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悪女エレナの記憶は戻らない

第1話


 伯爵夫人であるエレナは記憶喪失となって目覚めた。顎鬚を蓄えた男らしい夫オスワルド・バクトリルのことも、花のような美少年である息子アベラルドのことも覚えていない。なぜ自分がこんな状態にあるのか分からないという彼女に、オスワルドは“階段から転げ落ちて頭を打ったんだよ”と優しく教えた。その言葉通りエレナの頭には包帯が厚く巻かれている。エレナはそれを聞いた途端、多くの人に迷惑をかけたことを恥じた。


「そう……ご迷惑おかけして申し訳なかったわ……。階段で足を滑らせた私が、何もかも悪いんだわ……。本当にごめんなさいね……」


 その瞬間、夫オスワルドと息子アベラルドが硬直した。

 侍女達などはひそひそと囁き、酷く狼狽えた様子を見せる。


「ど、どうしたの……? 私、失礼なことを言ったかしら……?」


 その途端、オスワルドとアベラルドが尋ねた。


「君は本当にエレナかい……?」

「お母様、どうしてしまったんですか……?」


 その問いにエレナはおずおずと答える。


「え、ええ……自分の名前だけは憶えているわ……。私はエレナよ……。それにご迷惑をおかけしたら謝るのが普通ですわよね……?」

「確かにそうだが、君は今まで人に謝ったことがなかったじゃないか?」

「そうだよ、いつも苛々して当たり散らしているのがお母様でしょう?」

「え……? 私ってそんなに酷い人間だったの……?」


 夫と息子の言葉にエレナは青ざめた。

 すぐさま侍女に向かい、過去の自分について尋ねる。

 すると返ってきた言葉は想像していた以上に酷いものだった。


「私はワインをかけられ、床に落ちたパンを食べさせられました……」

「私は何度も罵倒され、泣き出すと大笑いされました……」

「私は足蹴にされ、靴を舐めさせられました……」


 その言葉にエレナは大きなショックを受けて、固まった。自分は何という恐ろしい人間だったのだろうか。侍女を人間と思わないその行動に、自分自身のことながら反吐が出そうだ。彼女は悲しみのあまり涙を零しつつ侍女達に謝った。


「ごめんなさい……! これからは心を入れ替えて、あなた達に酷い仕打ちをしないと誓うわ……! 酷い目に遭わせた侍女全員には慰謝料を払います……! 本当に申し訳なかったわ……!」


 エレナの心からの謝罪に侍女達は目を剥いて、震えた。


「あ、あの奥様が侍女に謝った……!?」

「奥様が慰謝料をくれるですって……!?」

「記憶喪失で変になってしまわれた……!?」


 オスワルドも、アベラルドも、侍女達も……全員が驚いていた。

 それからエレナは過去の自分自身を知るたび自己嫌悪に陥ることになる。


 伯爵夫人エレナは飛び切りの悪女だったのである。

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第2話


「ええっ!? 奥様が私にお菓子をくれるんですか!?」

「奥様がお礼を言って下さるなんて……私、死ぬんじゃない?」

「奥様が手伝いをしてくれるとは!? 石でも降るんじゃないでしょうか!?」

「ひえええぇ……奥様ってそんなに優しく微笑むんですね……」

「奥様が優しいなんて!? 毒でも飲んだのですか!?」


 使用人や侍女からそう言われ、エレナは参っていた。頭の傷はだいぶ良くなり、数日後には包帯も取れるという。だから日常生活へ戻る練習として屋敷の中をうろついていたのだが、行く先々でその言動に驚かれる。にっこり微笑んだり、差し入れをしたり、優しい言葉をかけたりすると、誰しもが驚くのだった。


 使用人に対して酷いを行いをしていた自分だから、きっと夫や息子にも同じだったに違いない。そう考えた彼女は謝罪のためにオスワルドの書斎へ出向いた。


「どうしたんだい、エレナ? さあ、入り給え」


 オスワルドは微笑んで出迎えてくれる。

 エレナはほっとして中へ入った。


「あのう……過去の私ってあなたに対してどんな風でした……?」

「そうだね。過去の君はとても冷たかったね。ほとんど口を利いてくれなかった。それに俺みたいな夫は大嫌いだと言って、もう十数年も寝所を共にしていないよ」

「そ、そんな酷いことをしていたんですか……?」


 エレナはとても悲しい気持ちになった。冷たく無視する上に共に寝てもくれないなんて、自分は何て酷い妻だったのだと嘆いた。そして妻の務めを果たさない自分に優しくしてくれる夫は何て良い人なのだろうと感激したのだ。だから涙を滲ませながら、こう言った。


