探偵と弱点
ある日の放課後、小林家は一階部分が探偵事務所となっている事もあって依頼人が来ていたらいけないからと、三人で喫茶店に入る事にした。
やはり学校終わりの学生が多い。それでもあまり待つ事無く四人掛けの席に通された。それぞれが注文してから、作戦会議とやらは開始された。
「先ず、二人は怪盗アルセーヌの盗みを直接見た事ってあるのか?」
「それが無いんだよね。この前はお父さんにお弁当は届けに行ったんだけど…そんなに遅くまで居させてくれなかったの。ね、翠。」
「うん。」
盗んでいるのが自分だから、なんて言える筈もなく頷いておく。そして、分かり切った事を聞いておく。
「そういう家達は?」
「無いんだよ。残念ながら、コネが有るのは捜査一課だけだからな。」
肩をすくめる家達とは逆にほっと安心する。が、表面上は真逆の事を返す。
「そりゃ残念。」
「そっかー、じゃあやっぱりお父さんに付いて行くしかないのかな?」
それが一番手っ取り早いだろう。小林探偵の名前は有名だ。そこに家達の名前まで加わると言うのなら何だか話が通ってしまいそうだ。
では、実際に現場に行けたら如何するか、と言う話題に移った時だった。
「キャーーーーー!!!!」
女性の悲鳴が店中に響いた。反射的にそちらに目を遣って、後悔した。
そこには、喉元を手で押さえて、苦悶の表情を浮かべ床に倒れ伏した男がいた。今しがた悲鳴を上げた女性の向かいに座っていたのだろう、転げ落ちた椅子も一緒に倒れてしまっている。コーヒーカップも転がっていて、中身も零れてしまっている。
人が、死んだ…?
駄目だ。見てはいけない。考えてはいけない。
分かってはいても、勝手に思考が回ってしまう。
あの席の人達が何時店に入ったのか、どんな行動をしていたのか、誰かに殺意が有ったのか…
この死に繋がりうる全てを記憶から洗い出して、統合して、結論を出してしまう。
これは他殺であると。
息が詰まる。
胃の内容物がせり上がって来る感覚がして、手で口を押えた。
気持ち悪くて。
息のし方が分からなくて。
でも、目を逸らせない。
その時、視界が何かに覆われる。伝わって来る温度から人の手だと分かった。少し冷静さを取り戻した思考はその持ち主が誰であるかも断定出来た。
「……わりぃ…」
「良いんだよ。苦手なのはしょうがないもん。」
これは致命的な弱点だ。怪盗アルセーヌは人を傷付けないのではない。傷付けられないのだ。
怪盗としての仮面を被っている時はまだ良い。ポーカーフェイスを初めから張り付けているから。それでも血を見たくなくて、殺傷能力の高い武器を持てないでいた。例え、命を狙われていても。だからこの弱点を知られる訳にはいかないのだ。…それもこの状況では叶わなかったが。
(よりにもよってあの探偵に知られる羽目になるとは……)
「…ちょっと、無理かも。……トイレ行って来る。」
「一人で大丈夫そう?」
「……行ける…」
◇◆
響き渡った悲鳴に思わず体が動いてしまったのは探偵としての性だろう。知り合いの刑事に連絡して、現場保存の為に物に触らないよう呼び掛ける。一連の行動にはすっかり慣れていた。そして、良くも悪くも有名になっている自分の言う事は店側にも客にも聞き入れられる事が多い。
間もなく警察も到着し、現場検証や事情聴取も始まった。
「浅井警部、深谷刑事、お疲れ様です。」
「通報有難う。家達君。」
死因はコーヒーカップの縁から検出された毒物だと推測される。
容疑者はやはり、亡くなった男性と共に来ていた二人の男女とコーヒーを運んだ男性店員。男女はどうやらネット上で知り合い、オフ会としてここに来ていたらしい。そんな二人の荷物を確認したところ、男のカバンから液体が入っていたであろう小瓶が発見された。
「違う!俺はやってない!何かの間違いだ!!」
「話は署で聞かせて貰いましょう。」
「そもそも殆ど今日初めて会った様な人なんだ。動機が無いんだよ!」
「それはどういう事ですか?先程ネット上で知り合ったと仰っていましたよね。」
喚く男に切り込むと、彼は女を指さしながら言った。
