ホルが見た世界
古い迷宮があった。迷宮には入り口があるが、出口はない。一度迷い込めば、二度と出ることはできない。近くに住む住人は迷宮にうっかり入り込んでしまうことを恐れて、迷宮には決して近寄らなかった。
迷宮の中に、一人の男が長いこと閉じ込められていることは、誰も知らなかった。彼の名はホルという。ホルは人間の体と牛の頭の持ち主である。毎日毎日、目が覚めると迷宮の中をあてもなくさまよって時間をつぶしていた。お腹が空くと、壁をかじりとって食べた。眠くなるとどこでも眠った。彼は迷宮の主であり、囚人ともいえた。
ホルは、人間の言葉を話さないし、理解もしない。人と話したことがないからだ。迷宮に最後に人が入ってきたのも、ずいぶん昔だった。
ある時、大きな地震が迷宮を襲った。地下の迷路の中で、ホルは突然の激しい揺れをひどく怖がったが、訳が分からなかったので、ただ頭を抑えてうずくまっていた。
気がつくと、迷宮は崩壊していた。ホルは崩れた大理石の下から這い出して、辺りの匂いをかいだ。
今まで見たことも聞いたことも、かいだこともない世界が、ホルの前に果てしなく広がっていた。地面にはかぐわしい香りの青草がびっしりと生えていて、ホルの足を優しくくすぐった。空気はよどむことなくゆっくりと動いていた。そしてホルの角を抑えつける窮屈な天井がなく、頭上にはどこまでも遠く丸い空があった。
ホルはのびをして、声をはき出した。彼の声は反響せず、世界に吸い込まれて消えた。はじめて、風を知った。小鳥や虫が飛んでいるところも、今までは見たことがなかった。見つめると目が痛くなるほど強く輝く太陽も。
ホルの元に、人々が集まってきた。皆、牛の頭をした男を恐れ、槍や剣で殺そうとした。ホルは剣を恐れ、逃げ出した。しかし、じきに追われたことを忘れ、ただ走ることに夢中になった。どこまで行っても、壁にぶつかることはない。走り疲れて大きく息をした時、胸が苦しくなるけれど、空気が何よりも甘くおいしく感じた。
そのうち、お腹が空いた。足元の草が、おいしそうな香りを放っている。ホルはしゃがみこんで、お腹がはちきれるまで青草を食べた。のどもかわいたので、川の流れる水をごくごく飲んだ。満たされて眠くなったら、ごろんと寝転んで眠った。草と空の夢を見た。
ホルを見た人々は化け物と思い、自分たちの村から彼を追い出した。けれど、ホルは気にしなかった。おいしい草や歩く道はどこにでもあることを知ったからだ。
時には、人間に飼われている牛に出会い、挨拶をした。牛は大抵人間につながれていて、自由がなかった。ホルは牛たちを見て、迷宮にいた頃の自分を思い出した。そして、閉じ込められたり自由を奪われるのはもうごめんだと感じ、牛たちのところを逃げ出した。
あくる朝、小鳥の声で目を覚ましたホルは、自分の手首に細い糸が結ばれていることに気がついた。糸をちぎろうとしたが、糸は見た目よりも頑丈で、決して切れなかった。ホルは怒って吼えたが、糸は変わらず結ばれたままだった。
彼が東へ進むと糸は次第に緩んだ。逆へ進むときつく張った。そこで、ホルは糸が緩む方向へ進むことにした。その先に何があるのか、彼には想像もつかなかった。ただ、また別の迷宮があったらすごくいやだなと思った。欲をいえば、おいしい草もあるといいなと思った。
ホルはどこでも恐れられたが、ほんの二人だけ、彼会っても逃げない人間がいた。目の悪い祖母とその孫娘である。孫娘は、畑の野菜を食べようとしているホルを見つけて叱りつけた。そして、野菜の代わりにこれを食べなさいと言って、まぐさをたっぷりくれた。
お礼に、ホルは少女や祖母の畑仕事を手伝った。少女が作ってくれた野菜入りのシチューを食べて、こんなにおいしい食べ物は他にないと思った。少女が市場に野菜を売りに行くのを手伝う時、祖母が編んだショールを顔に巻きつけて、牛の角を隠した。
彼女たちとの生活は楽しかったが、糸はまだまだ遠くにのびていた。だからホルは、二人と別れ、旅を続けた。人間の村を避け、草や水で腹を満たし、のんびりと歩いた。
とうとうたどり着いたのはぶどう畑もある広い農場だった。ホルが糸をたぐっていくと、その先には糸玉を胸に抱えた美しい女がいた。女はホルに近寄り、そっと彼の手首の糸をほどいた。
女はホルを抱きしめ、優しく言った。
「ようこそ、ホル。私の可愛い弟!」
ホルの姉は、広い農場で、ワインの神である夫と、子どもたちと暮らしていた。ホルはそこまで、生涯の終わりまでのんびりと楽しく暮らした。けれども、夜になっても、雷雨や強風の時も、彼は決して屋根や壁の中には入らなかった。