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竜の負う十字架  作者: 東 吉乃
第一章 真紅の出逢い
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07.竜の騎士・前


 喧騒は徐々に遠くなる。

 数えられないほど角を曲がり人の気配がほぼ無くなったことを確認して、ようやくアリシアは足を緩めた。そこは祭りの日には見向きもされないような細い路地だった。どこをどう歩いたのかも覚えていない。呼吸は驚くほど浅く、早かった。

 ふと顔を上げると、所狭しと並ぶ家々の後ろに巨大な白亜の王宮が見えた。このファティマス大陸を統治するアスガルド王の居城だ。

「どうせ一緒でしょう……?」

 呟いた声は驚くほど震えていた。

 十九年前までの統治者、ヴァン王家。末裔狩りでアリシアの両親の他、多くが殺された。末裔の駆逐と共に代々の王家も絶えたが、その後を継いだレイノア家もアリシアにとっては変わらない。

 悔しさだけが募る。

 誰が為政者になろうと、自分に対する――竜の末裔に関する扱いは変わらないまま、こうして虐げられる。一族への関係があるもなしも一緒くただ。この世の理不尽なこと、誰かにとって望ましくないこと、それらは一切合切全て一族のせいにされる。

 絶対悪なのだ。

 それは大多数にとって、どれだけ都合が良いだろう。

「さようなら、人殺しさん」

 どこまでいっても世界は変わらない。変えられない。分かりきっている。諦め続けるより他なかったし、それはこれからも同じだろう。

 複雑な想いを抱きながら吐き捨て、アリシアが踵を返した時だった。

「あ、」

「きゃっ」

 誰かに真正面からぶつかる。

「っ、ごめんなさい」

 目も合わせず俯いて謝り、アリシアは王宮を背にすぐさま歩き出した。

 低い声だった。背も高い。ぶつかったであろう相手の胸のあたりは硬かった。鎧だ。ここは王宮の近くだから、おそらく見回りの兵士だろう。こんなところで正体が露見し、これ以上の面倒事を起こすのは沢山だった。

「おい、ちょっと待て」

 かけられた声には振り返らない。

「これもしかして、あっ!」

 背中で男の声を聞きながらアリシアは駆けだした。

 冗談ではない。

 たかがすれ違いに少しぶつかっただけ、呼び止められる筋合いなどない。

「おい!」

 しかし男は追ってきた。路地を出て人波に紛れ込む前に、アリシアは手を掴まれる。

「放して!」

 思い切り顔を背けながら身をよじる。

 だが男の手はしっかりとアリシアの手首を掴んだままだった。

「あなたの邪魔なんてしてないでしょう? ちょっとぶつかっただけ、謝ったじゃない」

「違う、君を城に引っ立てようとは思っていない。怪我をしてるだろう」

「してない」

「嘘をつけ。じゃあたった今、俺の胸についたこの血は?」

 冷静な声にアリシアはちらとだけ視線を戻す。ローブに覆われて限られた視界の中、うすぎぬの向こうで白銀の鎧に確かに赤い染みがついていた。

 しかしすぐに目を逸らし、もう一度兵士の手を解こうと身体を捩る。

「知らない。私じゃない」

「まだしらばっくれるか。良い度胸だ」

 男の声に少しだけ険が混じった。

「あまり目立ちたくないようだな。理由は聞かないでおこう。だが俺に担がれるのと自分で歩くのと、どちらか選べ」

「っ……」

「これでもファティマス国軍の竜騎士だ。振りほどけるとは思わない方が賢明だぞ」

 静かな頭上からの声に、アリシアの心臓が跳ね上がった。

 ファティマス国軍。その竜騎士。それは十九年前に父と母の命を奪ったまさにその相手だった。

 