「オスワルド様……今まで申し訳ありませんでした……。あなたが望むなら、いつだって妻の務めを果たします……。もう冷たくしたり、無視したり致しません……。ですから、どうか過去の私を許して下さいますか……?」


 するとオスワルドは大きく目を瞠った。


「そ、それは本当かい……?」

「ええ、本当ですわ」

「では、俺の頬に口付けてくれるか……?」

「ええ! 勿論です!」


 そしてエレナは夫の隣りへ腰かけると、優しく微笑んで口付けた。

 その瞬間、オスワルドは涙を流し、わなわなと震え始めた。


「あ、あぁ……天使……! 天使だ……! 妻に天使が宿った……!」

「えっえっ? 天使?」

「うわあああぁ……! 神よ……! 生きてて良かったあああぁ……!」

「オ、オスワルド様?」


 天を仰ぎ、泣き咽ぶ夫――

 それをエレナは見守るしかなかった。

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第3話


 記憶喪失であるバクトリル伯爵夫人に天使が宿った――その知らせは瞬く間に社交界に広まった。夫のオスワルドが、妻の豹変ぶりを自慢げに話したのだ。するとエレナの元にはお茶会の誘いが次々と舞い込み、彼女は引っ張りだことなった。


「まあまあ、エレナ様。今日は随分控えめなのね?」

「そうそう、いつも通り高慢な高笑いをすればよろしいのに」

「悪口、嫌味、自慢……この三拍子が揃わないとエレナ様じゃないわね?」


 お茶会の席で貴婦人達にそう言われ、エレナは困惑した。

 やはり自分は屋敷外でも物凄く性格が悪かったらしい。

 そしてこれまでの悪行を挽回しようと、必死に謝る。


「これまで、私の態度で不愉快にさせたのなら謝ります……。本当に申し訳ありませんでした……。悪口も、嫌味も、自慢も、もう絶対に致しません……。これからは心を入れ替えましたので……どうぞ仲良くして下さい……」


 すると貴婦人達は絶句した。

 しばしの沈黙の後、こんな言葉が語られる。


「信じられない……! あのエレナ様が謝ったわ……!」

「まさか、天使が宿ったというのは本当だったの……?」

「顔付きがまるで違うもの……! まさに天使よ……!」


 そして貴婦人達は試すように様々な話題を振ってきた。しかしエレナが天使である印象は覆らない。謙虚さ、優しさ、穏やかさ……そのどれもが心の底から湧き出てくる真実のものだと、人々は語った。きっと天使が宿ったことで、かつての悪女は消え去ったのだと、まことしやかに囁かれた。


 悪女から天使へ――エレナはどうして自分自身がそんなにも変わってしまったのか理解できずにいた。記憶を失ったとは言え、性格が変わるなんておかしい。本当に私は魂が入れ替わってしまったのではないか、そう悩んでいた。


 今日も物思いに耽りながらひとり庭園を歩く。


 その時、使用人の男ルイがこちらへ向かってきた。彼は辺りを見渡して人がいないことを確認すると、エレナに一通の手紙を渡した。そして何も言わずにそそくさと立ち去ってしまったのだ。そんな行為に彼女は首を捻り、手紙を開封してみる。すると便箋にはこう書かれていた。


 親愛なるエレナへ


 僕は君の秘密を知っている。

 その秘密を思い出させてあげるよ。

 今夜、バクトリル伯爵の屋敷の納屋に来てくれ。

 手紙を渡した使用人は僕の仲間だから罰しないように。


 イヴァンより


 それを読んだエレナは恐怖に震えた。悪女である自分の秘密だなんて、想像しただけでも恐ろしい。きっとこの手紙の主はその秘密をネタに強請る気だ。そう思ったエレナは手紙を細かく引き裂いた。そして手の平に乗せると、風に飛ばしたのだった。

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第4話


 エレナにはひとつ気がかりなことがあった。

 夫とも、友人とも、使用人とも、上手くいっている。あらゆる人間関係が良好になった。しかし息子アベラルドとの関係だけが、どこかギクシャクしている。アベラルドは目が合うと挙動不審に陥り、話しかけるとどこかへ逃げてしまう。それはきっとかつての自分が悪い母親だったからに違いない。そう思った彼女は中庭に面した心地の良い部屋に息子を呼び出し、話しかけた。


