【第一章】雨雲と休日
【8:20】
とっておきの場所に到着して、いつもの様にテーブル岩の上に腰かけたまま海を眺める。
5月曇りの海の風。
朝という事もあるのか、身体が感じる寒さは嫌にはっきりとしていた。
少し薄着で出てきてしまったかもしれない。
もしかしたらずっと待っているというのはキツいかも…。
さて、彼女は来てくれるだろうか。
不器用と言われた俺は、この場所で待っているしかできない。
何とはなしに右の瞼を開けてみる。
俺の瞳はやはり光を映さない。
わかりきっていた事だ。この目はもう見えないのだから。
そっと右瞼を閉じて、まだ見えてくれている左目で空を見上げる。
灰色だなぁ…。
いつもより荒い波の音。
いつもより早い砂の流れる音。
いつもより強い風の音。
左目を閉じて、いつもと若干の違いのあるこの場所の音を聞いていた。
待ち人はまだ来ない。
【9:00】
随分と長い間目を閉じていたらしい。
目を開けると、変わらない灰色の空と海が映る。
今日の波は荒い。
町枝の海は、ただでさえ少し波が強い上に天候や風に大きく左右される為、俺が生まれる前からずっと遊泳禁止だ。
まぁ、あんな波の中泳ごうと思う人なんていないんだろうけれど…。
それにしてもだんだん退屈になって来た。
最初はいつまでも待っているなんて言っていたくせに、直ぐこれだ。
いつもなら何をするでもなく気ままに座っているだけだから大丈夫なんだけれど、今回は誰かを待つという、また変わった状況だ。
良く考えれば、この場所で誰かを待つなんて事は初めてだ。
やっぱり此処は俺にとっての特別な場所だ。
もう少し待とう。
いや、来るまで待とう。
待ち人はまだ来ない。
【11:30】
此処に来てから結構な時間が経った気がする。
空は相変わらず灰色で染まっていて、風もまた冷たいまま。
携帯電話で時間を確認する。
そろそろ昼だなぁ…。
今思えば、来る当ての無い相手を待つのに何の準備もなしにやって来たのは明らかに失敗だったのかもしれない。
せめて何か食べる物とか持ってくればよかった。
別段お腹がすいているという訳でもないが、とにかくこの退屈な時間を紛らわしてくれる何かが欲しいところだ。
溜め息を一つ、そのまま目を閉じ風と波の音に意識を向ける。
いつもどこか涼しげな感じの音は、今日だけは肌寒く感じた。
待ち人はまだ来ない。
【13:40】
世間では遅めの昼食、もしくは昼食終了といった時間帯。
俺はというと、相も変わらず一人テーブル岩の上で来るかもわからない人を待っていた。
朝からずっとおんなじ処に座ったままだったので流石に冷えてきた。
少し身体を動かしといた方がいいかも。
そう思って立ち上がり適当にストレッチを始める。
「お、何か調子いいかも!」
そのまま調子に乗って筋トレやらダッシュを思う存分行い、かいた汗でより一層風の冷たさを痛感する事になった。
寒いよぅ…。
待ち人はまだ来ない。
【15:30】
あまりの長時間耐久っぷりに逆に冷静になって来た。
良く考えたら此処に志野さんが来たとして、俺は何を話すんだろうか。
友達になってください、はなんか違うだろ。とは言ってもあんまりへヴィで重たいようなのもどうかと思うし。でも俺の事を話すとしたら、少なくともそんな空気にはなると思うし。
考えがまとまらない。
前までは良かった。ただひたすらにトレーニングをして、試合に勝つ事を考えていればよかっただけだったから。
無くして初めてわかる、自分がこんなにも不器用な人間だったという事。
それから暫く、不器用な頭で何を話すか悩み続けた。
待ち人はまだ来ない。
【17:10】
気付くとかなりの時間悩んでいたみたいだった。
時間を確認するともうすぐ夕方。いつもなら太陽が空と海を赤く染め上げようとする時間帯だ。
でも今日の空と海は、朝から変わらず灰色のまま。
俺の太陽への気遣いは一日挟んで時間差で届いたらしい。
考えもまとまらず、ただ時間が過ぎただけ。
するとポツリと頬に軽い刺激を感じた。
ゆっくりと、灰色の雲から水の粒が落ちてくる。
あぁ、ついていない。雨に濡れるのはあまり好きじゃないんだけどな。
だんだんと強くなるソレを肌で直接感じながら、それでも俺は残りわずかな意地を貫き通すことにした。
できればこの雨と一緒に、この胸の苛立ちも流していって欲しい。
待ち人はまだ来ない。
【20:05】
どれだけ時間が経ったのだろう。
初めは勢いも弱かった雨は、既に点では無く線でしか見えないでいて、今はもう濡れていない所を探すほうが困難な自分の体は、寒さすらも曖昧なほど感覚が鈍ってきていた。
携帯電話も買い替えかもしれない。
今度は耐水性のある物にしよう。
それにしてもひどい有様だ。
豪雨という程ではないにしても、傘もなしでこの場所から一歩も動かなかった俺には大ダメージだ。
明日風邪は確定かもしれない。
何でこんな事になっているんだろうか。
ふと過った考えの答えを、回らない思考回路で必死になって探す。
志野さんが来ないから?いや、彼女は昨日来ないって言ったじゃないか。
弘一の提案が間違っていたのか?そもそも弘一はアドバイスをしてくれただけで、此処にいるのは俺の意思と意地だから。
右目が見えないせい?それこそ今は関係ない。
じゃあなんでだろう。
暫く考え、スッと一つの答えが胸に落ちた。
そうだ、俺が不器用だからだ。
霞んできた半分だけの視界が、今まで捉えなかった形を捉えた。
傘を差したその形は、急ぎ足で大きくなってゆく。
そして、漸く待ち人が現れた。
「何してるの!」
やって来た志野さんは何故かものすごく怒っていた。
あれ、俺が悪いのコレ?
