人工少女は電気鯨の夢をみるか
Twitter上の創作企画「空想の街・夏祭り」(企画設定のwiki→http://www4.atwiki.jp/fancytwon)に参加した作品を加筆修正したものです。
作中に企画の設定に準拠した表現があります。
一部、企画の他参加者さんとのコラボがあります。ご了承ください。骨董屋・神楽山洋子は原の別名義の執筆作品です。
「赤いタヌキ」うりゅうらいた(@_urt)さん
「オトトイ食堂」莢豆(@asimox330)さん
「似顔絵書き」日魚ときお(@tokyosanfish)さん
「怪談屋」かれきハナサカ(@873k)さん
「空想の街・夏祭り」のまとめはこちら↓
http://togetter.com/li/337397
【1日目】
夜も更け、街は静けさに沈んでいた。ほとんどの住人が眠りの国へと旅立ち、起きている者もひっそりと息をするのみの、そんな時刻に、街にまた一人の訪問者。
ふわ、と少女はある小さな公園に降り立った。ひらりと髪が風に舞う。背には巨大なパイプや管が這っていた。きょろりと四角い公園を見渡し、口が無音のまま、ここが、と動いた。
ふと、公園の隅に置かれた土管に目を止める。少女は白のワンピースが汚れるのも構わずにその土管の中へ潜り込んだ。少しして、その中から静かな寝息が漏れ始めた。
チパチパ、という小鳥の鳴き声に、目をこすりながら少女は土管の中から這い出した。昨日空から降りた時にはむき出しだった管や角は、キャスケットや膝丈のブーツで上手く隠されている。
「晴れ!」
空を見上げてぐうん、と背伸び。そして
「人がたくさんいる」
通りを歩く人々に目を丸くした。仕事へ急ぐ父親や、開けられた家々の窓から漏れる声に楽しそうに微笑む。そっか、と呟いて
「ユカタを買わなきゃいけないんだ」
ワンピースを翻して少女は歩き出した。
石畳をこつこつとリズム良く鳴らしながら少女は歩く。
「ユカタはシナモノ、シナモノはオミセ」
少し変わったアクセントで独り言。
「フクヤさん?それともユカタヤさん?」
誰も見ていないのに少しだけ首を傾げてみせて、少女は横道へと水路を飛び越した。
「南区。東西南北の南」
標識を見上げて少女は呟いた。飾り文字の標識には『南区』と大きく書かれている。
「ヒトが集まるのは南?真ん中じゃなくて?」
標識の隣の地図を見て、辺りを見回して、もしかしたら中央にはもっと人がいるのかもしれない、とびっくり。
「じゃあ、真ん中」
肩から下げたポーチをくるりとひるがえして、今度は中央区にむかって再び少女は歩き出す。
少女はきつね橋と書かれた橋を見つめた。古びた石の橋はどこか和風の趣のある南区の風景によく馴染んでいる。
「ユカタあるかな」
こてんと首を傾げた勢いか、ふと少女の目が一軒の店に止まった。何が気になったのか、じっと壁を見つめた目がやがて丸くなる。
「耳としっぽ!」
サーカスにもいなかったのに!
少女は驚いて、その場で小さくぴょんと飛び跳ねた。
≪赤いタヌキ≫
わぁっ…!お姉さんのスカートひらひら~!ふわふわくるくるの髪の毛、きれぇ~!紫色だぁ!
突然かけられた明るい声とはじけるような笑顔に、びくん、と少女は肩を揺らして少年を見つめ返した。
「紫色、きれい?」
笑顔で頷いた少年に、きょとんとした表情にじわじわと笑みが浮かぶ。
「私も赤い髪をすきよ」
ぎゅう、と両手を胸の前で握りしめて、少女はもう一度ぴょん、と飛び跳ねた。
ぴょん!ありがとう!! * 真似して跳ねれば額の髪も ぴょこんと揺れてるタヌキの子
真似して跳ねた少年に少女は嬉しそうに声をあげて笑った。くるりと回るとワンピースの裾も一緒に回る。踵で石畳をこつん!と叩き
「そういえば、」
ふと、表情を改めた少女が傍らの青年と少年を見上げた。
「ユカタを買いたいんだ。知りませんか」
「浴衣ですか。いい仕立屋さんがあるんですが、間に合うかなぁー。確か、この南区にも着物屋さん、あったかなぁ。場所、どこだったかなぁ!眼鏡屋さん御用達の…、ねぇ親方ぁ!」
「シタテヤ?」
帽子の下が小さくきゅる、と鳴った。ユカタを着なきゃいけない、フウセンを持たないといけない。シタテヤとは、なんだろう。ぱちぱち、と少女は二度瞬いた。
「古着屋だったかなぁ。噂の眼鏡屋さんが通うお店があるって噂が…。ブフッ。それって何とも怪しい話だなぁ!すみません、あまりお力になれなくて。」
「フルギヤ!」
それなら知ってる!と少女は嬉しそうに言った。
「大丈夫。ありがとう」
帽子を押さえて、少女はまるで舞台の女優がするように優雅なお辞儀をしてみせた。右手を前にひらり、左手は後ろに添えて膝を曲げて一礼。
「ユカタ買いに行きます」
スキップしながら少女はきつね橋を渡る。中央区に渡ると、一気に雰囲気が変わる。ごたごたした地区を分かつ細い水路をぴょん、と一跳び。