「ねえ、アベラルド……。あなた、私が目覚めてから一度も笑いかけてくれないわね……? どうか母である私に少しでも笑顔を見せてくれないかしら……?」

「いいえ、僕は笑うのが苦手で……難しいです……」

「そうなの……? 私のことが嫌いで、微笑めないのではないの……?」

「そんな、お母様……その、僕は……――」


 アベラルドは口籠ると、中庭へ駆けていった。

 そんな息子の姿を見て、エレナは悲しくなる。

 彼はいつになったら、心を開いてくれるのだろうか――


「お母様」

「アベラルド?」


 その時、中庭から声がして、エレナは振り返った。するとそこには侍女の娘と猫を連れたアベラルドが立っていた。金髪の巻き毛をした愛らしい幼女が、猫をぎゅうっと胸に抱いている。幼女は猫が可愛くてしょうがないのだが、猫は迷惑そうな顔をして不貞腐れているようだ。それはとても微笑ましい光景で、目にした誰もが口元を綻ばせるに違いない。

 それなのに――


「いやあああああああああッ……! こ、来ないでええええええぇ……!」


 エレナは信じられないほどの恐怖に苛まれ、絶叫した。

 幼女が、猫が、あまりに恐ろしくて絶叫を止められない。


「どうしたッ!? エレナに何があったッ!?」


 すぐさまオスワルドが部屋に飛び込んできて、エレナを抱き締めた。彼女はガタガタ震え、呼吸を激しく乱している。そんな妻の背中を夫は必死に撫でる。そうされていると恐ろしい幼女も猫も夢のように思えてきて、エレナは気が楽になってきた。やがて彼女が落ち着きを取り戻すと、オスワルドが心配そうに尋ねた。


「一体何があったんだい?」

「あ、あぁ……アベラルドが中庭に……――」


 しかし中庭にはアベラルドも、幼女も、猫も、いない。

 ただ庭木だけがざわざわと揺れているばかりだった。

 そんな中、息子の呟きが聞こえた気がした。


「――良かった。お母様は何ひとつ変わっていないね」

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第5話


 幼女と猫に恐怖を感じてから数日後――

 エレナは酷い頭痛に苛まれるようになっていた。頭痛が起きるたび、激しい吐き気と眩暈に襲われる。それどころか過去を思い出しそうな気配を感じて、ひとり震えていた。もし自分が過去を思い出したら、どうなるのか。今の自分が消え去り、昔の自分に上書きされるのだろうか。また恐ろしい悪女に戻るのか。


 そんな苦悩の中、使用人のルイが何枚もの手紙を置いていく。エレナはその手紙を読むことなく、全て燃やしていた。秘密を持った過去の自分に追い付かれるのは絶対に嫌だ。どうにかして過去の自分を遠くへ追いやらなければならない。さもなくば今の自分が消えてしまう、そう思っていた。


 頭痛を抱えエレナが横になっていると、階下が騒がしくなった。

 何事かと起き上がった時、ひとりの侍女が踏み込んできた。


「奥様! 絶対に部屋の外へ出てはいけませんよ!」

「ど、どうしたの……!? 何があったというの……!?」

「奥様の愛人だという者達が三十人ほども押しかけて来たのです!」

「何ですって……!?」


 エレナはその数の多さに眩暈がした。悪女とはいえ、まさか愛人が三十人もいるだなんて誰が想像しただろう。やがて侍女は“誰も部屋に入れちゃ駄目ですよ!”と忠告して立ち去った。エレナは頭が一層痛くなり、ベッドに横になる。


「過去の私は何ていう悪女だったの……」


 そう呟いた時、部屋の扉が開く音がした。

 入ってきたのは見知らぬ男と息子のアベラルドだ。

 二人はすぐさま扉を閉めると、部屋に内側から鍵をかけた。


「あ、あなたは誰……!? どういうことなの、アベラルド……!?」


 エレナが身構えると、男が微笑んだ。


「ああ、エレナ! 無事でよかった!」

「誰ですの……!? 私は記憶喪失で……――」

「ああ、それはアベラルド君から聞いている。僕は手紙を送ったイヴァンだ。愛人達が押しかける日を狙って、こっそり紛れ込んだんだよ」

「イヴァン……!? あなたがあの脅迫状を送ったのね……!?」


 エレナがそう言うと、イヴァンは溜息を吐いた。


「やはり一通目しか読んでいないか。あれで通じると思った僕が愚かだったよ」

「一体どういうことですの……!? なぜアベラルドと……!?」

「エレナ、僕はね、過去の君に助けを求められたんだ」


 そう言って彼は一通の手紙を取り出した。

 それをアベラルドに渡し、エレナに届けさせる。


「これは……?」

「君が僕に送った手紙だ。読んでみてくれ」

「え、ええ……――」


 そしてエレナは恐る恐る手紙を開いた。

 そこには自分の筆跡によく似た文字でこう書かれていた。


“親愛なるイヴァンへ


 挨拶を抜きにして、伝えたいことがあります。

 私は悪女などではありません。

 これまでの悪行は全て演技だったのです。”

