異世界でも、戦場は俺を離さない ~元傭兵のおっさん、魔法の狙撃手になる~
死ぬ直前に聞いたのは、羽虫に似た音だった。
佐伯修司は崩れた壁の陰で顔を上げた。曇った空。折れたアンテナ。
その向こうに、小さな黒いものが浮いている。
ああ、来たか。
隣の若い兵士を突き飛ばしたところで、記憶は終わった。
*
次に目を開けると、馬に顔を舐められていた。
「……よせ」
手を上げる。指が五本ある。左手の薬指も、小指も。
左脇腹に手を入れた。古い手術痕だけがあった。
銃がない。無線もない。防弾装備もない。
着ているのは見覚えのない麻の服で、足元には革靴が揃えてあった。
「死んでるかと思った」
馬の向こうから娘が顔を出した。栗色の髪。そばかす。
背中には弓ではなく、短い杖を負っている。
「ここは」
「トルカ村の東。道の真ん中で寝てたんだよ、おじさん」
知らない言葉だった。
それなのに意味が分かった。自分の口から出た問いも、日本語には聞こえなかった。
佐伯はしばらく娘を見た。
「鏡はあるか」
「顔が気になるなら、生きてるね」
差し出された水筒の金属蓋に、四十八歳の男が映った。白髪交じりの短髪。
右眉の傷。見慣れた、愛想のない顔だった。
娘の肩越しに、空が見えた。
昼間の青空に、月が二つあった。
*
村に居ついて十二日目、佐伯は薪を割っていた。
薪は逃げない。撃ち返してこない。ただし、節のあるやつは厄介だった。
「また曲がった」
井戸端で洗濯をしていたミラが言った。道で拾ってくれた娘である。十九歳。
村の治療師の手伝いと、馬の世話と、暇なときには他人への口出しをして暮らしている。
「見れば分かる」
「おじさん、何ならできるの」
佐伯は斧を持ち直した。
陸上自衛隊にいた。辞めて、フランス外国人部隊に入った。
契約を終えてからも、金をもらって他人の戦争に出入りした。
最後はウクライナだった。
長い経歴だったが、薪の割り方を教えてくれる者はいなかった。
「見張り」
「それ、昨日も聞いた。夜は寝てよ。宿のおかみさんが心配してた」
「寝ている」
「椅子で?」
答えず、斧を振った。
今度は割れた。ミラが大げさに拍手をした。
この世界には魔法があった。
火を起こし、水を温め、傷の治りを助ける。
最初に見せられたとき、佐伯は驚くより先に、燃料は何だと尋ねた。
ミラは腹を抱えて笑った。
彼女に教わった魔法は二つだけだった。
指先に灯りをともすものと、魔力を矢にして飛ばすもの。
後者を試したとき、ミラは少し困った顔をした。
「細いね」
佐伯の指先には、縫い針のような光が浮いていた。
ミラの矢は杭ほどの太さがあり、薪を一つ砕いた。
佐伯のものは樹皮に穴をあけて消えた。
「まあ、鳥くらいなら。魔力は少ないみたいだけど、形はきれいだよ」
褒め方まで若い兵士に似ていた。
それでも、暇を見つけては練習した。
力の使い道があると、落ち着いた。
*
昼の鐘が鳴る前に、村長が死んだ。
通りの真ん中で膝をつき、そのまま横倒しになった。
手に持っていた帳面だけが開き、風にめくられた。
佐伯は斧を捨て、隣にいた少年の襟をつかんだ。家の陰へ投げ込む。
悲鳴が上がった。
「伏せろ!」
二人目が倒れた。
村長に駆け寄ろうとした男だった。
音はなかった。胸に、焼けた小さな穴があった。
佐伯の頭の中で、さっきまで気になっていた薪の節が消えた。
窓。屋根。通り。人の位置。
それらが、使い慣れた順序に並び直された。
「窓から離れろ。外を見るな」
ミラが這ってきた。唇から血が出ていた。転んだときに噛んだらしい。
「北の丘。古い見張り塔……光った」
「兵は」
「昨日、西の砦で戦があったって。うち、負けたんだ」
通りの北端で、青い光が膨らんだ。
人の背丈ほどの紋章が浮かび、その下から声が響いた。
『この村は侯爵領軍の管理下に入る。隠匿している敗残兵を引き渡せ。日没までに従わぬ場合、家屋を順に焼く』
宿の裏には、昨夜運び込まれた負傷兵が三人いた。
佐伯は知っていた。朝、水を運んだからだ。
「渡しても、終わらんな」
言うと、ミラがこちらを見た。
「なんで分かるの」
村長は、まだ帳面を持っていた。
話をしに出たのだろう。兵士でもない相手を、警告なしに殺していた。
「あいつは、従わせ方を知っている」
*
見張り塔までは、ミラの言い方で四百歩余り。