綺麗、綺麗、と呟いてふふと微笑んだ。勢いに任せてくるんとその場で一回転。すれ違った青年が微笑ましそうに浮かべた微笑には気が付かない。
「綺麗な紫の髪、彼とおんなじコトバ!」
たたた、と跳ねて、少女は今度はそのまま空へ飛びあがった。ごう、と音がして、めくれたスカートの裾からちらりとジェットが覗いた。
ふわりと、昨夜と同じように、少女は時計塔広場に降り立った。シタテヤ、と小さく呟き。時計塔の裏をてこてこ歩いて一つ一つ店を覗き込んだ。それぞれ雰囲気の異なる吊り看板にじっと目を凝らす。
ちょこまかと動く少女のスカートの下には、先程見えたジェットの影はなかった。
「ワタリ?」
何の音も聞こえなかったのに、少女はふと顔を上げた。狭い路地の中でかくん、と首を傾げて空を見上げる。みるみるうちにその目が丸くなった。
「うわあ!」
ぶわ、と生暖かい夏の風が吹き、上空に白鴉の群れが現れた。陽に透けて白い羽がきらきらと輝く。ざざあ、とさざ波のような羽ばたきの音。
「すごい!すごい!」
興奮状態で少女はぴょんぴょん飛び跳ねた。
「サーカスよりすごい!」
少女が飛び跳ねるたびに、振動で建物の窓ガラスがシャン、シャン、と鳴った。
渡りが終わり、急速に空は夜仕度を始める。時計塔広場から1本外れた通りに、少女は一人座り込んでいた。
「ユカタ、買えなかった」
煉瓦の塊に腰かけて、こまっしゃくれた様子で頬杖をつく。あんなに探したのに、シタテヤという単語を見つけられなかった。一体どこにあるんだろう。
「ユカタとフウセン。ルール違反はよくないこと」
爪先を見つめて呟く少女の眉は下がりきっている。伏せられたまつ毛が頬に影を落とす。じじじ、という音と共に、少女の頭上で街頭に明かりが灯った。夜が始まりかけている。ふるふる、と首を振って少女の頭上の帽子を握りしめたまま立ち上がった。
「公園に帰らなきゃ」
とぼとぼと、きつね橋を来た時とは逆に渡って、ふと、少女は俯いていた顔を上げた。すん、と鼻を鳴らす。キャスケットが頭をすべったのにも気が付かず、夢中で空気のにおいを嗅ぐ。やがて顔を上げた少女はきっと前を見つめて、すごい勢いで走り出した。
少し息を弾ませて、とあるのれんの前で立ち止まる。朱色の布に染め抜きの白文字で、大きく『オトトイ食堂』と書かれていた。すう、と一度大きく息を吸って
「美味しそう」
うっとりと呟いて、少女は引き戸に手をかけた。
弾む足取りで少女はオトトイ食堂を後にした。店に来る前のしょげた雰囲気は微塵もない。
「美味しかった」
にこにこしたまま公園を目指す。ふと、周りに人がいないのを確認して、少女は帽子を取って頭を振った。ふわりと髪が広がり、街灯の明かりに付きだした機械の角が浮かび上がった。
≪オトトイ食堂≫
女の子のお客さんなんて久しぶりだったねぇ。 !! あっ、しまった夜道に一人で出しちまったあたしとしたことが… 今からじゃ間に合わないかしら
…あらぁ、追いかけたけどあたしの目じゃもう見えないか…大丈夫かしら、提灯持たせてあげればよかった!
昨日眠った公園の土管に腰かけて、少女は静かな空を見ていた。夜風に髪をなびかせながら呆と上を見上げる。ひんやりとした土管は夏の夜に心地よい。
と、弾かれたように少女は西の空を見つめた。しずしずと、空から降りてきた何か---風船を興味深げに見つめる。公園にひとつ、青い風船が降りてきたのだった。
少女の注視をよそに風船はゆっくり地上2m程の位置まで降りてきた。そのままふわふわと漂いながら公園の外へ向かう。風船を見つめる少女の頭の機械からきゅる、と音がした。
「誰もいない、風船?」
少女は土管から立ち上がった。
「ヘンな街!」
見開いた瞳には、それでも面白そうな光が浮かんでいる。勢いよく土管から降りて、少女は公園の入り口へと歩き出した。
通りに出て、少女は大きな目をさらに丸くする。たくさんの風船がふよふよと空中を彷徨い始めていた。赤、黄色、橙、緑、青に紫。
「虹色」
なにかに導かれるかのように降りてきた風船は、なんの迷いもなくそれぞれが家々へと向かっているようだった。音もなく近寄り、扉に触れ、そしてそのまま壁を通過して室内へと消える。
「・・・すごい」
呆然と少女は呟いた。
誰もいない、しかし何かがいる気配に満ちた街を歩きまわって、少女はやっと満足したようだった。たくさんの風船を飽きずに追いかけて、この少女には珍しく少し足取りが重かった。
くあ、と一つあくびを落とす。いくらアンドロイドでも疲れることもあるのだ。
【2日目】
朝の陽ざしが落ちて、公園の遊具からむくりと少女は起き上がった。まどろむ様子も寝ぼけた様子もなく、そのまますくっと立ち上がる。ワンピースの汚れをはらって、膝の上に置いていた帽子を深くかぶった。
「今日こそユカタとフウセン買おう」
目を細めて空を見上げると
「いい天気」
と呟いた。
