海淵の瞳と共犯者
目の前の光景に目が釘付けになる。
遠く理解の及ばない、恐怖。まるで理解するなと本能が告げている様な…
体は動かず、目も逸らせない。
どれだけ時間が経っただろうか。
ふと、視界が白く染まる。正確には白い布に覆われると言った方が正しいだろう。一瞬、何が起きたか理解出来なかったが、それは同行していた女性がショールを広げた事によるものだと分かった。そして、次の瞬間そこに現れたのは…
「…怪盗アルセーヌ!?」
「おや?漸くお気付きになりましたか。坂口警部?」
彼が持つ月を思わせる冷たく研ぎ澄まされた独特な雰囲気に場が支配される。あんなモノを目の前にしていると言うのに。
(肝が据わっている、なんて言葉では足りないな。)
「さて、坂口警部。ここは一旦休戦と行きませんか?」
「…小林先輩に怒られる覚悟をしておくよ。」
優先順位は心得ている心算だ。今は彼よりも何とかしなければならないものが目の前にある。
拳銃を構え警戒していると清水令嬢も此方に気が付いたらしい。
「あら?あらららら?目が覚めてしまいましたの?まだ眠っていて頂きませんと。」
彼女が何処か焦点の合わない目でそう言うと、それに呼応する様に怪物の触手が激しくうねり、襲い掛かって来る。ドシンドシンと叩き付けられる触手の大半はデタラメな動きをしているが数も多く、着実に此方を追い詰めに来た。
自身を捕らえようと伸びて来る触手を紙一重で避け、本体に発砲する。
怪物は避ける素振りすら見せず、着弾しても一切怯む様子が無い。攻撃に意味が有るのか怪しいくらいだ。
(これはキリが無いんじゃないか?)
アルセーヌは軽く攻撃を躱し、余裕を見せている。こういった事態に慣れているのだろうか。
「…チッ…アルセーヌ、何か策は無いのか?」
そんな彼に問い掛けた時だった。
「有るには有るのですが……警部!!」
振り返った彼は焦燥の表情で私を突き飛ばした。突然の事で体制を崩し尻もちを付く。何事かと見回せば、目に映ったのは宙を舞うシルクハット。慌ててその主を探せば、甲板から投げ出され海に落ちていく姿が見えた。
◇◆
「アルセーヌ!」
切羽詰まった様な坂口警部の声が遠くから聞こえる。
(随分と人の良い方だ。怪盗の身を案ずる等、警察のする事では無いでしょうに。悪い気はしませんが…)
「あまり見縊らないで頂きたいですね。」
そう独り言ちると、右手に持ったワイヤーガンを五階デッキの手摺の向けて撃つ。ワイヤーが手摺に固定できたところで巻き取り装置を起動し、落下の勢いを殺して四階デッキに着地した。
「…っ……」
振動が伝わったのだろう、左腕に激痛が走った。確実に折れている。薙ぎ払われた触手から警部を庇う際、咄嗟に左腕でガードした為に殆どの衝撃が左腕に集中してしまった結果だ。
(内臓が傷付くよりはマシですが…暫くは使い物になりませんね……)
構造上、四階デッキの方が船首側に広く突き出している為、此処からワイヤーガンを使って跳べば恐らく背後を取れるだろう。そして、海淵の瞳さえ盗んでしまえばこの悪夢は終わる。
船首側の端まで行って五階デッキを見上げる。
清水令嬢の影が見えた。
今しかない。
五階デッキの手摺にワイヤーを放ち、助走をつけて跳び上がる。同時にワイヤーを巻き取り、その勢いで清水令嬢の背後に降り立った。
「この危険な宝石は私が頂きましょう。」
彼女が振り返る前に留め具を外しネックレスを盗み取る。すると彼女は目を見開いた後、力なく頽れた。慌てて右腕で支える。
その瞬間、怪物は消え去り曇天は晴れ渡った。
水平線上に朝日が見える。
悪夢は消えた。
「…はあ……坂口警部、レディのエスコートをお願いしても?お恥ずかしながら私の腕では満足に出来そうにないもので。」
呆気に取られている様子の坂口警部に話し掛けると彼は、気を取り直して此方に駆けて来た。途中で落ちているシルクハットを拾うあたり彼は本当に律儀と言うか真面目と言うか。そして、それを雑に私の頭に被せると清水令嬢を横抱きにして背を向けた。
「今回は人命に関わる事態だからお前に構ってはいられない。」
唐突に告げられた言葉の意味が理解出来ない程鈍くは無い。彼は今、私が宝石を持っている事を知っている筈だ。詰まり今回の窃盗は見逃すという事。
「…助かった。お前が宝石を盗まなければ、俺は彼女を撃つしかなかった。」
「間違っても、警察は犯罪者に礼を述べるべきではありませんよ。」
突き放す様に言って背を向けた。