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第6話


 手紙はこう続く。


“本当の私は虫を殺すことすらできない臆病者で、小心者なのです。

 幼い頃、一緒に遊んだあなたなら、分かってくれますね?

 私は伯爵夫人になって図に乗った訳ではないのです。


 ではなぜ私は悪女の振りをしていたのでしょう。

 それは夫オスワルドの命令のためです。

 あの人は……異常者です。


 私は十五歳で息子を出産しましたが、その後は一度も夫に抱かれていません。

 夫は自分の妻が他人に抱かれている姿を見ると興奮する変態なのです。

 そのため、私は三十人もの愛人を作らされ、覗き穴のある部屋で毎晩のように抱かれました。


 さらに夫は小心者の私をいじめるため、悪女の振りを強要しました。

 私に優しくしてくれる人がいなくなるように、悪い行いをさせたのです。

 親切な侍女を叱り付けたり、面倒見の良い使用人を罰したり、仲の良い友達に悪口を言ったり……私はその行為で心が砕けそうでした。

 でも逆らうとお仕置きをされるので、必死で悪女を演じました。


 そのお仕置きというものはあまりに酷い仕打ちです。

 ここに書くのも憚られるほどのお仕置きを長年受けてきました。

 私とアベラルドは完全に夫の支配下に置かれ、怯えて暮らしています。


 だけどこの間、私は夫の犯罪の証拠品を偶然にも見付けました。

 それを仕舞ってある隠し金庫の鍵も見付けてあります。


 だから明日の零時に伯爵家の納屋へ来て下さい。

 夫が寝た後、証拠を持ち出して近隣の公爵様に助けを求めましょう。

 どうか私とアベラルドを連れて逃げて下さい。

 あなたしか頼れる人はいないのです。


 あなたの幼馴染エレナより”


「読み終えたかい? 僕は約束の日、約束の時間に納屋へ行った。しかし君は訪れなかったから、意を決して伯爵家を訪ねたんだ。そして中へ入ると、階段の下で君が頭から血を流して倒れており、オスワルド様が茫然と立ち尽くしていた」


 イヴァンは渋い表情をして、そう語る。

 エレナはそんな言葉を聞き流して叫んだ。


「こんな手紙……嘘だわッ! 絶対に嘘に決まっているわッ!」


 そして手紙をイヴァンに叩き付ける。


「この手紙はあなたの捏造ね!? 私の夫はとても優しい人よ! 異常者なんかじゃないわ! お願いだから、もう帰ってちょうだい!」

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第7話


 取り乱すエレナにイヴァンとアベラルドは困惑した。

 イヴァンは彼女を宥めるように、穏やかな声色で告げる。


「エレナ、まずはその手紙を信じてほしい。このまま伯爵家にいたら、君はまた酷い目に遭うことになる。幸いなことにアベラルド君が隠し金庫の鍵を持っていた。だから今晩、オスワルド様の犯罪の証拠を持ち出して三人で逃げよう――」

「あなたの言うことなんて、信じられません! その手紙だって嘘だわ!」

「嘘? どうしてそう思うんだい?」


 エレナはついに涙を零しながら、訴える。


「だって私はとんでもない悪女だったのですよ! きっとあなたを嘘でおびき出し、恥を掻かせるために手紙を書いたのです! その証拠に待ち合わせ場所に訪れなかったでしょう!?」