塔は丘の上にあり、村から出る道と橋を見下ろしていた。
逃げる者を追う必要はない。そこで待てばいい。
「村の衛兵は?」
「砦に行った。戻ってない」
「魔法を使える者は」
「私と先生。先生は膝が悪いし、治療しかできない」
佐伯は頷いた。
上官はいない。支援もない。撤退する部隊もない。
それでも仕事だけはあった。
「修司」
初めて名前で呼ばれた。
「あの塔にいるの、たぶん軍の射手だよ。普通の魔法使いじゃない」
「そうか」
「そうか、って……」
佐伯は床に落ちていたパンを拾った。埃を払い、一口かじる。
口の中が乾いて、なかなか飲み込めなかった。
「矢の魔法について、教えてくれ」
「今?」
「今だ」
ミラは一度だけ目を閉じた。それから、震える手を膝の下に挟んだ。
「何が知りたい」
「遠くへ飛ばすと、何が起こる」
「形が崩れる。だから魔力を足す。強い矢ほど遠くまで届く」
「形を保てれば?」
「……届く。でも、それが難しいの。飛ばしてる間、ずっと矢を感じてなきゃいけない」
佐伯は十二日間、夜更けの宿で針を浮かべていた。
窓から見える鐘楼。その欠けた石。
ほかに考えることがないよう、そこだけを見ていた。
「向こうは、こちらの魔法を察知するか」
「大きな魔力なら。軍の射手は、その訓練もするって」
自分の針を見て、佐伯は頷いた。
「役に立つな」
「どれが?」
「細いところだ」
*
宿の裏から水路へ下りた。
ミラが先を行った。泥に膝をつき、低い石橋の下へ潜る。
「昔、ここで魚を捕ってた。先生に見つかって怒られた」
「なぜ」
「薬草を洗う水路だから」
「それは怒る」
小さく笑ったあと、彼女の息が詰まった。
頭上で石が砕けた。
遅れて、破片が水に落ちてきた。
佐伯はミラの後頭部を押さえ、橋脚に寄せた。
待った。
次の一撃は来なかった。
敵は姿を見たのではない。水路に入った気配を探っている。
「戻れ」
囁くと、ミラは首を振った。
「この先、道が二つある。片方は行き止まり」
「説明しろ」
「水門、動かせないでしょ。留め具が壊れてる」
佐伯は彼女を見た。
村の娘だった。自分にはない知識を持っていた。
「分かった。先へ」
ミラが頷いた。
水門の奥は古い染物小屋に続いていた。
屋根は半分落ち、石造りの壁に染料の青が残っている。
そこから、塔の上階が見えた。
窓は二つ。暗く、動くものはない。
佐伯は壁の裂け目に顔を近づけた。
風が草を揺らしていた。鳥が一羽、塔を避けて飛んだ。
「見える?」
「見えない」
「私、灯りを飛ばせる。窓に入れれば」
「やめろ」
強い声になった。
ミラの肩が跳ねた。
佐伯は息を吐いた。
「すまん。あいつは、それを待っている」
敵は村人を撃った。助けに出た者も撃った。
同じことを、まだ続けている。
魔法を使える者が動けば、そこを撃つ。
窓の奥で、一瞬だけ何かが光った。
佐伯は動かなかった。
光は、同じ場所でもう一度またたいた。
「あそこ」
ミラが囁いた。
「違う」
窓辺に置かれた金属片だ。射手が顔を出すには、都合がよすぎる位置だった。
佐伯は、もう一つの窓を見続けた。
*
待つことには慣れていた。
寒さにも、空腹にも。何も起こらない時間に、自分で意味を足さないことにも。
ただ、隣の人間の呼吸を聞くのは久しぶりだった。
ミラは音を立てまいとして、時々息を止めた。
「普通に吸え」
「できない」
「なら、ゆっくりでいい」
「怖くないの」
「怖い」
「そうは見えない」
返事をする前に、通りから声がした。
泣き声だった。
宿の陰にいた少年が、這って出ていた。昼に佐伯が投げ込んだ子だ。
少し先に、倒れたままの男がいる。
「父さん」
小さな声が、水路を伝ってきた。
ミラが立ち上がりかけた。佐伯が腕をつかむ。
「離して」
「待て」
少年が男の足に触れた。
塔の暗がりで、何かが動いた。
左の窓ではない。
右。奥。
灰色の袖と、頬の一部が見えた。
佐伯の指先に、細い光が生まれた。
小さい。頼りない。村の娘に気を遣わせた、鳥を撃つ程度の魔法。
向こうの窓に、青い輪が浮いた。
ミラの手が、佐伯の腕を握った。
「障壁。矢じゃ抜けない」
佐伯は針を放たなかった。
青い輪の向こうで、人影が杖を持ち上げる。
その先が、ゆっくりと下を向いた。
少年へ。
「撃つときも、張れるのか」