昨日ほど急ぐ様子もなく、少女は中央区へ向かって歩いていた。昨日も多いと思ったのに、今日はもっと人の増えた通りをきょろきょろと歩く。物珍しそうにショーケースを覗くのでちっとも先へ進まない。歩く人々はやはり和装が大半で、洋服のままの少女はひどく目立った。少女は自分の服を見下ろし、眉をしかめて
「ルール」
とだけ呟いた。
時計塔広場に到着すると、少女の目は時計塔の下の一角に吸い寄せられた。色とりどりの風船が青空をバックにゆらゆらと揺れている。明るい黄色ののぼりには「風船配布所」と書かれていて、今も机の前に座った女性が、子供へと風船を渡しているところだった。
「やった!」
ぱあっと顔を明るくして、少女は駆け出した。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
たたたっと走りよって声を上げた少女に、机の女性は軽く頭を傾けて答えた。
「風船一つですね。何色がいい?」
「何色?」
きょとん、と浮かぶ風船たちを見つめて首を傾げる。
「何色、何色」
呟いて視線を走らせて
「あれ」
指さしたのは白い風船だった。すかさず女性の手が支柱に結わえられた紐を解く。
「はい」
「ありがとう、ございます」
受け取った風船を握って、真面目な表情で少女は女性に頭を下げた。
時計塔広場で貰った風船を、やっとこさ右の手首に結び付けて少女は歩いていた。手を揺らすたびにつんつんと風船が揺れるのを、楽しげに見つめる。時々、たたたっと走りだしてみる少女を、行き交う人々が微笑ましそうに見やった。
≪骨董屋≫
ふらっと入った細い路地の奥に、なにやら歪なシルエットが見えて少女は首を傾げた。
「なんだろう?」
近づいて少女はまじまじとそれを見つめた。枝という枝に服がかけたれた大きな楠の木。少女は一際大きな枝に掛けられた看板をゆっくり読みあげた。
「クスさん」
ふと横に視線をずらして、そして少女は枝に子供用の浴衣が下げられているのを見つけた。
覗きこむと、楠の木の裏には古びた日本家屋があった。
「ヒラヤ」
脳のデータベースにヒットした単語を少女が呟く。引き戸の上の看板には墨痕鮮やかに骨董屋、とだけ書かれている。どちらにも人の気配はしない。
少女は木を見上げて、骨董屋を見て、再び浴衣を見上げた。
「どうしよう」
少女はゆっくり吊り下げられた浴衣に触れた。縮緬の白地にピンクや青や黄色の蝶が舞ったそれは、少女のサイズにぴったり合いそうだった。骨董屋を覗き込んで、楠木の周りをを一周してみて、それでも人の気配がしないことに少し落胆して、少女は踵を返した。
踵を返しかけて、しかし突然少女は振り向いて骨董屋を見つめた。
引き戸は閉められており誰の気配も感じられなかったにも関わらず、扉を穴が開くほどじっと見つめた少女は、ふいにつかつかっと歩み寄り勢いよく戸を引いた。
がらがらがら、と大きな音を立てて開いたそこには、真っ白な髪の子供が目を丸くして立っていた。
紫の髪の人工少女と、白髪の少女はしばらく無言でそこに立っていた。片方は興味深そうな、片方は怯えきった様子で。やがて時間がたつにつれ、怯えていた白髪の方の少女の体から少しずつ力が抜けていった。
「お客さま、ですか」
蚊の鳴くような声に人工少女はうん!と返事を返す。
「ユカタが欲しいの」
「あ、あれは」
小柄な少女はおどおどと視線を木へ向けて
「敦のお店だから、私は」
「アツシ?」
「あ、でも、お金もらえたら別に、」
「オカネはあるよ」
「そう、なの?」
「どれ、が欲しいの?」
「あれ」
指さした浴衣を見やって白髪の少女は小刻みに頷いた。
「あれ、あれなら、ひゃ、ひゃくクルークあれば」
「クルークはないの。これでいい?」
「うええ?」
ポシェットの中から無造作に差し出された金貨に、白髪の方の少女が驚きの声を上げた。
「こんなの、お釣り足りないよぅ」
「んー、いいよ」
「ええ?」
「たくさんあるからあげる」
着てもいい?と、わくわくと浴衣を降ろす人工少女に、白髪の少女が困ったように瞬いた。
「だめ?」
「う、うー。いいけど、」
「ありがとう!」
にこっと嬉しそうに笑って少女は浴衣を抱きしめた。
は、隼人に怒られる、と半泣きで呟きながら金貨をしまう少女をよそに、人工少女は手際よく浴衣を着ていった。背中の管や足のチューブを上手く隠すように着て行く。
「ぴったり!」
満足そうに呟いた人工少女に、後ろから青い布が手渡された。
「なに?」
首を傾げた少女に、どこかむっとした表情で青いバンダナが握らされた。
「その帽子、浴衣に、あ、合わないでしょう」
少し驚いて、しかしそのまま大人しくバンダナを被る人工少女に白髪の子は得意そうな顔をした。
「その色、いいと、思う」
「貴女は何ていうの?」
バンダナを付けて、人工少女は初めてはっきりと白髪の少女の顔を正面から見た。