まだ、彼等に絆される訳にはいかないから。立場を弁えなければならない。境界線を超えてはならない。利害の一致は有り得てもそれは一時的なもので、決して同じ道を歩む事は出来ない。それを、私は肝に銘じていなければならないのだ。
◇◆
「ハズレか…」
坂口警部と別れて甲板の片隅で盗んだ宝石を朝日に透かしながら呟く。相変わらず妖しく輝いているものの、それは私の期待した輝きではなかったから。
普段なら“アルカナ”以外は持ち主に返すのだけれど……
(今回ばかりは返しても碌なことになりませんよね…)
扱いに困る代物を手にしてしまった事に若干後悔している。今、警部に返したとしても恐らく清水令嬢の救護に勤しんでいるだろうから、結局彼女の近くに戻ってしまう。そうすれば同じ轍を踏む事になりかねない。彼もそれが分かっていて見逃したのだろう。
結果、持ったまま船を降りる羽目になった。
帰港までの潜伏も、下船も驚く程スムーズだった。それは警部が本気で探す気が無かった故か、それとも乗船者の殆どがホールで気を失っていた事の方が問題視された故か、はたまたその両方か。何れにせよ好都合なので良しとしよう。
地味な色合いのパーカーにジーンズ、キャップを目深に被った、あの怪盗アルセーヌとは似ても似つかない恰好で路地裏に入る。痛む左腕を押さえながら宝石をどうするか考えていた。
「ねえ、それ、扱いに困らない?」
一旦帰宅しようと考えが纏まって歩いていた時、物陰から姿を現し声を掛けて来たのは青い髪の見覚えのある美少女だった。同じ学校の同じ学年の隣のクラス。彼女に在瀬 翠と結び付けられてはならない。ぐっと深くキャップのツバを下ろした。
「何の事でしょう?」
「その宝石。あんな事があっても持っておく気?手に余るんじゃない?」
彼女はこの宝石の事を知っているらしい。その危険性も、船での出来事も。ならば、隠し立てする事は出来ない。服装は違えど怪盗アルセーヌとして対応する。
「そうですね…ですが、貴女が悪用しないとも限らないでしょう?」
「怪盗がそれを言うの。まあ良いや。適切に処理出来る所を知ってる。心配なら持ったまま付いて来てくれれば良い。」
「それでは失礼ながらお供させて頂きますね。」
嘘を吐いている様には見えない。しかし、何処の人間か分からない、どういう心算かも分からないから動揺を悟られぬ様ポーカーフェイスで余裕を装いつつ、警戒して彼女の後ろを着いて行く事にした。
春休み期間中に骨折がマシになる事を祈ろう。
道すがら、彼女は思い出したかの様に此方を振り向いた。
「そういえば自己紹介をしていなかった。私は星野 瑠璃。学生兼占星術師。無理に貴方の事を聞きはしないけれど…まあ、宜しく。」
「え、ええ…」
宜しくお願いします、と言い終える前に彼女は此方の反応も気にせず再び背を向けて歩き出した。随分とマイペースだなと思いつつ、そんな彼女の背を追おうと一歩踏み出すと、視界がぐにゃりと歪んだ。思わず壁に手を突き顔を伏せる。自分は思ったより疲弊していたらしい。
「…大丈夫?それ、私が持とうか?」
物音に気が付いた彼女が顔を覗き込んできた。声色は淡々としていて、表情の変化も乏しいのに何故かその瞳には心配の色が浮かんで見える。その提案に甘えてしまうべきだろうか。先の戦闘だけではここまで酷く疲弊はしない。海淵の瞳を手にしてから明らかに悪寒と疲労が悪化しているのは自覚していたのだ。
視界が揺らぐ、体が限界を訴えている。このままでは命に係わるのではないか。
それは、駄目だ。
「…お願い、します……」
「うん、賢明な判断。」
宝石を手渡すと彼女はそれを懐に仕舞った後、肩を貸してくれた。
「もうすぐそこだから。こんな所で倒れられても困るの。」
そう零した彼女の目を見る事は叶わなかった。
◇◆
辿り着いたのは古風な店構えの一軒家と【卯の花】と書かれた看板。
淀みなく歩みを進める星野に引きずられる様に中へ足を踏み入れた。すると、カウンターの奥に居る着物を着た女性に声を掛けられた。
「いらっしゃい。珍しいお客さんやね。」
「宇津木さん、ちょっと頼みたいアーティファクトが有るの。」
「ええけど…その前にその子、寝かせたったら?」
悠然とした態度に少しの心配が混ざった声でそう指摘されると彼女は私を見て、あっと声を上げた。宇津木と呼ばれた女性は店の奥の閉じられた襖を開け、手招きしている。襖の奥は畳が敷かれた個室となっている様だ。星野に支えられながらそこまで行くと限界だった体は言う事を聞かず倒れ込んでしまった。
遠退く意識の中で温かい毛布のようなものを掛けて貰った事だけは認識できた。
これが、彼女達との出逢いだった。