彼らの執拗な愛情と、無遠慮な手配と詮索が鬱陶しかった。
尤も、その愛情とやらの中身は、ただ優秀な子供を育てたいという親の身勝手な思惑であった事は明白だ。
――化石のように古い人種。
僕は心の中で毒吐いた。
まあ、そのうちに両親は離婚し、僕は片親になったわけだが。
そもそも仮面夫婦もいいところだったのだ。十年も続いた事の方が奇跡と言えよう。
父子家庭になってからは、父親からの拘束が幾分か和らいだように思う。自己責任による勝手を許されている辺りがそうだ。僕の全ての道を親が決め、彼らの指示に入っていない事は決して許されなかった以前を思い出すと、今の境遇は考えられない事だろう。
しかし、長らく自我を抑圧されてきた僕は、自由を得ると同時に、今度は虚無感に襲われるようになった。何をしていても愉しいと感じられなくなってしまったのだ。
新しく義母と義妹が我が家に来てからは、かなり放任になってきたように感じた。
どうやら父は、突然出来た義娘が気になって仕方がないらしい。人形のように整った容姿の愛らしい女の子。幼い彼女の言うがまま、それに振り回されて、あれこれと世話を焼いているのだ。まるで義妹が我が家の女主人ででもあるかの如く。これを丸くなったと形容して良いものかどうか……。
しかし、そんな義妹の存在が自分の中の虚無を薄めてくれたのも事実だった。なにより、その独特な感性によって、彼女は僕の中から“愉悦”という感情を引き摺り出してくれたのだ。それだけでも充分に義妹は特別な存在といえた。
思えば、彼女にはもっと動いてもらった方が面白かったかもしれない。しかし、以前のように振る舞わせるには、失明を治す必要がある。失明を治すには……医師曰くの義妹のストレスを取り除かなくてはならない。だがまだストレス要因の解明には至っていない。
――堂々巡りだ。
僕は軽く頭を振り、自室へと戻っていった。