「え、」
「名前教えて」
眉を下げ、きょろきょろと視線を泳がせながらも、白髪の少女は「ウロ」と答えた。
「ウロ」
人工少女は鸚鵡返しに答えた。
「ね、ねえ」
未だ視線を彷徨わせながら、今度はウロが口を開いた。
「あなた、貴女は”何”なの?」
だって、気持ち悪くない。
続けられた言い訳めいた言葉に人工少女は少しだけ目を丸くした。
「私はアンドロイドだよ」
快活に答えて、彼女は笑った。
人工少女はスキップで街を行く。
ざわざわどこか浮足立った空気に少女はにっこりと一人笑った。手には買ったばかりの風船飴。パリ、と飴を噛んでまたスキップ。
「楽しいわ」
独り言さえ浮かれた音。
≪怪談屋≫
ふと、少女は後ろを通り過ぎた男を振り返った。山高帽をかぶってひょろひょろ歩く後姿にこてん、と首を傾げる。
「見えるし聞こえるのに、ここにいない?」
変なの。
と小さく少女は呟いた。
これからどうしようかなあ。
飴を食べながら少女は呟いた。銀氷も出店もほとんど回ってしまった。他に自分が「行きたい」ところなんてあったかどうか。浴衣の袖を揺らして考え込んだ後、少女はそうだ!と顔を上げた。
とたんに嬉しそうな表情になって、少女は勢いよく走りだした。昨日優しく笑ってくれた人、嫌いなものは?と聞いてくれた人。
「優しい人!」
南区へ、正確にはオトトイ食堂へ。走りながら少女は笑った。
≪オトトイ食堂≫
死人さんには辞世の句、生きてる人にはご飯にお汁…と、あら、昨日の子じゃぁないかぇ!お散歩かい?とにかくお入り、冷たいソーダを出したげよう。おなかは減っちゃあいないかい?今ならとろろのお汁があるよ。
ソーダの一言に少女はわあ、と歓声をあげかけて、慌ててありがとうございます、と綺麗なお辞儀をしてみせた。椅子に腰かけて飴を置く。データベースを探るも該当せず、結局とろろ?と首を傾げた。
ふふふ、女の子は大好きなんだいくらでも甘えて頂戴ね…おや、とろろ知らないか?おいもを摺ってお出汁でのばした奴だ。ご飯がまだなら食べていけばいい、お米もお菓子もたーんとある。あはは、がっつかないの!
とろろ、美味しい!少女は歓声をあげた。本当はご飯食べなくても平気なの、だけど貴女のご飯はとても美味しいから食べたいの。頬にご飯粒を付けて少女はにっこりと笑った。今日浴衣を買ったの。これ。
食べなくて平気?や、それはよくない、自分じゃ平気と思っても体がしなしなになっちまうよ。こんなご飯でいいならちゃんと食べにおいで、いつでも開いてるんだから。あら、かわいらし。
嘘じゃないよ、平気だもん。少し視線を揺らして少女は答えた。それにいつまでこの街にいるのか分からない。それでね、この浴衣はね、ウロから買ったの。街で名前を教えてくれたのはウロが初めてなんだ。
そう、お前さん旅の子か。だったらなおさらお食べ、ウロちゃんも心配しぃよ?ウロちゃんは優しい?
ウロのことは、よく分かんない。友達じゃないよ、きっと。頬にご飯を付け、真面目くさった顔で少女は言った。心を見付けるまでこの街にいなきゃいけないの。お姉さん、心ってどうやったら見つけられるのかな。
最近の子は難しいのねぇ…心…うぅん、あのね、ご飯を食べると美味しいってお前さん言ったじゃない、あたしのお店を選んでくれたじゃないか。もう「心」は持ってると思うな。 とりあえず、ご飯粒はお取りよ、ほら。
むう、ありがとうございます。ご飯粒を取ってくれた指を目で追いかける。心、もう持ってるのかなあ。少しだけ眉を下げて少女は女将を見上げる。だってね、私、アンドロイドなの。
(パクッ)む、ご飯固かったか。あのね、ここの外じゃ道具にも心があるの。アンドロか餡かけか知らないがお嬢、好きや嫌いは立派な心、わからないからって粗末はいけない。…情けない顔しないの、ほらできた。
一瞬きょとんとして、少女は首をすくめて笑った。お姉さんが言うならきっとあるんだ。たっ、と椅子から降りて歌うように言って、微笑む。美味しかったです、それにとっても嬉しかった。オカネはいくら?
こんなかわいこちゃんからお金は取れないよ、そのかわりだ、あたしの名前も覚えておくれよ。「ひよ」っていうんだ。お前の”お友達”にさしとくれ。まだわかんないか、まぁおいおい確かめてくればいいの。
ひよさん。ぽつん、と呟いて少女は笑った。ひよさんはお友達ね、私の初めてのお友達!私は!と言いかけてふと言葉を切って、私は名前、名前。名前、ない。きょとんとして言った。今まで気づかなかった。
名前、ないのかい?そらぁ不便だね、人に名乗れないだろう。じゃあ勝手に読んでもいいかい?それともここの街の言葉じゃいえないのかぃ?
サーカスではね、アンって呼ばれてた。少女は首を傾げて言う。だからね、アダナなんだと思うんだ。でも本当の名前、あったはずなのに。忘れちゃった。瞬いて、少女は呟いた。ひよさんは、私をなんて呼びたい?