「それは……君が階段から落ちて怪我をしたからだ……! もしそれがなければ、僕達は逃げることができたんだ……!」

「そもそも夫の犯罪とは一体何です!? あなたは犯行現場を見たのですか!? 全部全部その手紙だけが根拠なのでしょう!?」

「い、いいや……僕はアベラルド君から全てを聞いて……――」

「もうやめてッ! 帰ってッ! これ以上居座ったら、使用人を呼びますよッ!」


 その絶叫にイヴァンもアベラルドも顔を見合わせるしかない。

 やがて扉の鍵を開くと、二人は無言のまま出ていった。

 エレナは息を乱しながら、そんな二人を見送った。


 そして三十人の愛人は追い出され、外出していた夫が帰宅した――


「ただいま、エレナ。どうしたんだい、目を腫らして……?」

「あぁ……ようやく帰ってきてくれたのですね……!」


 エレナは愛しい夫の胸に飛び込んだ。オスワルドは動揺した様子で、手を宙に彷徨わせる。やがて彼はゆっくりとエレナの肩に手を回すと、そっと頬を寄せた。そのぎこちない態度にエレナは満足する。やはりこの人は犯罪者なんかではない。不器用で優しい人なのだ。


 やがて二人は夫の寝室へ向かうと、そのままベッドへ入った。そして幼子のようにじゃれ合い、他愛もない話を繰り返す。エレナは心の底から幸せだった。さっきまでの恐怖が嘘のように引いていた。このまま夫と結ばれたい、そう思って彼を誘った。


「ねぇ……あなた、このまま……――」

「ああ、うん、エレナ……ごめん……――」


 しかしオスワルドは申し訳なさそうに謝った。


「どうやら疲れて反応しないみたいなんだ。また今度にしよう」

「え、ええ、いいわ……。無理を言ってごめんなさい……」


 その時、頭の中にあの手紙の内容が過った。


 “私は十五歳で息子を出産しましたが、その後は一度も夫に抱かれていません。

 夫は自分の妻が他人に抱かれている姿を見ると興奮する変態なのです”


 まさか他人に抱かれていない自分には反応しないのではないか。

 いいやそんな訳ない――エレナは頭を振ってその考えを否定した。

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第8話


「そうだ、エレナ。記憶の方はどうだい? 思い出したかい?」


 オスワルドはベッドから降りると、胸元を緩めながら尋ねる。


「いいえ……まだ思い出せないわ……。あまり思い出したくないの……」

「そうかい。でも俺は思い出してほしいけどね」

「ど、どうして……? 悪女の頃の記憶なんていらないわ……」


 その時、エレナの手首に長い紐がかけられた。

 オスワルドはそれをきつく結ぶと、ベッドの柱に繋ぐ。

 奴隷のように繋がれたエレナは紐を解こうと必死で腕を振った。


「あ、あなた……!? 何なの、これ……!?」

「思い出してくれないと困るよ。だって俺の努力が水の泡になるだろう?」

「努力……? 何なの、それは……」

「君を苦しめた努力が無駄になると言っているんだ。散々いたぶったのに」


 エレナはオスワルドの目を見た。その途端、全身の毛穴が開き切る感覚がした。その目は暗く沈んでおり、いつもの優しさは欠片もない。それはまるで獲物を狩ろうとする狩人の目のようだった。そして彼はエレナの頬を優しく撫でると、自分自身の所業を語り始めたのだった。


「俺は君が男の子を産むまで優しくしてやったよ。しかし跡取りを産んだ妻など、もう無意味だ。だから少しずつ壊して遊ぼうと思ったんだ。だから三十人もの愛人に代わる代わる君を抱かせ、それを覗いて楽しんだ」

「う、嘘よ……! 嘘でしょう……!? これは嘘なんでしょう……!?」

「うん? 何を言っているんだい?」


 エレナは震えながら、自分の考えを伝える。


「わ、私が悪女だったから……復讐するために嘘を言ってるのね……!? あなたは優しい人だもの……! そんなことしないでしょう……!?」


 その言葉にオスワルドは目を見開いた。

 そして腹の底からくつくつと笑うと、言った。


「俺が優しい? これから証拠を見せれば、そんな考えは消えるぞ?」


 そう言ってオスワルドは別室へ消えた。やがて一匹の茶色の猫を連れて、彼は戻ってくる。それを見た瞬間、エレナはひきつけを起こしたように泣き出した。彼はそんな様子をにやにやと眺めて、こう告げる。


「昔から、君は猫が大好きだったね。だから僕は君に懐いた猫を何十匹も殺してあげたんだ。皮を剥いだ猫、目をくり抜いた猫、腹を裂いた猫……そんなものと君を同じ牢屋へ閉じ込めた。まあ、全部最後には殺したけどね。それから君は猫を見るたび、怯えるようになったんだよ」

