第3話
道場を出てから、しばらく無言の時間が流れた。耳を澄ますとこれまで我が物顔で好きなようにお音楽を奏でていたセミから、主役を譲りうけた優しい秋の虫たちの声がどこからか聞こえてくる。半歩前を歩く誠の後を無言で付いていった裕子は、前で不意に立ち止まった背中にたたらを踏んだ。
「・・つか、お前んちってどこ?」
振り返って問いかけてくる誠に思わず裕子は大きなため息を付いた。今の誠は朝のように髪をだらしなくたらして、前髪で目までかくれてしまっている。
「あんたねぇ・・。わかんないのにどんどん一人で歩いていくってどういうことよ・・。」
「うっせ。で、どっち?」
「あっち。」
指で示し、裕子が歩き出す。それに今度は誠が続いた。
「・・・ねぇ、如月君は転校してくる前は名古屋にいたんだよね?」
これは、今朝の当たり障りの無い質問から得られた情報である。
「ん?ああ、確かに名古屋にいたよ。」
興味なさげに誠が答える。
「向こうでは空手やってたの?」
「ああ、でも道場には行ってなかったなぁ。一人でやってた。」
「なんで道場いかないの?」
誠の実力ならばどんな道場にいってもその道場随一の使い手だろう。
「んー、まあ、まず名古屋にいたのは3日だけだったから道場なんか行けねぇよ。その前は父さんと二人で稽古してたし。」
「ちょ、ちょっと、3日ってどういうこと?」
「そういえば自己紹介のとき言わなかったな。俺、ずっとアメリカにいたんだよ。東海岸。父さんの仕事の関係で。向こうには当然道場なんて全然ないし。基本的に父さんと二人きりの稽古ばっかりだったから、そんな変わんねーよ。」
「えぇ!?アメリカ!?な、何歳のときから?」
「えーっと、小学校1年の時からかな。10年くらい。」
裕子はこれまで海外旅行というものをしたことが無い。よってアメリカなどはっきり行って別の星だと感じるほど遠いところだ。
「すごいねぇ。アメリカかあ。あ、じゃあさ、やっぱり英語はペラペラなの?」
「当たり前だろ。生活どうすんだよ。」
くくっ、と笑いながら誠が答える。
「そ、そうだよね。あ、あははは。」
微笑んだ誠の顔を見て、またしても裕子の顔が赤く染まる。
「え、えっと、お父さんと一緒に生活してたって言うのは分かったけどお母さんは?日本に残ってたの?」
強引に話題を変えようと裕子が投げかけた話題に、誠は思ったほど軽い反応を返してはくれなかった。
「・・・かあさんは、いない。」
「・・え?」
明らかに変わった声質に、思わず裕子は誠の方を振り返った。
「かあさんは俺が小学校に入る前に死んだ。俺のせいで。」
意識的に明るい声を出していることがありありと分かった。
「俺が小学校2年の夏。遊ぶことで頭が一杯で車道に飛び出した俺をかばって、かあさんは死んだ。」
そう語る誠の横顔は、どこか虚ろで儚げだった。
「救急車で運ばれた病院で、かあさんは最後に俺に言ったんだ。『みんなを守ってあげられる人になってね』って。だから俺は」
そこまで喋って、誠はハッと我に返った。
自分はまだ出会ったばかりの女に何を話しているのか。道場で出会ってから、自分にしては珍しく自然と話すことが出来たのは認める。しかし、話しすぎだ。こんなことを自分から誰かに話したのなんてはじめての事だった。
この話を知ったときの女の反応なんてこれまでの経験から分かってる。自分から話したことなど無くても、自然と噂は流れるものだ。
『かわいそう』、『辛かったね』
みんな決まってそんな台詞を並べる。そんな言葉欲しくない。そんなことを言う奴の目は、例外なく哀れみを含み、俺という可哀想な存在に優しい言葉をかける自分に酔っている。いつもそうだ。特に俺に取り入りたい女の態度なんて、ムカムカして吐き気がする。どうせ、コイツも・・・・
「如月君は優しいね。」
しかし聞こえてきた言葉は予想していたどの言葉とも違っていた。
「は・・?俺が・・やさしい?」