サーカスね…あたしも一時いたけど、うぅん、変えましょ 。誰かと一緒じゃ無粋だわ、そうだ…髪が綺麗な紫だから「ツー」にしよう、海向こうの私が昔、サーカスから逃げた場所での言葉だ。紫って意味だよ。
ツー!少女はぱあっと、それこそソーダを飲んだ時よりも嬉しそうに顔を輝かせた。紫、ツー。嬉しい!ひよさんの友だちの私はツー。ありがとう!ぴょんと跳び上がってくるりと回って、一礼。
あはは、すごいねぇ軽業担当だったのかい!見事見事!あたしは”ひよ”で、あたしの前ではお前さんは”ツー”、友達だよ。忘れないでね、指きりだ。この街にいるときはご贔屓にしてね。
指切りげんまん嘘ついたらソラフグの群れ、指きった!忘れないよ、絶対!そう言って少女はまるで舞台の上の女優のように礼をした。ひらりと浴衣の袖が舞う。おやすみなさい、ゴチソウサマ!少女は食堂を後にした。
おやすみよー、夜道に気をつけなぃ。いい夢を!…名前がないのはつらいよねぇ、今どきでもあんな子がいるとは、この世はまだ面倒なンだね。ねえ、ひばり。
名前、名前。ツー。呟きながら少女は街中を駆ける。昔、ずっと昔、あんな風に誰かが笑ってくれたことがあった。君の名前は。ああ、誰だろう!焦れた少女は背中のジェットで空へ飛び上がった。覚えていない、思い出せない。彼は誰。もどかしい気持ちのまま、走りながらジェット機を出す。勢いよく少女は空へと舞いあがった。
南区から一気にジェットで飛んできた少女は、時計塔に沿って広場に勢いよく着陸した。外見よりずっと重い少女の重みで、ずうん、と広場に音が鳴る。
ふいにはっとして、少女は広場の片隅を見つめた。呆気にとられたように少女を見ている人が、一人。
≪似顔絵描き≫
…これは、あれか。『親方、空から女の子が降ってきた』とか言えばいいのかな…?文字通り『降って湧いた』少女を見つめ、私は固まってしまった。この街では空を飛ぶ連中はちらほらいるが、さすがにジェットで飛んで来る子は初めて見た。
ぱち、と少女は瞬いた。少女のデータベースには色んな知識が詰まっているけど、こんな時のマニュアルは流石に載っていない。どうしよう、と少女は首を傾げた。とりあえず。「こんばんは」少女は舞台で見せるような綺麗なお辞儀をした。
「…ああ、こんばんは」目の前の少女が丁寧にお辞儀をしたので、こちらも挨拶をした。…紫の髪が夜の風景に溶け込んで、幻想的だなとぼんやり考えた。しかし…「…こんな時間にどうしたんだい」少女が出歩くには遅い気が。
こんな時間?少女は再び首を傾げる。
「今は、ただの夜でしょう。私はご飯を食べて来たの。貴方は何をしているの?」
目の前の人物の持つ道具に、ふと目を止める。
「エカキ、さん?」
「夜にもレベルがあるんだよ。深い夜に小さな子が出歩くのはオススメ出来ない。…ああ、ここで似顔絵描きをやってたんだ。もう店じまいをしてたんだけど…」
少女をちらりとみやる。
「そうだな、簡単なものなら何か描こうか」
夜のレベル。前にもどこかで聞いた言葉だった。少女は眉間につと皺を寄せる。
「ここにいない人でもいい?」
ふいに口をついて出た言葉に、少女は驚いたように口をつぐんだ。ゆっくり俯いて再び顔を上げる。
「遠くにいる人の絵。描いてもらえますか?」
「ここにいない人。遠くにいる人。」
口に出して確かめる。
「…君の話を聞きながら描くことになるな。似せれるかどうかわからないけど、それでもいいなら」
私は一度仕舞ったペンの箱を取り出した。
ペンを取り出した絵描きの姿に少女は少し顔を明るくした。
「よろしくお願いします」
今度はゆっくりと頭を下げる。何故彼を描いて欲しいのか、彼が誰なのか分からないけれど。「でも描いて欲しい」
少女の言う『彼』を描くのは、難解だった。と、言うのも、外見に関しての情報が全くなく、ほぼ『ニュアンス』のみだったからだ。そこで、声のトーンや、癖などをこちらから質問することにした。
声が高いなら、きっとそんなに体格は大きくない。よく笑う人なら頬骨の辺りはふっくらしてるはず。そうやってゆっくりと、彼女の中にある『彼』を拾っていった。
絵描きは我慢強かった。少女のおぼろげな記憶を慎重に拾い上げ、それをそっと紙の上に乗せていった。
「彼を、君はどう思ってるの?」
絵描きの質問にまるで用意されていたかのように答えが滑り出る。
「私を、一番愛してくれた人」
彼女の答えを聞いて、私は全体を少し書き換え、修正した。愛を注いでくれる人。それならば。…彼女の中の、『彼』はきっと、笑顔のはずだ。それも、とびっきり優しい顔の。
「これで、どう?」
見せられた絵に、少女はふっと息を飲んだ。
「思い出した」
震える声で、少女が呟く。
唇が戦慄いて
「夏樹、」
アンドロイドの少女の目から初めて涙が零れ落ちた。
「ああ…大丈夫?」
泣き出してしまった少女の背中を、優しく撫でた。きっと彼女にとって、『彼』はとても大事な人なんだろう。この絵を描くために聞いた全ての言葉が、優しさで溢れていたから。
『表面を描くのではなく、その奥にあるモノを描くんだ』…似顔絵描きに、必要なもの。それを教えてくれた人の言葉が、脳裏を過ぎった。
あたたかい手に、優しい言葉に、絵の中の笑顔に、夏樹がいるの。少女は目から涙を零しながら言った。夏樹は私を愛してくれたのに、私はそれを全然覚えてない。そしたら胸が痛い、すごく痛い。これが、心?