びしょ濡れのまま来たばかりの志野さんに怒られる俺。
何か理不尽な気がした。
「志野さんの事待ってたんだけど…」
「私は来ないって言ったじゃないっ!」
「でも、来てくれたじゃん」
「…ッ!それは…、あなたが…」
来ないと言っても結局は来てくれたんだ。
この結果だけでも待っていたのは正しかったみたいだ。
ただ少し来るのが遅いというのはある。その事を言ったら『あなた時間なんて言って無かったじゃない』だそうだ。
こいつはうっかり。
「とにかく、来てくれてありがとう。結構ギリギリだったからさ」
「……もし来なかったらどうしてたのよ」
おどけた調子でお礼を言ってみると、やはり不機嫌な声で質問された。
「どうしてたって…、そりゃ、来るまで待ってたけど」
「だから!それで来なかったら意味無いでしょ!」
当たり前、といった風に返したらすごく怒りだした。
どうやら思うところが食い違っているらしい。
それでも俺は自分の行動を変えたくはなかった。だから…。
「それでも待つよ。来なけりゃ来るまで…」
「…ッ!何で…」
志野さんの声が勢いを無くしていく。
それでも伝えなければいけない事もあるはずだから。
「話が、したいから」
「……話?」
だからこうやって待っていた。来るかもわからない志野さんを。
そして彼女は来てくれた。
だから話をしよう。此処で終わったら、何もかもが意味のない事になってしまうから。
「夢を諦めたって話…」
「……」
「君が何を思ってソレをやめたかは知らないけど、さ。だからこそ話してほしい」
「…何でよ」
「知りたいから。その上で一緒に考えて行きたいから」
冷静になってみれば、結構失礼というか言いずらい事を求めていたと思う。
ただ雨に濡れて、何時間も待たされていた俺にそこまで冷静に考える思考力は無かった。
それに、志野さんは暗い顔で俯きながらも話し始めてくれた。
「私の親、お父さんとお母さんがね、二人とも音楽家なの」
「…へぇ」
「お母さんがピアノ、お父さんがヴァイオリンの演奏者で、世界的にも結構有名なんだって」
音楽にはあまり詳しくないからわからないけれど、志野さんの話によると彼女のご両親は音楽家の中では知らない人はいないくらいすごい人達らしい。
世界ツアーなんかも行っているみたいで、なんだか別次元の人だ。
そんなご両親の影響で志野さん自身も音楽を始めたらしいけれど。
「私も楽器に触っているのは楽しかったし、将来は二人みたいにプロとして世界を回りたいとも思っていたわ…」
「…でも、何で?」
そう聞くと、少しの間を開けて彼女は答えた。
「…ピアノやってたんだけどね、お母さんと同じ」
「…うん」
「毎日練習して、大きなコンクールに出たの。音楽界の著名人も何人か来ていたらしいわ」
「…そこで、失敗したとか?」
そこで志野さんは首を横に振り。
「…演奏は成功したわ、これ以上ないくらいに」
「…じゃあ、なんで」
「……確かに演奏は成功したし、いろんな人が褒めてくれた。でも誰一人として私の演奏を聴いてはくれてなかったの」
「へ…?」
彼女の言っている事はいまいちよくわからなかった。
演奏を聞いたからみんな評価してくれたんじゃないか。
それを聞いてくれなかったとは、いったいどういう事だろう。
「…私のピアノを聴いた人の評価はね、『流石はあの人たちの娘』だったの」
「……」
「誰に聞いてもそんなのばかり、そこに私はいなかった…」
「それは…」
「その後も何度かコンクールに出て演奏したけれど、そこでも評価は同じ。有名な演奏者の娘だから当たり前だって…」
漸くわかった。彼女が夢を、ピアノをやめてしまった理由が。
何をしても評価されるのは自分の演奏では無くて音楽家の娘という部分。
そんな中で続けて行くのが嫌だったんだろう。
「その内ね、何だか嫌になってきちゃってね…」
「……」
「だからやめたの。そこに私は居なかったから」
「……」
ただそれは。
俺にとっては酷く些細なことで。
やっぱり俺と志野さんは同じでは無かったと確信するとともに。
今度こそ自覚できた確かな苛立ちが胸に芽生えて。
今の俺はそれを我慢して押しとどめる気も、無かった。
「…何だよ」
「え…?」
「様は逃げただけじゃん」
「なっ…何よ!あんたに何がわかるって…」
「わからねぇさ!諦める必要のないモノを自分で捨てた奴の考えなんかなぁ!」
「!?」