「ううん。でも――」
「それでいい」
敵の顔が見えた。
男だった。佐伯より若い。苛立った顔をしていた。
魔法使いでも、同じ顔をするのだと思った。
青い輪が薄くなった。
佐伯は針を放った。
飛んでいる。
遠いところで、自分の指が伸びているような感覚がした。
細い形を保つ。崩れかけた輪郭を戻す。
窓の男が眉を動かした。
気づいた。
杖が少年から外れ、こちらへ向いた。
小屋の中が青く染まった。
佐伯は針を感じていた。
まだ、そこにある。
耳元で石が割れた。
*
目を開けると、土の中にいた。
違う。土の壁だった。
ミラが両手をついている。爪が割れ、鼻から血を流していた。
目の前に盛り上がった土が、ぼろぼろと崩れていく。
「……使えるのは、二つじゃなかったか」
「教えたのが、二つ」
息を切らしながら、彼女が言った。
「薪、砕いたでしょ。あれ、土の魔法の応用」
佐伯は身体を起こした。右耳が聞こえにくい。頬から血が流れていた。
塔を見る。
窓には誰もいない。
待った。
一分。二分。
村の少年が、誰かに家の陰へ引きずり込まれた。
それでも、矢は飛んでこなかった。
佐伯は指を開いた。
針の感触は、もうなかった。
*
日が傾いてから、塔へ入った。
ミラは入口で待たせた。
上階に男が倒れていた。灰色の軍服。胸に銀の徽章。杖は握ったままだった。
傷は小さかった。
佐伯は男の息を確かめ、杖を離させた。
部屋の隅には毛布と、干した肉と、木製の小さな櫛があった。
櫛には赤い糸が結ばれていた。
それらには触らなかった。
窓から村を見た。
倒れていた二人は運ばれ、通りには濡れた跡が残っていた。
宿の煙突から煙が上がり始めていた。
「終わった?」
下からミラの声がした。
佐伯は一度、目を閉じた。
「ここはな」
*
夕食は豆の煮込みだった。
宿のおかみは佐伯を見ると、何も言わずに器を置いた。パンはいつもの倍あった。
入口と窓の見える席に座った。
向かいにミラが来た。両手に包帯を巻いている。
「村長さんの息子が、明日、お礼に来るって」
「礼を言われる仕事はしていない」
「じゃあ、私がもらっとく」
「そうしろ」
彼女はパンをちぎろうとして顔をしかめた。
佐伯は黙って自分のパンを割り、半分を彼女の皿に置いた。
「それくらい、できる」
「知っている」
しばらく、二人で食べた。
「おじさん、兵士だったんだね」
「ああ」
「帰るところ、ないの」
匙が止まった。
日本に住所はあった。長く開けていない部屋もあった。
郵便受けに、何かが溜まっているはずだった。
それを帰るところと呼ぶのか、佐伯には分からなかった。
「遠い」
結局、そう答えた。
ミラはそれ以上聞かなかった。
「じゃあ、明日も薪割りね」
「俺より、ほかの者のほうがうまい」
「やらないと、うまくならないでしょ」
まともな理屈だった。
佐伯は煮込みを口に運んだ。
温かかった。
豆の皮が少し硬い。塩が足りない。肉はほとんど入っていない。
そういうことに、今さら気がついた。
*
夜半、宿の戸が叩かれた。
佐伯は椅子から立った。寝台はまだ使っていなかった。
階下に降りると、泥まみれの伝令がいた。
「この村に、侯爵軍の射手を倒した者がいると聞いた」
背後で、階段が軋んだ。
ミラだった。
佐伯は伝令の服を見た。袖の血。乾いた唇。腰の剣は、鞘に収まっていなかった。
「何人だ」
伝令が顔を上げた。
「東の峠に、三人。避難民の列が止められている」
佐伯は黙っていた。
台所の隅に、明日使う斧が立てかけてあった。
窓の外には、割り残した薪が積んである。
「行くの」
ミラが言った。
「話を聞く」
「兵士って、そう言うんだ」
言い返せなかった。
娘は台所に入り、布を一枚取った。残っていたパンと、硬いチーズを包む。
「持っていって。朝の分」
差し出された包みを、佐伯は受け取った。
「……明日の薪は」
「置いとく」
ミラが言った。
「帰ってきたら、やって」
佐伯は包みを上着の内側へ入れた。
扉を開けると、夜気が頬の傷に沁みた。伝令が馬のところへ走っていく。
いつもなら、その背中だけを見て歩き出していた。
今夜は一度、振り返った。
ミラが戸口に立っていた。
「行ってくる」
口にしてから、ずいぶん長く使っていなかった言葉だと思った。
彼女は頷いた。
「うん。行ってらっしゃい」