「心?君は自分には心がないと思ってたの?」
まるでオズの魔法使いに出てくるブリキのようだと思った。
「さっきから、笑ったり泣いたりしてるじゃないか」
私は少女の涙を指で拭った。ぽろぽろとそれは、ビーズのように闇に零れてゆく。
「ひよさんもそう言ってた」
涙を拭う絵描きに、少女は泣きながら笑いかけた。
「この街はみんなヘンだけど優しい」
貰った絵を抱き締めて、少女は言った。
「夏樹の絵を、ありがとうございます。オカネ、いくら払えばいい?」
「あぁ、お代ならいいよ。私も思い出したから」
大切な、言葉を。
「さぁ、もうお帰り。夜もふけてきた。今この街はちょっと物騒だしね、早く帰った方がいい」
「貴方も要らないの?」
少女はきょとんと呟いて、絵を抱き締めたまま立ち上がった。
「この位の”物騒”なら私はヘイキ。絵描きさんに何かあったら助けてあげる」
ちょっと首を傾げて「ありがとう」一礼して、少女は歩き出した。
【3日目】
今朝も公園で少女は起き上がった。すこし腫れた目元をこすりながら空を見上げる。左の手首に結んだままの風船がゆらゆら揺れる。昨日色んな人に言われたことを思い出しながら少女はあてもなく歩きだした。今日は何処へ行こう。
てくてくと少女は水路に沿って歩く。足は前日と同じく中央区への道を辿るが、思考は中を漂っている。
涙、美味しいと言った自分、ひよさんの笑顔、絵描きの指、夏樹の笑顔。
「でも私が心を持ってるならどうして」
どうして、武器が取れないんだろう?足を動かしながら空中を見つめて、少女は思考に沈む。
≪神楽山洋子≫
ふいに、少女は自分のゆく先に人影があることに気が付いて足を止めた。夕陽のような美しい橙の浴衣に黒髪をゆらす女性。“見えて聞こえるのにそこにいない”。
「こんにちは」
「こんにち、は?」
かけられた挨拶に首を傾げてお返事。
「久しぶりに帰ってきたんだけど、街は変わらないねえ」
辺りを見回して女性は歌うように言った。
「あなたは旅の子?」
「うん、私は旅の子」
「そう。実は一つ約束が反故になってしまったの。もし良ければ今日一日、私と遊ばない?」
差し出された手を見つめて、しばし思案して、少女はこくりと頷いた。
「お姉さんの名前はなに?」
「私?洋子というの」
つないだ手を揺らしながら洋子は少女を見返す。
「少女ちゃんの名前は?」
「私は、」
言葉に詰まって何も言えなかった。
「ひよさんには普通に言えたのに」
「名前を?」
「・・・名前がないこと」
「名前がないんじゃ不便ねえ」
洋子が軽く呟いた。
「不便じゃないよ」
「でも寂しいでしょう」
「寂しいの?」
「寂しいよう」
それでね、寂しいのは不便よりもっと大変なことだよ。少女を覗き込むように、洋子が微笑む。少女には彼女の言うことがよく分からなかった。
「よく分からない」
「そっかあ」
首を傾げた少女に、洋子が苦笑した。西区沿いの道だからか、徐々に建物は洋風になってきている。気の早い出店がちらほらと立ち始めていた。
ふわり、と漂った焼きおにぎりの匂いに少女がくん、と鼻を鳴らす。
「食べたい?」
くすりと笑った洋子にハッとして、少しはにかんで頷く。
「一個食べたい」
「了解」
おじさん、ひとつね。自分の手を握ったまま明るい声を上げる洋子の様子に、なんとなく懐かしい気持ちになって少女は戸惑う。何が、何を、懐かしいと感じるのだろう。少女には分からない。
「美味しい?」
「おいしい!」
晴れ晴れとした青空は清々しく、頬張る焼きおにぎりは香ばしくて少女は強く頷いた。
「洋子お姉さんはいらなかったの?」
「長いねえ。洋子でいいよ」
「洋子さん」
「うーん、まあ及第点かな」
「海を見に行こうか!」
「海?」
突然洋子が叫んだので少女は驚いてつないだ手の先を見つめた。
「少女ちゃんは海は好き?」
「分からないです」
データの海は知っていても、本物の海は見たことがない。
「初めての海!いいねえ」
洋子が笑った。
「電車に乗る?それとも歩いて行く?」
顔を覗き込まれて少女は少し迷った。
「洋子さんは空を飛んだことは、ある?」
「空?」
覗き込んだまま洋子が目を丸くする。
「少女ちゃんは飛べるの?」
少しだけ躊躇って、けれどつながれた手のあたたかさに少女はこくりと頷いた。途端に洋子が破顔する。
「じゃあ飛んでいきましょうか!」
「洋子さんはヘン。この街とおんなじ」
少女は真面目くさって笑顔の洋子を見返した。
「ひよさんも絵描きさんも変。アンドロイド怖くないの?」
「だって私は幽霊だもの」
「洋子さん幽霊なの?」
「もちろん」
慌てて少女の脳内データが書き換えられる。
「幽霊だから手をつなげば飛べるかもしれない」
頭からきゅるきゅる音をさせる少女を気にもとめず洋子は呟いた。
「飛んで行くのは嫌?」
「ううん」
かぶりを振った少女の頭を洋子の手が撫でた。
「まさか幽霊になって初めての体験が出来るなんて思わなかった」
少女の空の移動はかなり荒っぽい。離着陸は急速で乱暴で、且つ移動中のスピードも速い。浜に着陸すると、洋子は少しふらついたようだった。
「うぷ。幽霊だから大丈夫だと思ったのに」