*     *     *     *


 手を引かれて歩く間、アリシアはずっと俯いたままだった。

 怖れとは裏腹に誰かとすれ違う気配はなかった。何度か角を曲がり、やがて小さな門を通り抜ける。そこに衛兵の姿はなく、王宮の敷地内と思しき場所ながら静寂に満ちていた。

 ずっと掴まれている手首から温かさが伝わってくる。

 被ったフードの限られた視界から窺うと、日に焼けた精悍な手が見えた。

 裏庭らしき場所を抜け、通用口と思しき扉を潜る。屋内に入ってから少し歩いて通されたのは、広いがものの少ない部屋だった。

「座ってろ」

 言い残し、竜騎士は部屋の外へと出ていった。

 簡素な部屋に一人取り残され、アリシアは初めて視界が濁っていることに気付いた。右の額を触る。ぬめる感触と共に、手にべとりと血がついた。だがその血を見ても、ああこのせいであの竜騎士に気付かれたのだなと思いこそすれ、アリシア自身は特に何も感じなかった。

 これから自分はどうなるのだろう。

 傷の痛みよりも、どんな扱いを受けるかの方が気にかかる。

 まだ素性は知られていない。きっと手当をされるはずだ。だがその為には被っているフードを脱がなければならない。そうすれば、あの竜騎士はアリシアの瞳を目の当たりにするだろう。


 特異な色の、この忌まわしい瞳。


 見られればただでは済まない。大罪人としての烙印にも等しい目だ。その瞬間、きっと見せられるであろう嫌悪の表情が目蓋に浮かんだ。

 今からでも遅くはない。竜騎士が戻ってくるまでにここから逃げ出すか。扉ではなく窓からならば、少しは時間を稼げはしないだろうか。そんなことを考えてアリシアが窓に顔を向けた時、背後で扉の開く音がした。

 踏み出しかけていた足を止め、アリシアはその場に棒立ちとなる。

「座っていろと言ったはずだが」

 小さな溜息が次いで聞こえた。

「まったく若いのに色々と強情なことだ。いや、若さゆえか。家出か? 親と喧嘩でもしたか」

 どうやらこの竜騎士は、アリシアの気が立っていることを十二分に承知しているようだった。それでも彼は意に介さないらしく、すらすらと言葉が出てくる。

 アリシアは答えなかった。代わりに胸の内でだけ叫ぶ。

 家は近々出る。そういう意味での喧嘩ができる親は既にない。それを奪ったのは誰なのかと、まして自分がこれほど頑なな理由さえ、一度でも口を開けば止められそうになかった。

