「それぐらいで泣くなよ」
イスに座り、いつものようにパソコンを操る。ネットをあちこち回り、ゲームをしたり絵やマンガ、小説を眺めたりしつつ時間をつぶす。
部屋の外で物音がした。陶器が軽くぶつかる音だ。誰がそこにいて、何をしたのか。あまりにもカンタンなクイズだ。
その人物、母親はしばらくの間そこにいた。何度か意を決したような空気を吸う音も聞こえた。しかし結局、声は聞こえなかった。スリッパが床とこすれる音が響く。
スリッパの音が離れたところで部屋のドアを開けると、お盆に乗ったご飯があった。白ご飯に味噌汁、焼き秋刀魚に漬物と玉子焼き、お盆の横に小さな水筒。できたばかりらしく、湯気が立っていた。お盆を慎重に部屋の内へ運ぶ。味噌汁のにおいが忘れていた食欲を思い出させた。
添えられていた黒いハシを掴んで食べ始める。
「あちっ」
勢いよく食べ過ぎた。口の中を水筒のお茶で冷やし、今度はゆっくりと息を吐きかけながら食べ進める。
食べ終わって食後のお茶を飲んでいると、トイレに行きたくなった。トイレは1階にしかない。この部屋は2階だ。めんどくさいが、仕方ない。立ち上がると膝がお盆に当たって音を立てた。
「ま、ついでだ」
台所も1階にあるのでついでに持っていくことにした。自分でも珍しいと思った。
「あ」
階段を降りて台所に顔を出すと、母が驚いた顔をしていた。ふと考える。そういえば前に台所に来たのはいつだったか。いや、そもそも母の顔を見たのはどのぐらい前だったか。
思い出せないぐらいに久々なことに気づく。
母の目線が下がる。お盆を見ていた。妙に気恥ずかしくなって「ん」とお盆を突き出す。母は慌てて謝りながらお盆を受け取った。
いたたまれない。
以前はもっとスムーズに会話していた記憶があるのに、今は何を話したらいいのか分からない。別に何も言わなくていいのに一言だけ、
「美味かった」
呟くと嬉しげに母が泣いて、余計にいたたまれなくなった。
たった一言でも嬉しい言葉がある。その言葉で世界は変わらないけど、何かは変わる。
ありきたりな題材ですが「何か」を感じとっていただけたら幸いです。