「う、嘘よッ……! 嘘よおおおおおおッ……!」


 オスワルドは抱えていた猫を窓から捨てた。

 そのままエレナに満面の笑みを向け、尋ねる。


「これで、猫に怯える謎は分かったね? では幼女はどうだろう?」


 エレナの全身が、冷や水を浴びせられたように冷え切った。

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第9話


「君はどうしても娘が欲しいと言った。しかし私はその希望が気に食わなかった。なぜなら娘など作っても良い事なんて何ひとつないからだ。だから俺は君にその希望がどれほど愚かなのか、分からせてやることにした」


 オスワルドはエレナの目を見たまま続ける。


「俺は秘密裏に奴隷少女を買い付け、美しく着飾らせて君へ見せた。とある貴族から養女としてもらい受けたと言ってね。君は娘ができたことに感激し、その奴隷少女を我が子として可愛がり始めた。そして母子の間に絆ができた頃、俺は君の目の前で奴隷少女を拷問して殺した」

「あ、あああぁああぁぁッ……! そんなッ……そんなあああぁッ……!」


 エレナの絶叫に、夫は嬉しそうに何度も頷く。

 彼女は涙を大量に流し、過呼吸になりかけている。


「それをもう何回繰り返したかな。君は段々と心を閉ざしていったから、次の段階に進もうと思っていたんだ。僕はね、再び子作りをして君が娘を孕んだら、その子を腹から引き摺り出して殺してやろうと思っていたんだよ?」


 その言葉にエレナの気が遠くなっていく。

 この男はまともじゃない――悪魔だわ、悪魔でしかない。

 エレナが呼吸を乱しながら震えていると、オスワルドがその肩を掴んだ。


「だからエレナ、さっきは断ってしまったけど、子作りをしよう。きっと可愛らしい女の子を孕むに違いない。そしたらその子を粉々に……――ぐあっ!?」


 突如、オスワルドが声を上げて倒れた。

 その背後には剣の柄を掲げるイヴァンの姿が見える。

 きっと剣の柄で夫の頭を殴ったのだ――エレナは震えながら声を上げた。


「イヴァン様……! どうしてここに……!?」

「アベラルド君に頼み、屋敷に残っていたんだ!」


 イヴァンはそう言うと、すぐさまエレナに近付いた。

 彼女を縛っていた紐はイヴァンの剣で断ち切られる。


「あ、ありがとうございます……! 私、あなたを疑って……」

「そんなことはいいんだ! それより、早く行こう!」


 オスワルドはどうやら気を失っている様子だ。イヴァンは切った紐でオスワルドの手首をベッドに結ぶと、すぐに部屋を出た。やがてアベラルドと合流すると、三人は地下室へ向かう。そこにオスワルドの犯罪の証拠があるという。逃げるにしても、いくらかの証拠を持ち出して法に訴えねば、オスワルドの凶行を止めることはできないのだ。やがてアベラルドが先頭を切って、目的の場所を示した。


「こっちです……! ここに隠し金庫があります……!」


 牢が並んだ石造りの地下の奥――そこに隠し金庫はあった。

 石壁を動かし、金庫の鍵を開け、扉を開ける。

 そこにはおぞましいものが溢れていた。


「ひっ……――」


 そこにあったのは人体を収めた大中小の瓶だった。エレナがそのひとつの小瓶を眺めると、中にある眼球と目が合った。他の小瓶にも舌らしき肉片や切断された指が収まっており、全てが薬品漬けとなっている。中には少女の頭部が入った大瓶もあり、虚ろな視線がこちらを向いている。エレナは衝撃のあまり悲鳴を上げた。

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第10話


 イヴァンは瓶の横に置かれた書類に目を通し、頷く。


「これは奴隷を購入した際のサイン入り書類だな。さらには律儀に殺人記録も付けていたようだ。この書類と記録、そして小瓶をいくつか持って逃げよう」

「分かりました、イヴァン様。僕が鞄に詰めます。お母様は休んでて」

「あ、あぁ……ごめんなさい……」


 瓶を見てしまったエレナは絶叫し尽くし、床に座り込んでいた。イヴァンが宥めてくれなかったら、未だに叫んでいただろう。顔面を蒼白にしてわなわなと震えるエレナを二人は心配そうに見詰める。やがてアベラルドが証拠品を鞄に入れ終えると、震える彼女をゆっくり立たせて来た道を戻ろうとした。


 しかしその時、階段から重い足音が聞こえてきた。同時にザリザリと硬いものが引き摺られる音がしている。イヴァンは母子を下がらせ、剣を抜いて臨戦態勢に入った。やがて現れたのは頭から血を流したオスワルドであった。一振りの剣を引き摺りながらこちらへ歩いてくる。