「だんまりか」

 置かれていた四人掛けテーブルの上に、蓋付きの木箱が置かれた。

「まあ俺にとってはどうでも良いことだ。さて、顔を見せてもらおう」

 男の手がアリシアのフードにそっとかけられた。

 アリシアは無意識の内に顔を背ける。布の端を掴みかけた男の手は、視界の端で宙を掴んだ。

 沈黙が流れる。

 それまでは人当たり良く喋っていた竜騎士が、なにかを考えるように押し黙った。同じくアリシアも黙り込む。静寂がしばし部屋を満たしたが、それを破ったのは竜騎士だった。

「……どんな事情があるのかは知らん。だが今日のことは誰にも言わないと約束しよう」

 届く声が篤い。

 この竜騎士には一銭の得にもなりはしない約束を、なぜわざわざ持ちかけてくるのだろう。その不可解さが、アリシアに返事をしようという気にさせた。

「本当に?」

「ああ」

「あなたが誰かに漏らせばすぐに分かるわ。そうすればきっと、私は――」

「私は? どうするんだ?」

「――私はあなたを殺しにいく」

「なるほど、そう来るか。随分と物騒だな」

 は、と竜騎士が笑った気配がした。

「それほどまでに強い決意か。つくづく良い度胸をしている。家出娘、ファティマス国軍に入るか? きっとお前なら出世するに違いない」

「……国軍?」

 竜騎士が何気なく言った言葉を、アリシアは茫然と繰り返した。

 ファティマス国軍。それは驚くほど空虚な響きだった。

「おや、検討してもらえそうか」

 楽しそうに竜騎士が重ねる。

 その余裕。どうせ真実を目の当たりにした時には崩れ去るくせに、と心が尖った。

「ねえ、あなた。竜騎士さん」

「うん?」

「人が正体を隠す理由は、何だと思う?」

 一体自分はこんなところで何をしているのだろうと思いながら、アリシアは見知らぬ竜騎士に問うてみた。


 終わりの見えている故郷。希望のない己の人生。そんな中で、最後の花嫁の為にここへ来た。彼女が美しくあるように、美しいヴェールを求めて。たまたま今日が新年祭の始まる夜だった。光に溢れる街を一目見たかった。僅かな欲を出したせいで、自分の現実が嫌というほど突き付けられた。

 疎まれ続ける事実がただ突き刺さる。

 ふと、もういいのではないのかと考えていることにアリシアは気付く。竜騎士に投げた言葉。人が正体を隠すその理由。このままなにも変わらないのであれば、もはや隠す必要もなさそうに思えた。

 隠し続けるのは、心のどこかで希望を捨てきれないでいるからだ。

 きっといつか、誰かが愛してくれるのではと。

 きっと。

 きっと。

 想い続けているのに現実は変わらないことをこの額の傷は笑っている。滑稽だといって、きっと憐れんでいる。


「別に、本当はもうどちらでもいい。命をかけるほど立派な理由なんて私にはないし、気まぐれの優しさに縋って死ぬんだとしても」

 なにもかももう、どうでもいい。アリシアがそう続けると、小さく笑っていた竜騎士がぴたりと静かになった。

 互いの視線が絡むことはない。

 アリシアはずっと床を見つめ続けていたし、竜騎士は身じろぐ気配もなかった。もう一度、僅かに沈黙が部屋を満たす。

「どうした。急に大人しくなったな」

 とうとう竜騎士が口を開いた。

「続きは?」

 促されて、こんな小娘の益体もない呟きに耳を傾けようとしてくれていることに気付く。

 真摯な態度に少しだけアリシアの心が凪いだ。

 思うまま剥き身の言葉を投げつけるべきではない。その鋭利さがどれだけ相手を傷付けるかはもう学んだ。感情のままに人を叩きのめすことは、少なくともアリシアにとって爽快では決してなかった。

「いいえ、なんでもない。あなたが今日のことを口に出そうと出すまいと、私の未来は変わらないって気付いただけ。だからさっきのはもう忘れて」

「そうまで言われるか。いいだろう。この王家の紋章に誓って、一切他言はしない」

「竜騎士ともあろう人が、随分とつまらないことに誓いを立てるのね」

 僅かばかりの皮肉を込めてアリシアは小さく笑った。

 国軍の竜騎士といえば選ばれた人間の象徴だ。飛竜舞うこの世界に、その翼を駆る雄々しい姿は誰しもに畏怖を与える。逞しい騎士の体躯と力強い竜の飛翔がまさに正義の体現だった。

 そんな雲の上の存在が、どんな気まぐれで底辺の自分にその手を差し伸べるのか。

 声も出せずに喉奥が苦しくなって、その時初めてアリシアは額の痛みを感じた。

「怪我をしている女性を目の前にして、つまらないも何もないと思うが。若いんだから、もう少し素直になればいい」

「普通だったなら、……」

 言いかけた言葉を飲み込み、そこでアリシアは投げやりにフードを外した。

 初めて目が合う。

 すぐ傍に立っていた竜騎士は想像通り背が高く、存外に穏やかな顔つきをしていた。年の頃は三十の後半くらいだろうか。確かに鎧の胸あたりにアリシアのものと思しき血がついていた。

「もう、誰に触れ回っても構わない。好きにすればいいわ」

 額の怪我は知られてしまった。どんな問答をしたところで、ここまで来て顔を見せずに穏便に終わらせる方法などない。であればこそ、互いの素性を知らぬ間柄で表面上の応酬をいくら続けても無意味だ。