「あの女だけだよ。あいつ仲の良い人を一緒に連れて行って良いかって言って、それであの人が来てて…だから殺す理由が無いんだ!あんな小瓶も知らない!」
「ちょっと!私のせいだって言うわけ!?」
「当たり前だろ!アンタが嵌めたんだろ!!あの男を殺したくて、俺を隠れ蓑にしたんじゃないのか!?」
「ま、まあまあ落ち着いて…」
ヒートアップする二人を深谷刑事が諫めるが焼石に水の様だ。そんな時、後ろから肩を叩かれた。
驚いて振り返るとそこには真っ青な顔で、足元も覚束ない様子の在瀬がいた。そしてハンカチで包んだ小瓶を此方に差し出して来た。
「…在瀬っ!どうした、顔真っ青だぞ。」
「…これ、男子トイレに…落ちてて……」
「おう、分かった。サンキューな。それよりお前…」
「なんでそれを持ってるのよ!?落ちてるなんてそんなワケ…あっ!」
此方のやりとりが聞こえていたのだろう、女は半狂乱になってそう叫んだ。口を押えた時には手遅れで、自供したも同然だった。
「詳しくは署の方で聞かせて頂きますよ。それと、君、その小瓶は此方で預かるよ。」
浅井警部がそういうと、小瓶を受け取り犯人を連行して行った。今回は随分あっさり終わったなと思いつつ隣を見遣ると今にも倒れそうな顔色の在瀬。座らせてやった方が良いだろうと思い、覚束ない足取りの彼を支えて席まで戻った。すると、小林さんが立ち上がって自分の隣に彼を座らせた。
「もう翠ったら、家達君が居たから任せちゃったけど…あんまり無理しちゃダメだよ。」
口を押えて俯く彼の背をさすりながらそう言う彼女はこの体調不良の原因を知っているのだろう。
「ごめんね家達君、突然任せるかたちになっちゃって。」
「いや、それは良いんだけど…此奴どうしたんだ?元々体調悪かったとか。」
「ううん。そうじゃないと思うよ。ただちょっと“殺人事件”が苦手なの。」
事件が原因だとしたら“ちょっと苦手”なんてレベルでは無いだろう。遠目に見れば人が倒れただけ、血が出ている訳でもなく、知り合いでもない人の遺体にあの反応だ。明らかに何らかのトラウマを抱えているような…まあ、そこは彼女の言い回しだとして、それ以上に引っ掛かる事がある。
「殺人事件…?遺体とかじゃなくて?」
「うん、そうなの。サスペンスは見れないんだけどゾンビ物のB級ホラーは涼しい顔で見れるし、ドラマとかで偶にある偶然の事故で亡くなってしまった人の描写も平気だし。だからね、苦手なのは“殺人事件”なんだと思う。」
「成程。それは確かに“殺人事件”が苦手だな。…でも、何で判断出来たんだ?ここから遠目に見ただけじゃ病死に見えてもおかしくないのに。」
もしかしたら新しい友人はとんでもない観察眼を持っているのかもしれない。そう思って在瀬を見ていると、不意に視線を上げた彼と目が合った。
「…別に大した事じゃねーよ。ただ記憶を遡って、あの席を注視しながら再生しちまっただけで。そしたらあの女の人の行動が分かった。席を立った隙に男の人のカバンに小瓶入れて、亡くなった人のコーヒーに液体入れて、周り警戒しながら男子トイレに入って…だから落ちてたってカマ掛けたんだよ。」
「…マジか。」
答えが返ってくる事も期待してはいなかったのだが、返って来た答えは想像を遥かに超えていた。映像記憶能力だろうか。それだけでなく観察眼も持ち合わせている。彼の目をもってすれば未解決事件は確実に減るだろう。ただ、この様子を見て現場に連れて行こうとは思えなかった。
「じゃあ、あれ何処に有ったんだよ。」
「手洗い場の液体石鹸入ってるとこ。」
「よく分かったな。」
「へへーん!すげえだろ?」
「…おう、自分で言うのかよ。」
少し褒めると先程までの苦悶の表情が嘘の様にニパッと笑い調子に乗る。空気が軽くなる。
(ここだけ見ればお調子者の同級生なんだけどなぁ…)
普通の友人だと思っていた彼の異常性が垣間見える一件だった。頭が良いのはテストの結果で有名だったがここまでとは思わなかったし、今は恐らく意図的に空気を変えた。一体、どんな経験をして来たのだろうか。