04.過去の断片
朝食の後、レベノス行きの準備はすぐに整った。
一泊の荷だけだ。ベルスの速さをもってすれば一日で往復できるが、せっかくの新年祭である。次はいつになるか、あるいは次はないかもしれない。そう思えば一晩の滞在くらいは許されていいような気がした。
小さな荷袋を肩に家を出る。
春の花が咲き始めた庭に回った時、コルトがアリシアを呼び止めてきた。
「なあに、大じじ様」
忘れ物でもしたか。訝って問うと、節と皺だらけの手がアリシアの手を包んだ。
そしてコルトがおもむろに口を開く。
「くれぐれも気をつけるんだよ」
綺麗なこげ茶の瞳が真っ直ぐにアリシアを捉える。
柔らかい視線だ。そして彼の手は温かい。手触りは相応にごつごつしているが、どこか優しい。
「私が代わってやれたらどんなに良いだろう」
百二歳。この世の様々なものを見てきただろうコルトの両目が、寂しそうに細められた。
ファーマで飛竜に乗れるのは二人、アリシアとデールしかいない。だがデールには村を守るという誰も替われない役目がある。アリシアが行かなければファーマの皆が困る。
たった一人の為に不便で貧しい暮らしを笑って耐えてくれる、こんなに優しい人たちの役に少しでも立てるのなら。受けた二十年分の恩を僅かでも返せるのなら。この気持ちに嘘はない。
本当は心の中で分かっている。
デールに叩きつけた言葉は八つ当たりでしかない。自分が幸せになれないことと、村人たちを責めることは別次元の話だ。
「それはもう言わない約束でしょ? 子供じゃないし、私はレベノスに行くのが楽しみなの。ちゃんとローブも着ていくし目元もフードで隠すから、これまで通り誰も私だって気付かないわ」
努めて明るく振舞うアリシアに、コルトはそれ以上なにも言わなかった。
一瞬。ほんの一瞬だが、思い出してもあまり楽しくない過去がアリシアの脳裏に浮かぶ。
視線。嘲笑。石。憎悪。コルトが知っていて、そして心配していること。
雨。路地裏。手。無数の。手。これは、──コルトの知らないこと。
だがこれこそ永劫口には出せない過去だ。一生誰にも言うつもりはない。そんな機会が訪れることもないだろう。
あの時以来、なにも問題は起こっていない。たった一回だけの過去だと心の中で強く自分に言い聞かせる。思い出した悪夢を振り払うように、アリシアは笑顔を作った。
「寒いから大じじ様はもう中に入って」
「気をつけるんだよ」
「うん、大丈夫」
重ねて言うと、コルトは後ろ髪を引かれるようにしながらも家の中へと戻っていった。
痩せてしまったその背を最後まで見届けてから、アリシアはふうと息を吐いた。そのまま二度三度と深呼吸を繰り返す。少しだけ手に滲んだ冷や汗を下衣で拭った時、デールが門扉から入ってきたのが見えた。
目が合う。
逡巡したが、アリシアは無視を決め込んで飛び立つことはとうとうできなかった。
「アリシア」
呼びかけの声は僅かに硬い。
わだかまりが残ったままのアリシアもまた、すぐに返事ができなかった。
「レベノスに行くのか」
「……うん」
「そうか」
理由は詮索されなかった。反対もされない。多分、このタイミングで出る理由をデールも知っているからだろう。その代わりのように、「いつ戻る」と問いが続いた。
次に来る養父の言葉は予想できた。だからアリシアの声は強張った。
「三日も空けないけど、しばらく訓練はしたくない」
アリシアとデールは朝の見回りの後、一日の大半を費して戦闘訓練をしている。
他の村人が作物を育て衣食住を整える間のことだ。アリシアは剣や槍などの武器の扱い方を覚え、身に沁みつくまでひたすら型を繰り返し、野外で生存する術を叩き込まれた。場所は多岐にわたり、大森林や河川など戦場として想定される地形は全て経験した。幸か不幸か実戦は日々襲い来る魔獣が相手となり、アリシアはおよそ女性には似つかわしくない戦闘力を手に入れた。
嫌だった。
生活の一切を覚えるより、戦って生き残る術を優先せねばならない自らの境遇がどうしても納得できなかった。
竜の一族。
