第2話:赤ん坊の特権、それは一日中寝ていても怒られないこと
転生してから数日が経った。 僕の生活は、前世とは比べものにならないほど充実している。
朝、目が覚めると母さんのミルクがある。 お腹がいっぱいになったら、ふかふかのベビーベッドで二度寝をする。 生理現象でおむつが汚れても、泣けばすぐに誰かが取り替えてくれる。
最初は、大人の意識を持ったまま下の世話をされることに屈辱を感じた。 けれど、三回目くらいで悟った。 「恥を捨てれば、これほど楽なことはない」と。
「テオ~! あそびましょ~!」
……まあ、天国にも多少の試練はあるけれど。
ドタドタと足音を響かせて部屋に入ってきたのは、姉のゼナだ。 今日も今日とて、元気いっぱいである。
「こら、ゼナ。テオはまだ寝ている時間ですよ」
その後ろから、穏やかな声がした。 五つ上の兄、レオンだ。 彼は本を小脇に抱え、暴走機関車のような姉の襟首をひょいと捕まえて止めている。さすが、扱い慣れている。
「むー。だってレオンお兄様、テオはずーっとねてるんだもん。つまんない」 「赤ん坊は寝るのが仕事なんだよ。それに、無理に起こすと……」
兄が視線を扉の方へ向けた。 そこには、仁王立ちをした母・マリアの姿があった。笑顔だが、目が笑っていない。
「ゼナ? 廊下は走らないと約束しましたよね?」 「ひぃっ! ご、ごめんなさいお母様!」
姉は脱兎のごとく逃げ出した。 強い姉も、母には勝てない。この家の食物連鎖の頂点は間違いなく母さんだ。
「やれやれ……。お騒がせしてごめんね、テオ」
嵐が去った後、兄のレオンがベッドの横に椅子を置いて座った。 彼は僕が起きていることに気づくと、優しく微笑みかけてくれる。
「暇だろう? 本を読んであげようか」
兄はそう言って、手元の分厚い本を開いた。 まだ言葉がわからないと思っているのだろう。彼は難しい歴史書や、物語を読み聞かせてくれる。その声は心地よく、最高の子守唄だった。
けれど、今日の僕は少し違った。 兄が読んでいた一節が、僕の耳に留まったからだ。
『――かつての大賢者は、膨大な魔力を用いて山を動かし、海を割ったという』
(魔力……!)
その単語を聞いた瞬間、僕の眠気が吹き飛んだ。 やはり、この世界には魔法があるのか。
山を動かすとか、海を割るとか、そんな大層なことはどうでもいい。 僕が気になったのは、もっと身近で、切実な可能性だ。
もし魔法が使えるなら。 遠くにあるお菓子を手元に引き寄せたり(サイコキネシス)。 トイレに行かずに汚れだけを消し去ったり(浄化魔法)。 歩かずに目的地へ移動したり(転移魔法)。
そんな「夢の怠惰生活」が実現できるのではないか?
(……やらねば)
僕は決意した。 一生楽をして暮らすために、今だけは本気を出そう。
兄が読書を続けている横で、僕はそっと目を閉じた。 前世の知識――サブカルチャーで得たあやふやな知識――を総動員して、自分の体の中を探る。
へその下あたり。いわゆる丹田と呼ばれる場所に、意識を集中する。 するとどうだろう。 ポカポカとした、カイロを貼ったような温かさを感じた。
(これだ……!)
血液とも、体温とも違う。 確かなエネルギーの塊。 僕はそれを、意識の力でゆっくりと動かしてみる。
最初は、重たい泥水をかき回すような感覚だった。 けれど、赤ん坊の体は純粋だ。余計な不純物がないせいか、少しずつ、その温かい流れは僕の言うことを聞き始めた。
右手に集まれ、と念じれば、右手がじんわりと熱くなる。 頭に巡れ、と念じれば、視界がクリアになる。
(楽しい……)
それはまるで、体を使ったパズルのようだった。 しかも、魔力を循環させていると、なんだか体が軽くなり、心地よい疲労感に包まれていく。
これはいい。 魔力の操作は、最高の暇つぶしであり、安眠への近道だ。
「すー……すー……」 「おや、もう寝てしまったかい? おやすみ、テオ」
兄が優しく毛布を掛け直してくれる。 僕は温かい魔力を抱いたまま、将来の楽隠居を夢見て、深い眠りへと落ちていった。
この時の僕はまだ知らない。 赤ん坊の頃から、呼吸をするように魔力を練り続けた結果――数年後、とんでもない質と量の魔力を持つことになってしまうなんて。