「そうだよ。みんなを守ってあげらる人になってね、っていうのはお母さんからの最後のお願いでしょ?それを守るために如月君は一生懸命頑張ってきたんでしょ?私分かるよ、如月君が必死に努力してきたの。きっと、如月君は優しい人なんだね。」
そういって、裕子はふわりと微笑んだ。
「・・っ。」
その笑顔を目にした瞬間、誠は自分の顔が赤くなっていくのを感じた。
「・・?どうしたの?」
これまで他人からの見られ方に辟易していた。みんなを守れる人になるために、空手に打ち込んだ。力だけではどうしようもない事があると思ったから勉強にも力を入れた。手が届くのは小さな世界であっても、それを守るために自分に出来る事は必死でやった。でも、そうして与えられた評価はけして好意的なものばかりではなかった。まだ幼いコミュニティで、一人が突出した能力を持っていれば向けられる視線には妬みが含まれる。それがどんな努力に、対価に裏打ちされたものであっても。そしてその妬みが生む行動は時に無邪気なゆえに無慈悲で残酷だ。
その内、自分がやっている事に意味を見出せなくなった。けして誰かから評価されたくてやってきたわけではない。だけど、誰かの為にやって来たことでなぜか自分が白い目で見られる。それでも自分に出来る『守る』ことは続けてきた。
そんな誠にとって、裕子からの素直な言葉はまっすぐ心に響いた。同時に自分の鼓動が急激に高まる。裕子の顔を直視できずに顔を背けた。
『なんだ・・?コレ・・・。』
誠にとってそんな現象は始めてのことだった。
『だあかあらあ!わかるだろ!?その娘に出会った瞬間に顔に血が上って、心臓どきどきして。なんか訳わかんなくて恥ずかしいような嬉しいような、楽しいような寂しいような、そんな感覚!それが惚れる、ってことなんだよ!』
不意に誠の脳裏によぎったのはアメリカの腐れ縁の言葉だった。
「・・?どうかした?」
裕子がきょとんとして誠の顔を覗き込む。不意に近距離で裕子と目が合った誠は、一気にその腐れ縁の言葉を理解した。
『そうか。俺はコイツに惚れたのか。』
理解した瞬間、誠の心はふっと軽くなった。女に惚れる、などということは誠にとって初めてのことだ。何をどうすればいいかなんてわからない。だから誠は、言いたいことを言った。
「真山。」
「なに?」
「俺はお前に惚れたみたいだ。」
どこまでもストレートに。
「・・・・・は?」
「だから、俺はお前に惚れたみたいだ。今すぐ、お前を俺のものにしたいと思う。」
今度は裕子が混乱する番だった。
『こいつ、何言ってるの?惚れたって・・・私に?コイツが?』
言葉を噛み砕いて飲み込んだ時、一気に裕子の顔が朱に染まる。
「は!?あ、アンタととと突然なななな何言い出すのよ!!」
裕子は見事なバックステップで誠と距離をとる。耳まで真っ赤になっている。それをみて誠は苦笑する。慌てふためく裕子を見て、愛おしさがこみ上げる。
「何って言葉の通りだ。俺は、お前が好きだ。」
「そ、そんな、私たちまだ今日会ったばかりなのに・・・。私、如月君のこと何にも・・。」
「誠。」
「え?」
「俺の事、誠って呼んでくれ。」
誠がいう。
「そ、そんな・・こと・・」
裕子にとって男性を下の名前で呼ぶというのは非常にハードルが高い。
「俺が女に自分からこんなこと言うのは初めてだ。というか下の名前で呼ぶのを許したこともない。」
その事実に唐突に気付いたのであろう誠の顔に不安の色がさしたのを、裕子は見てしまった。
「ダメか?」
「う・・・。」
自信満々な態度から不意に見せられた何かにおびえる子供のような表情に裕子は思わず息を飲んだ。
「ま、誠・・くん」
くん、をつけたのが裕子の限界だった。誠は裕子の言葉に先ほど見せた一瞬の不安を吹き飛ばし、女である裕子が見とれるほど美しい笑顔を浮かべた。
「ありがとう。嬉しいんだな、こんな事が。知らなかった。俺もお前のこと裕子って呼んでいいか?」
「え・・それは・・構わないけど・・。」
「サンキュ。これからよろしくな。裕子。」
誠に名前を呼ばれ、裕子の動悸が一気に早まった。