「エレナ……まさか逃げる訳じゃないだろうなぁ……?」


 オスワルドが剣を振り上げた途端、それをイヴァンが受け止めた。

 二人は石造りの牢を行き交い、剣と剣を叩き付け合う。


「はっははは! まさかエレナが男を作っていたとはな!」

「僕達はそんな関係ではない! 信頼で結ばれた幼馴染だ!」


 鋭い音が響き渡り、男達は一進一退の攻防を繰り広げる。

 やがてオスワルドは興に乗ってきたのか、笑いながら叫んだ。


「くははは! エレナァ! お前は階段から落ちる直前、この俺を裁くと言っていたな! しかしすぐにいつもの幻覚を見て、怯えて階段から足を滑らせた! ざまぁないな! 天はこの俺に味方しているんだぁ!」

「げ、幻覚……!? 何ですか、それは……!?」

「エレナッ! こいつの話しを聞いては駄目だッ!」


 イヴァンは剣を交えながら、忠告する。

 しかしその声を遮るように、オスワルドは叫んだ。


「俺が殺した幼女や猫の幻覚だ! お前はいつもそれを見て泣いていた!」

「あ、ああ……あ、ぁ――」


 その時、エレナの頭に激しい痛みが走った。

 そして脳裏にあの日の光景が一瞬だけ浮かんだ。


 下り階段の前で、自分を激しく罵るオスワルド。その後ろには白い天使のような幼女達と猫達の幻影――全員が微笑んでこちらを見ている。幼女達と猫達が口を揃えて、何かを言った。するとエレナは頷いて、後退って自ら階段から落ちたのだ。


「あ、ああああああぁああああぁああぁあッ……!」

「――エレナッ!?」


 イヴァンは咄嗟にエレナの方を向く。

 その好機をオスワルドが逃すはずがなかった。


「死ねえええええええええぇッ!」


 しかし次の瞬間、オスワルドの右肩から剣先が生えた。

 彼はくぐもった悲鳴を上げ、後ろを振り向く。

 そこにいたのは短剣を手にした使用人のルイであった。


「イヴァン様ッ! 俺がオスワルド様を牢に捕らえておきますッ! その間に犯罪の証拠を公爵様に届けて下さいッ!」

「ルイッ……! すまないッ……恩に着るッ……!」


 そしてイヴァンはエレナを背負い、アベラルドと共に地下室から脱出した。最後に振り返って確認すると、オスワルドはルイによって牢に閉じ込められている最中だった。肩の傷は手当しなければならないだろうが、きっとルイは役目を果たしてくれるだろう。イヴァンは用意していた馬車を駆らせ、公爵家へ急いだ。

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第11話


「まさか……バクトリル伯爵がそんなことを……?」


 一通り話を終えると、公爵は不審の目を向けてきた。しかし証拠の品々を見せると、公爵は冷や汗を垂らし始めた。少女の眼球入り小瓶、奴隷購入の書類、殺人記録……それらは間違いなく証拠として足りるものだ。しかもバクトリル家の屋敷にはまだ薬品漬けが残っていると告げると、公爵は震えた。


「分かった。すぐに国王に掛け合い、バクトリル伯爵を裁いてもらおう。証拠品の回収のため、今すぐ我が家の騎士を向かわせよう」


 エレナ、イヴァン、アベラルドは侯爵の計らいに頭を下げて感謝した。そしてその日の深夜、オスワルドは騎士に捕らえられた。彼は無罪を主張していたが、地下室から出てきた証拠品を目にした騎士がそれを信じるはずがない。オスワルドはすぐさま牢屋に繋がれた。


 やがて事態を知った国王はオスワルドに斬首刑を言い渡したのだった。







「ば、馬鹿な……!? この俺が斬首刑だと……!?」


 オスワルドは処刑を伝えに訪れた大臣と面会人イヴァンを見た。

 その瞳には強い憎しみが籠っており、二人を睨め付ける。


「残念だったな、オスワルド様。罪を認めるんだ」

「貴様……イヴァンと言ったな? 俺は罪人などではない」


 その時、大臣は厳しい表情をして言った。


「オスワルド君、君は奴隷購入の書類に直筆のサインをしていたね。それが筆跡の鑑定で、君のものと一致した。さらには殺人記録、あれも君の筆跡だと認められた。そこにあの薬品漬けの死体が加わったら、死罪が確定しないはずがない」