「洋子さん具合が悪いの?」
慌てて少女は俯いた彼女の顔を覗き込んだ。
「大丈夫よぅ」
せっかく海に来たのにへばれないもの!少し笑って伸びをした洋子を真似て、少女も伸びをした。
「塩っぽい匂い」
「そうね。私は海が好きなの。少女ちゃんはどう?」
本物の海、好き?と尋ねられて少女は海を見る。
ざあん、と音が広がる。独特の匂いとぶわりとした風、そして無限に動く波。
「好きって思うことは心があるってこと?」
「好きと思うのは心だもの」
海が好きかどうか、少女はよく分からなかった。この街に来て、なんだか分からないことが増えたような気がする。
「昔はこうじゃなかったのに」
もっと世界は単純だった。
「昔っていつのこと?」
「ここに来る前、サーカスに行く前」
「サーカスにいたのね?」
洋子はゆっくりと浜に座った。
「ねえ少女ちゃん」
「私、あなたの”昔”の話しを聞きたいな」
教えてくれない?その代り心について教えてあげるから。
≪昔の話し≫
それは街から遠い遠い場所にある国だった。そこではずっと昔から二つの団体によって常に争いが起こっていた。一方は多くのアンドロイドを生み出す研究所を持ち、もう一方はたくさんのロボット兵器を生み出していた。どちらにせよ住人にとってはあまり変わりはなかったし、あったとしても少女には分からなかった。
少女は自分がどこで生まれたのかを知らなかった。気が付けば研究所に居た。最初の記憶はハカセが満足気に頷いているシーンだ。その時既に今の身長に近い目線だったから、それが生まれた瞬間だという訳ではなかったのだと思う。少女は武器として、戦闘用アンドロイドとして研究されていたのだった。
そのころの記憶は今思い返してみてもいまいち体験と結びつかない。好きなものも嫌いなものも楽しいことも哀しいこともなかった。ふわふわしていて、まるで常に夢の中にいるかのようだった。唯一リアルに覚えているのはハカセのある言葉だけ。『君は愛されていたんだね。だからとても優秀だ』
そしてその日がきた。夏だった。警報が鳴り、爆発音が響き、研究所の壁がいきなり崩れて、そこから一人の人間が飛び込んできた。驚く周囲をよそに少女はその人影をぼんやりと眺めた。男だ、くらいは思ったかもしれない。その時の少女は彼を、夏樹を覚えていなかった。
男は片っ端から機器を破壊し人を倒し、強く少女の手を掴んだ。そして少女は男に研究所の外へと連れ出されたのだった。走りながら、遠かった音や色や世界が急に近くなったのを覚えている。空を広いなあと思ったのは記憶の中ではそれが初めてだった。
そうして少女はサーカスへと預けられたのだった。男は最後まで名乗らなかった。団長と名乗る男と何かを言い合うのを傍で見ていたような気がする。団長は優しく笑って少女の頭を撫でた。誰かの笑顔を見るのもそれが初めてだった。『お前のことは、アンと呼ぼう』
サーカスの団員は突然預けられた少女のことを、怖がったり気に入ったり嫌ったりした。少女は少しずつ好きなものや嫌いなものを覚えていった。思い出が思い出として持てるようになったのはその頃からだろう。時間をかけて、少女は喋り方や笑い方を思い出した。1年程たって、やがて戦いが終わった。休戦協定が結ばれることになり、そして少女は新しい平和な法に従って武器を捨てなければならなくなった。
「それで団長が言ったの。体中の武器は本当はもう取れるはずだって。でもどうやっても取れないのはきっとアンの心が原因だって。アンドロイドは基は人間だから、体と心が連動するんだって」
そして彼は少女に街の地図を手渡した。
『此処で心を探しておいで』
辺りはすっかり暗くなってしまった。少女は浜に座り込んで海の音を聴いていた。隣に座っている洋子は何も言わない。
「私、潮の匂いというは変わってると思うけど、この音は好きかもしれない」
「気に入ってもらえて重畳!」
「昔の話をしたよ」
暗闇をすかして少女は隣の洋子を見上げた。どうやら彼女は笑っているらしい。
「そうね」
「心について教えて?」
「約束だものね。・・・少女ちゃんは、藍童話って知ってる?」
潮風が二人の髪を撫でた。
「藍童話?」
「そう、鱗の悪魔」
「ある日鱗の悪魔が陸に打ち上げられるの。悪魔は長い間海を漂流していてとても弱っていた。通りかかった老夫婦が悪魔を助けるのね。彼らは一緒に暮らして、とても仲良くなる」
波の音をバックに洋子は歌うように言った。
「悪魔は老夫婦に絆されていく。老夫婦はとても献身的に悪魔の世話を焼いたし、悪魔も少しずつ老夫婦に心を開いていくの」
「それで?」
引き込まれたらしく、身を乗り出して少女は尋ねた。洋子は闇の中で少女を見て優しげに微笑んだ。
「長いこと暮らしたある日、老夫婦は悪魔に名前を付けることにするのね。悪魔はとても喜ぶ。そして彼らに名前を付けられた瞬間に、悪魔から全ての鱗がはがれ落ちるの」
「人になったの?」
「けれど次の瞬間、それが死んだ老夫婦の息子と名前と同じだという事実を知って、悪魔は死んじゃう」
「それで終わり」
「終わり?」
少女はこてんと首を傾げた。
「ヘンな話」
「童話って理不尽だったり変だったりするのが定番なのよ」
