第1話:転生しました。労働は全力で拒否します
もしも生まれ変わることができるなら、次は絶対に働きたくない。
道端の石ころか、あるいは飼い猫がいい。
陽だまりの中で温まり、眠くなったら眠り、腹が減ったら誰かが餌をくれる。そんな自堕落な一生を送りたい。
ブラック企業のデスクで、意識が薄れゆく最中に願ったのは、そんなことだった気がする。
だから、目が覚めて、自分の体がふにふにとした柔らかい何かに変わっていることに気づいた時も、僕は特に慌てなかった。
「あぶー」
口から漏れたのは、間の抜けた声だ。
視界がぼやけている。手足を動かそうとしても、思うように力が入らない。
見上げれば、知らない木造の天井。鼻をくすぐる、干し草とミルクの匂い。
どうやら、石ころにはなれなかったらしい。
けれど、状況から察するに、人間の赤ん坊にはなれたようだ。
(……まあ、いいか)
僕は思考を切り替える。
前世の記憶――連日の残業、終電帰り、理不尽なクレーム処理――が走馬灯のように頭をよぎり、そして消えた。
あれはもう、終わったことだ。
今の僕は赤ん坊だ。
赤ん坊の仕事は、泣いて、ミルクを飲んで、寝ること。
そこに「納期」もなければ「進捗報告」もない。朝6時に鳴る目覚まし時計もない。
最高じゃないか。
「あらあら、目が覚めたの? テオ」
覗き込んできたのは、優しそうな女性だった。
栗色の髪を緩くまとめ、エプロンドレスを着ている。どうやら今世の母親らしい。
彼女は僕を抱き上げると、愛おしそうに頬を寄せてきた。
「いい子ねえ。全然泣かないんだから」
そりゃそうだ。泣くのすら面倒くさい。
揺りかごの寝心地は最高だし、室温も快適だ。不満がないのに泣く理由がない。
彼女の言葉は、前世の言語とは違う響きだったが、なぜか自然と意味が頭に入ってきた。 僕は彼女――母さん(マリアというらしい)の腕の中で、脱力しきった体を預ける。温かくて、柔らかい。これぞ至福。
と、その時だった。 ドタドタドタ! と静寂を切り裂く足音が近づいてくる。
「お母様! テオは……テオは起きましたの!?」
扉が勢いよく開け放たれ、小さな竜巻のような幼女が飛び込んできた。 僕より少し年上の、3歳くらいだろうか。母さんと同じ栗色の髪を跳ねさせている。 これが姉のゼナか。
「こら、ゼナ。レディはもっと静かに歩きなさいといつも言っているでしょう」 「はっ……! そ、そうでしたわ! ごきげんよう、テオ!」
姉はハッとした顔でスカートの裾をつまみ、取って付けたようなお辞儀をした。 けれどすぐに我慢できなくなったのか、目をキラキラさせてベッドの縁にへばりついてくる。
「ああっ、もう可愛いわ! テオ! お姉ちゃんですわよー! ぷにぷにー!」
猫を被っていたのは一瞬だった。 遠慮のない指が、僕の頬をぷにっと突く。 痛くはないが、圧がすごい。この指の力、将来は怪力の女騎士にでもなりそうだ。
「ゼナ、あんまり強く触ったら可哀想だよ。赤ん坊は柔らかいんだから」 「そうだな。テオがびっくりしているぞ」
姉の後ろから現れたのは、二人の男性だった。
一人は、僕を抱き上げる母さんに似て、穏やかな目をした少年。これが兄だろうか。 彼は僕を見ると、ふにゃりと優しく目を細めた。
「はじめまして、テオ。僕が兄さんだよ。……うん、やっぱり母さんに似て可愛いね」
そっと撫でられた手つきは繊細で、とても優しい。 そしてもう一人。
「どれ、私にも顔を見せておくれ」
精悍な顔立ちをした、金髪の好青年が覗き込んできた。父・ベルンだ。 優しげだが、その瞳には領主としての知性と、いざという時に家族を守ってくれそうな頼もしさが宿っている。
「あなたたち、全員で囲んだらテオが怖がるわよ」
母さんが困ったように笑う。 けれど、その目が一瞬だけ鋭く光ったのを僕は見逃さなかった。
「特にゼナ? もしテオを泣かせたら……今日のおやつは抜きですからね?」 「ひっ……! わ、わかってますわよぅ!」
元気な姉が一瞬で縮み上がった。どうやら、この家で一番強いのは母さんらしい。
父さんは僕の頭を大きな手で撫で、姉さんはビクビクしながらも僕の指を握り、兄さんはそれを微笑ましそうに見守り、母さんは僕を優しく抱きしめている。
騒がしくて、少し窮屈で。 けれど、前世の孤独なアパート暮らしでは決して味わえなかった、温度のある空気。
(……悪くない)
僕はされるがままに、ふにゃりと口元を緩めた。 頼れる父さんに、優しい兄さんと母さん。姉さんはちょっと騒がしいけれど、悪い人じゃなさそうだ。 ここには過労死も、孤独死もない。
神様、ありがとう。 僕はここで、この温かい家族に守られて、最高のニート生活を送ることにします。
満ち足りた気分のまま、僕は再び心地よい眠りの世界へと落ちていった。