「そ、そんな……大臣様……!? どこでその品を……!?」

「イヴァン君が殺人の証拠として提示したんだよ」


 するとオスワルドは激しく震え始めた。


「い、いや……あれは違うんです……! 奴隷の購入も、その殺害も、記録も、何もかも妻のエレナに命令されてやったのです……!」

「言い逃れしようとするな、オスワルド様。使用人の何人かはあなたがエレナを虐げていたことに気付いており、証言したぞ」

「その通りだ、オスワルド君。君の罪状は覆らない」

「あ、あぁ……そんな……そんな……――」


 その直後、後ろ手に縛られていたオスワルドは跪いた。

 そして大臣の靴に恭しく口付けをしたのだった。


「や、やめろ! 何をする!?」

「俺は大臣様の犬になります……! ですから命は助けて下さい……!」

「馬鹿なッ! おいッ! この男をどうにしかしろッ!」

「だ、大臣様ァ……! ヒンヒンヒィン……!」


 靴に口付けし、犬として仕えると訴え出すオスワルド――その姿はあまりにも無様で、大臣もイヴァンも困惑していた。牢を守る兵士達の間でオスワルドは“腰抜けの殺人鬼”として後々までの語り草になった。さらに処刑間際の彼は狂人そのものだったという。

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第12話


………………

…………

……




「エレナ……エレナ……」


 エレナは微睡みの中から目を覚まし、顔を上げた。


「あ、ああ……イヴァン……? どうしたの……?」


 エレナは庭に出したソファに凭れ、眠ってしまっていた。

 用事を済ませて戻ってきたイヴァンはそんな妻を見て、微笑む。


「そんなところで寝ると風邪を引くよ? それより調子はどうだい?」

「ええ、もう随分いいわ。勿論、記憶は戻らないけれど……」


 オスワルドが処刑された後、バクトリル伯爵家の財産は全てエレナのものになった。しかし彼女は悲惨な事件が起きた屋敷を取り壊し、使用人達には十分な金を渡して伯爵家を潰してしまった。再婚しなくても生きていけるだけの財産はあったが、深い絆で結ばれたエレナとイヴァンが恋に落ちるのは早かった。


 そしてイヴァン・ネスベセト伯爵とエレナは再婚した。アベラルドもイヴァンの息子になることを大いに喜び、祝福してくれた。彼は最初のうちこそは遠慮していたが、徐々に快活さを取り戻しいき、今では交友関係とスポーツに夢中だ。使用人ルイも今ではこちらへ移り、働いてくれている。


 エレナはそんな生活を幸せに感じていた。

 優しい夫と可愛い息子、そして信頼できる使用人――

 彼らが傍にいてくれる日常はまるで天国のようだった。


「……しかしエレナ。君はあの地下室で、何か思い出した様子だったね? 断片的に記憶を思い出したのではないのかい? それを教えてくれないか?」


 イヴァンの言葉にエレナは悲し気に微笑んだ。

 そしてあの時、思い出した記憶を語り始めたのだった。


「あなたと逃げると約束したあの日、下り階段の前で私はオスワルド様に罵倒されていたわ。私は彼から虐待を受けて、もう限界だった。精神が悲鳴を上げていた。すると不思議な幻覚が見え始めたのよ。最初は血塗れで苦しんでいる娘達と猫達が見えていたのに、徐々にその姿を変えていったの」


 イヴァンは黙ってその言葉を聞き続ける。

 エレナは安心して続きを語っていく。


「あの子達の背中には天使の羽が生えていった。全員が真っ白になり、透き通り、とても美しい姿となった。きっと神様があの子達を受け入れてくれて、天使にして下さったんだと私は安心したの。そうしたら、オスワルド様の声が私の耳に段々と届かなくなっていき、代りに娘達と猫達の声が大きく聞こえてきたの」


 エレナは愛おしい記憶を思い出すように目を閉じる。


「それは、とても優しい声だった。あの子達は“もう苦しまなくていいんだよ”って言ったの。“そこから足を踏み外せば、全部忘れさせてあげる。絶対に死なないから大丈夫だよ”って言ったのよ。だから私はその言葉に身も心も委ねて、自ら階下へ落ちていったの――」


 声を震わせ、そう告げたエレナをイヴァンは抱き締めた。

 そして泣きじゃくる彼女をいつまでも抱いていたのだった。


 それからエレナは天に召されるまで、辛い記憶を思い出すことはなかった――


―END―

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