感情のまま自分の胸の内をさらけ出す。
志野さんの言っている事は理解できるし、同じ立場だったら俺だって嫌だったと思うさ。
それでも彼女はピアノを続ける事は出来た。夢をまだ叶えられたはずだったんだ。
それを自分で諦めたと。俺にとってそれはやはり許容出来はしなかった。
「確かに周りの評価が気になるのはわかるさ、でもそれがやめる理由になるとは思えない」
「……何よ」
「諦めたんじゃない、逃げたんだよ君は…」
「…ッ!!あんただって同じでしょ、諦めたんでしょ!?」
叫び声をぶつけられる。
既にどちらも雨に濡れ、彼女の持つ傘は意味を成さないモノになってる。
彼女の叫びに俺はずっと抱えてきた俺の中の重たい部分を吐き出した。
「…諦めるしかなかったんだよ、俺は」
「…え?」
「右目がね、見えないんだ、俺…」
「……」
そして話しだす。
小さい頃からボクシングをやっていた事。それに人生の全てを懸けてもいいと思っていた事。コネや他人の影響もなく、努力と実力だけで評価をもらっていた事。そして、たった一回の事故でそれまでの全てとこれからの全てが無くなった事。
どこまで話していいものかと考えたりもしたが、話し始めると止まらず、結局全部話してしまった。
「…だから、仕方ないんだよ俺は」
「……そんな」
いつの間にか俺も志野さんも冷静さを取り戻していた。
どちらも顔色は良くないけれど、さっきよりは会話ができる。
「何に対しても意欲が無くなった、今までボクシングが全てだったから」
「……」
「理屈っぽくなるしか無かった、そうじゃないと自分に圧し掛かった理不尽さで潰れそうだったから」
だから、何をするにも考えたから行動するようになった。
どんな事にも『訳』を求めるようになった。それでいて結局は興味を持てないまま考えるだけで終わる。
そうなるしか無かった。
「……ごめ…なさい…」
「…うん、いいんだよ、それが今の俺だから」
「…ごめん、なさい……」
「……うん」
涙を流して、彼女は呟くように繰り返す。
嗚咽とともに吐き出される後悔の感情。
その後も雨に打たれながら謝罪の言葉を繰り返す彼女の声を、もっとも近い場所で聞いていた。
やっぱり慣れない事はするもんじゃ無い。
「俺さ、思うんだけど」
「…何?」
あの後暫くして、志野さんと雲が泣きやんだ。まぁ、結局は二人ともびしょ濡れで酷い状態なんだけれど。
お互いに胸の内を吐き出したからか、もう会話に抵抗なんて何もなかった。
「志野さんがピアノやめたのって、周りの評価だけじゃ無かったんじゃない?」
「え、どういう事?」
「えっとさ、志野さんってご両親がすごい有名人だったんでしょ?」
「えぇ、よく取材の人が来てた」
「それじゃないかな?」
「?」
つまりだ。そんな両親の娘という立場上、下手な演奏はできない訳で。周りは音楽関係の専門家、インタビュアーなんかも良く訪れたらしいし。そんな中で演奏してたらそりゃ責任とか感じちゃうでしょ。
そんな風に義務的にやってたんじゃつまらなくなるのは仕方ないさ。
「志野さんはさ、プロになりたいのは本当だったかもしれないけど、その時ピアノを弾くのはつまらなかったんじゃない?」
「……」
俺の言葉を聞いて、志野さんは暫く考えた後に『そうかもしれない』と呟いた。
つまりは、そーいった事な訳で。
やっぱり『訳』を求める理屈っぽいところはまだ治らない訳で。
「私も、何もやりたくないのかも」
「…じゃあさ」
そんな彼女に提案する。
今ならはっきりと言える、似た者同士の二人だからこそ。
「二人で見つけようよ」
「え?」
「やりたい事をさ。誰に言われた訳でもなく、何の義務も感じる事もなく」
「……」
「二人がやりたいと思った事をさ、高校生活3年使って見つけようよ」
「……やりたい事」
何でそんなこと言ったのかはわからない。
このまま何の意欲も持てないのは良くないと思ったのか、志野さんに同情したのか、ただ二人の会話の間が持たなかっただけか。
結局答えはわからなかったけれど、この時ばかりは『訳』なんて考えなくていいと思えた。
だって、隣に座っていた志野さんは、その時確かに笑っていたんだから。
投稿が遅くなってしまいました。
読んでくださっている方々はすみませんでした!
とりあえず今回で第一章は落ち着いたかな?
課題とかで大変だけど頑張っていきます。
いつでも感想や意見は歓迎です!