 晒した正体。

 先ほどの街中と同じように罵倒されるか、あるいは殴られるか。このまま捕らえられて殺されてもおかしくない。現に両親は末裔狩りの名の下に命を落とした。

 怖れなのか諦念なのか。アリシアの複雑な心境とは裏腹に、彼はなにも言わずしばらくの間真っ直ぐにアリシアを見つめるだけだった。

「……酷いな」

 永遠に続きそうだった無言は、ふと竜騎士が視線を逸らした時に終わった。

 彼は木箱に伸ばしかけた手を引っ込め、部屋に備え付けのクローゼットから手巾を取り出した。それを部屋に設えられている小さな洗面台の水で濡らして絞り、戻ってくる。彼はアリシアを椅子に座らせてから、隣に腰掛けてきた。

「沁みるだろうが、少しの辛抱だ」

 断りを入れてから、額や目尻、頬から顎へとまるで壊れ物を扱うように優しく触れてくる。

 ぼんやりとアリシアが考えたのは、顔の半分が血に濡れていたのかという他人事のような驚きだった。自覚も無いのに大量の血を流しているなんて、滑稽だとさえ思えた。

 竜騎士は何も語らない。

 ただ手際よくアリシアの傷を丁寧に手当していくだけだった。

 全てが終わった後も、その竜騎士はなにも訊いてはこなかった。彼はただ一言少し休んでいけばいいとだけ言って、湯浴みの準備をしてくれた。その言葉にふと見れば、アリシアのローブはあちこちが汚れていた。

 埃。破れ。そして滴った血の跡。

 それらを目にした途端、とてつもない倦怠感が圧し掛かってくる。声を出して断ることさえ面倒で、アリシアは黙って竜騎士の厚意を受け取った。

 どうなっても良かった。

 この優しさが一時の気まぐれであることは分かりきっている。僅かに信じたとして、けれどいつか裏切られるだろうと心の片隅でずっと思っている。それなのに襲いかかってくるあまりの空虚さに、今はこの竜騎士の真意を疑うことさえ億劫だった。

「基本的に俺たちは営内にある大浴場を使うのが当たり前で、ここは見ての通り簡易だ。大層な風呂じゃないから説明は要らんだろう。鍵はここだ」

 アリシアを浴室への次の間に通しながら竜騎士が手短に説明し、そのまますぐに彼は扉を閉めた。部屋の中を歩き去っていく靴音が聞こえる。言われたままアリシアは扉に鍵をかけてから、次の間で乱雑にローブと衣服を脱ぎ捨てた。

 覚束ない足取りで浴室の鏡の前に行くと、蒼褪めた顔の自分がいた。見つめ返してくる両目は、相変わらず気味が悪い異端の色だった。


 自分は一体、なんの為に生きている。

 見知らぬ相手から石をぶつけられるほどの、一体どんな罪を自分は犯した。両親の顔も知らず、誰も訪れることのない辺境で死んだように生きていくしかない自分に、どんな恐ろしいことができる。

 この問いへの答えはアリシア自身が誰より知っている。

 自分が一族の血を引いているからといってできることは二つしかない。多少の傷を治すこと。それから光の盾を作ることだけだ。

 小さな特技には大きな制限がついている。どちらも乱用すればすぐに自身の体力が奪われ昏倒する。癒すにしても自分自身は癒せず、人に仇為せるような代物では到底ない。

 寝物語に聞いた神話の祖先は素晴らしい力を誇ったという。死の淵を彷徨う人を癒やし、竜を相手に戦うこともできた。強大な力を礎に花開いた三千年の治世には、今は失われた多くの技術があり民はその利益を享受していた、と。

 翻って自分はどうだ。

 あってもなくても変わらないささやかな力だ。もはや末代だからなのかは分からないが、どうあれ自分に歴史を変えるほどのなにかなど在りはしない。


 鏡に映る自分にきつく問う。

 限られた力のくせに、責められる割りが多すぎはしないかと。


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