第9話 キス、そして・・・
暗い館内では、ほとんど表情が見えないので、少し気が楽だった。さりげなく良彦の左手は冴子の右手に重なっていた。映画のストーリーはちょっと悲しいもので、冴子にとっては心の奥の傷が、よりいっそう痛んだ。
「しーちゃん・・・」心の中でつぶやく。でも、もういない。最愛の姉は、もうこの世にはいないのだ。
恋人同士が最後に離れ離れになるストーリーだった。ヒロインが天国に召されていく。そして、悲しみの中で幕が降ろされた。良彦は隣で泣いているようだった。本当に優しい人なんだ、と思った。でもその優しさが、時々人を苦しめる材料になることがある。
上映が終わると、みんな一斉に出口に向かった。良彦と冴子の二人だけが取り残された。良彦は冴子の手を離さなかった。冴子は脱力で動くことができなかった。でも意識ははっきりとしていた。(これが最高のチャンスかもしれない。)とてもいいタイミングだった。冴子は自分から良彦のキスを受け入れた。短いキスだった。(これでいいのだ。)再びぎゅっと手を握り返して、良彦がちょっぴり不安そうに微笑む。(安心してね。)冴子は優しく微笑んで見せた。
今日はもうこれ以上は無理だった。冴子があとはリードした。そっと立ち上がると、余韻に浸ったふりをしながら、静かに出口に向かった。二人は雑踏の中に流されていく。それほど早くなく、かと言って、のんびりでもなく。そんな冴子の行動が、今の良彦にとっては、なかなか理解できにくいものだった。冴子としては、本当は何も会話を交わしたくなかった。でも、良彦は、二人の愛の進展を、二人で喜び合えるとばかり思っていた。そんな心のずれが、良彦の心をとても苦しくする。もう完全に冴子のペースだった。
二人は駅で別れた。次の予感もないままに別れた。冴子は悲しすぎた。悲しくて悲しくて、涙をこらえるのに必死だった。そんな冴子が、良彦はとても心配だった。
「ごめんね、かなちゃん・・・」閉まる電車のドアの向こうで、良彦の口がそう動いて見えた。冴子が泣きそうなのは、自分のせいだと思ったのだろう。冴子は、そういう誤解もいいかもしれないと思った。彼女が悲しんでいるのは、良彦のせいではなかった。姉の志津子のことを思い出していたからだった。
ほどなくメールが届いた。『加奈子さん、大丈夫ですか?ごめんね、僕のせいで悲しませてしまって。』どこまでも優しい人だった。冴子は返信をためらった。このまま何もなかったように家に帰りたいと思った。とても疲れていた。でも、もしこのままにしてしまったら、次の計画実行のために、必要以上のパワーを使わなければいけない。とっさに考えてメールをした。『今日はありがとう。ごめんなさい、変な別れ方をしてしまって。あなたのせいではないわ、ちょっと辛いことを思い出してしまったの。』『そうだったの?ね、何でも話して。僕でよかったら話してね。』『ありがとう。でも、もう大丈夫。本当にありがとう。』『よかった。悲しそうなかなちゃんを見ると、胸が痛くなるよ。そばにいてあげたくなる。』『優しいですね・・・』そんなメールのやり取りは、ずっと長く続いた。そして『また逢ってほしい。〜加奈子、君のすべてを知りたいんだ・・・』という良彦のメールを最後に、冴子は携帯の電源を切った。
冴子は、いえ、加奈子は、良彦の手が届きそうで届かないところにいる。だからよりいっそう、愛おしく感じるのかもしれない。
良彦のメールでの呼び方が、いつの間にか『かなちゃん』から、『加奈子』に変わっていた。加奈子の、いえ、冴子の心の中に、一歩足を踏み入れようとしたのだった。良彦は不安だった。いつ加奈子がどこかへいってしまうかもしれない、そんな不安で心が一杯だった。加奈子を失う事は、もう良彦には考えられなくなってしまっていた。彼はもう加奈子に夢中だった。
冴子は本当に苦しんでいた。(でも、もう少し。もう少し前に進まなくちゃ。あなたとあなたの奥さんのために。姉、志津子のために。そして、私自身のために。)