誇り高き一族は、戦いの果てに死んでいったのだと寝物語にいつも聞かされてきた。自らの誇りを胸に抱きながら最後まで抗い戦った一族、その血を引くのが自分なのだと。
「どんなことが起こっても、一人で生きていけるように」
あの日厳しく言い放ったデールの顔は今でも目に焼きついている。
アリシアには理解ができなかった。自分と他の人間と、一体どこがどれだけ違うのかと。同じなのに、なぜ有事に自分だけが他の人間を踏み台にしてまで生き残れと言われるのか、全く理解できなかった。
そうまで厳命される自分の価値が分からなかった。
だからその価値を認めるような訓練に明け暮れることが嫌だった。それは今でも変わらない気持ちだ。
「槍も剣も使えるようになったわ。昨日だって竜騎士並みだって褒めてくれたでしょ? 私はもう子供じゃない」
「駄目だ」
即答されて、思わずアリシアはデールの顔を見た。ここまで頑なな養父は初めてだ。
「訓練は毎日やる」
「でも」
「それが、ヴァース――お前の父さんとの約束だ」
アリシアの息が止まった。
これまでに本当の父と母についてはほとんどなにも聞いたことがなかった。アリシアが自分から積極的に尋ねたことはなかったし、養父のデールも口にしたことはなかった。
写真も手紙も、なに一つ残っていない。
まるで最初からいなかったように両親の痕跡はなく、アリシア自身がその形見であることを知っているのは、胸にあるロケットペンダントと飛竜のベルスだけだ。
「なに、それ」
「子供も大人も関係ない。お前の人生を預かった親としてこれだけは絶対に譲れないんだ」
「どうして急にそんなこと」
初めて聞いた実の父の名に、酷く動揺している自分がいた。
ずっと訊きたいと思っていて、けれどずっと訊けなかった本当の両親の話だ。沢山の疑問符が胸の内にせり上がる。その数があまりにも多すぎて、アリシアは却ってなにも問うことができなかった。
沈黙が訪れる。
デールは真っ直ぐにアリシアの目を見ていたが、やがてそれを逸らした。
「――分かってたが、認めたくなかったんだよ」
地面に視線を落としたまま、養父がぽつりと呟く。
「いつまでも子供のままで居て欲しいなんて、親の我儘でしかない。――本当の親なんかじゃないくせに、って思うか? 思うよな、当たり前だ。誰より俺自身がずっとこれでいいのか迷ってきて、いきなりアリシアになにもかも分かれだなんて勝手すぎる。でもな」
そこでデールが区切った。
逡巡するように口を閉ざす。が、養父はやがて笑顔を浮かべた。見慣れているはずのそれは一つだけいつもと違っていて、薄赤く滲む目元にアリシアは胸を衝かれた。
「親友だったんだよ。俺とヴァースは。互いにたった一人しかいない存在だった。だからヴァースがどれだけアリシアが生まれるのを心待ちにしていたか、どれだけ自分の手で育てたかったか、どんな想いで国軍との最後の戦いに往ったか知ってるんだ。全部知ってる。十九年前のあの日、俺はヴァースと約束した。絶対に守る、強い子に必ず育てるって。そして俺は見送ったんだよ。ヴァースを――お前の父さんを。最後の末裔狩りの日だった。俺とアリシア、それから大じじ様が脱出する時間を稼ぐ為に、ファティマス国軍の包囲網を一手に引き受けてくれた背中を俺は見送ったんだ」
デールの言葉にアリシアはなにも返せなかった。初めて明かされた過去は断片だったが、一つ一つが鋭利すぎてすぐには飲み込めなかった。
そして大きな後悔が襲ってくる。
なんてことをしたのだろう。
こんなにも愛してくれる人に自分はなんて残酷なことをした。あんな剥き身の言葉を投げつけて尚、まだ親だと笑ってくれるこの人に。
後悔は遅すぎた。叩きつけてしまった言葉は二度と元には戻せない。
どうしようもなく立ち尽くすアリシアの頭に、デールがそっと大きな掌を乗せてきた。
「お前の両親のこと、もっと早くに言っておくべきだった。帰ってきたら話そう。気をつけて行っておいで」
かけられた優しい言葉に、今度はアリシアが目を逸らす番だった。
春の空は青く静かに晴れていた。