洋子はおもむろに立ち上がった。そのままうーんと唸って伸びをする。
「理屈じゃないの。これが心」
「私はもう心を持ってる?」
「心は持ってる。けど足りない」
「足りないの?」
「ええ」
「頑張ってね」
「え?」
するり、と少女の手首に巻かれていた風船の紐が、洋子の手によってほどかれた。
「あ、」
少女が思わず声を上げるのと同時に、風船が空を舞って、隣にいたはずの洋子が、消えた。
ざざざ、と波の音が響いた。
「洋子さん?」
少女の囁きは波の音に沿い、消える。ゆっくりと少女は立ち上がった。
ふと、街の方を振り返る。暗闇にぼんやりと沈む街を見て、街に帰らなくちゃ、と少女は呟いた。
ジェットの起動に合わせてワンピースの裾がふわりと翻る。少女の足がゆっくりと地上から離れた。
街の通り。ほとんど人通りのないそこを、俯いて、少女はゆっくり歩いていた。
「鱗の、悪魔」
どうして悪魔は死んだのだろう。どうして鱗は剥がれたんだろう。
「どうして洋子は私にあの話をしたんだろう」
俯いていた少女は、珍しいことに前から来ていた男性に気付かなかった。
どん、と頭が何かにぶつかって少女は立ち止まった。ぱっと顔を上げると、ぶつかったらしい男の面食らった表情が目に入った。
「え」
「あ、ごめんよ」
少女の驚いた声と男の謝る声が重なる。少女は首をふりかけて、ふと男のマントに目を止めてぱちぱち、と瞬いた。
「その、マント」
「え?」
「洋子さんの浴衣にそっくり」
次の瞬間、少女の肩を男が両手でつかんだ。
「神楽山、洋子?」
「え、」
「彼女を知っているの」
肩を掴む手は少し強かったものの震える声は怖いものじゃなく、少女は無意識に出しかけていた腕の刃を仕舞った。
「今日はずっと一緒に遊ぼうって。さっきまで海にいたの。消えちゃったけど。あなたは洋子さん知ってるの?」
幽霊だって言ってたのに。傾げられた首に彼はああ、と顔を伏せた。
「帰ってきてたんだ」
唸るような声が聞こえた後、ゆっくりと彼は少女の肩を離した。
「ごめんよ、痛くなかったかい、」
言葉の終りと同時に男の目から涙が零れ落ち、少女は目を丸くした。
「ああごめん、ごめ、」
彼は手で顔を覆った。
少女はおそるおそる男の腕に触れた。大人の男が泣くところを、少女は初めて見たのだ。
「だいじょうぶ?」
少女は囁いた。
「うん、うん」
彼は涙に濡れた声で言った。
「春からずっと、この祭りが楽しみだった。彼女に再び会えるのが、一時でも以前の様に一緒に過ごせるのだと思うと楽しみだった」
なのに、祭りが近づくにつれて急に怖くなった。彼女がやって来て一緒に過ごしたとして、僕は本当に彼女を帰せるのだろうか。笑って手をふってあげることが出来るだろうか。自分と決定的に違ってしまった彼女を見て、怖がったりしないだろうか。彼女は本当に僕の知っているままの彼女なんだろうか。
「だから、僕は風船を買わなかったんだ」
まるで罪を告白するかのように彼は囁いた。はたはたと暖かい涙が少女の腕を濡らす。少女はそれにも気が付かず、食い入るように彼の顔を見つめていた。
「彼女は帰って来ないだろうと思った。迎える者がいない死者は帰ってこれない。彼女を帰せないのが怖くて、僕は彼女と会わないことを望んだんだ」
「だけど、違った。僕が怖かったのはそんなことじゃなかった」
ふわりと足元を風が通った。
「死者の彼女を見ることでもない、僕が怖かったのは」
責められることだったんだ。
落ちた囁きに、少女はびくりと肩を跳ねさせた。
「彼女をみすみす死なせた僕を彼女が恨んでいるんじゃないか、生きている僕を羨んでいるんじゃないか、」
彼女が僕を、嫌いになったんじゃないか。
「彼女に嫌われることが一番怖かった」
ゆっくりと少女は男の腕から手を離した。(そう、嫌われるのが怖かった)
「憎まれるのが怖かった」
ゆっくりと自身の体を抱き締める。(憎まれているかもしれないと思うのが)
「裏切り者と、彼女に詰られるのが恐かった」
少女の目が見開かれた。(裏切った訳じゃない、確かに彼のことを忘れてしまったけれど、裏切ってなんかいないんだ、でも)
「だって僕はまだ彼女を愛しているから」
(だって私は彼が大好きだから)
ぎゅっと少女は目を閉じた。夏樹、夏樹、夏樹。似顔絵のあれと同じ、笑顔が瞼の裏に浮かぶ。
「・・・でもそれは間違いだった」
顔を覆ったままの男の声に現実に引き戻されて、少女は再び体をびくりと緊張させた。
「嫌われるのを恐れるのは僕の勝手な、エゴだ。僕はもっと彼女を信じるべきだったんだ」
「彼女は許していた。疑った僕も臆病な僕も許して愛していてくれていた」
ごめんよ、男は小さな声で囁いた。
「ごめん、洋子。愛してる」
ぶわりと、強い風が吹いた。目を開く。
『悪いな、きーこ。愛してる』サーカスのテントの中で自分を見つめて苦しげに言った、夏樹の笑顔。
「・・・きーこ」
少女の頭から角が、腕から刃と銃が、背中から管やパイプが、足からチューブが、滑り落ちた。
「愛してくれて、」
ほたほたと、少女の、きーこの両眼から涙が落ちた。
「愛してくれて、ありがとう」
夏樹。
苦しそうに呟いて、きーこは泣いた。