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竜の負う十字架  作者: 東 吉乃
第二章 蒼き薫風が抱く者たち

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38.旧い星の名に懸けられた願い


「沢山死んだ。私はまだ幼く弱く些末な存在だった。日の国の大半が海に没す前、その大地に連なった赤い一族の累々たる骸を今でも覚えている」

 人の世界で大きな戦いがあった、そうミトラが言った。

 赤い一族。

 それはおそらく自分の祖先を指すのだろう。多くは語られない中でありながらも、そうアリシアは悟った。

「私はきょうだいの中で最も小さかった。ある雨の日、最も大きかった兄から私の弱さが疎まれ、そして私は排斥された」

「排斥、って……」

「戦って負けた。手酷い傷を負い、私は一人で森を往くしかなかった。その先で、一人の男を見つけた」

 彼は巨木に背を預けていた。

 そして全身が真っ赤に染まっていた。濃い血の匂いが周囲に漂い、もはや長くはないことが知れた――淡々と過去を語るミトラの言葉に、アリシアの胸が締め付けられた。

「その男から私は一つの名を与えられた。すめらぎ、という」


*     *     *     *


 すめらぎが生きている人間と遭遇したのは、それが初めてだった。

 藪が揺れた音に気付いたか、男が閉じていた目を開けた。

「ああ、お前……ミトラか」

 驚きに固まるすめらぎに対し、男が話しかけてきた。

 声が掠れていた。喉に血が絡まっているらしく、苦しそうだった。

「ずぶ濡れじゃないか……おい、チビ、こっちに来いよ」

 差し出された手には血がこびりついていた。

 地形を変え得るほどの強大な力を誇る一族、その男。しかし今は血塗れでいる男。

 それゆえ、危険は感じなかった。

 いざなわれるまま傍に寄ると男は嬉しそうに笑って、すめらぎの頭を撫でた。二度、三度と撫でた。硬い掌。それは雨よりも冷えていた。

 それから男は、彼が纏っていたぼろぼろのマントを手繰り寄せ、それで濡れたすめらぎを拭こうとした。しかし手に力が入らないのか動きはひどく緩慢で、その行為はほとんど意味を為さなかった。

「チビ、お前怪我してるぞ……? なんだ、誰かと……喧嘩でも、したのか?」

 小さく笑った男の口元が、新しい赤に染まる。

 雨は止む素振りもなく降り続けていた。

 ふと、男はすめらぎをその胸に抱き寄せた。頬にあった噛み傷を労わるように触れ、それからまた、男はすめらぎの頭を撫でた。

「なあ、チビ。お前、今はこんなに小さいけど、……大きく、なったら……強くなるんだって、な」

 頬を緩めた男は、ふう、と大儀そうに息を吐いた。

「俺も……欲しかったよ。大切なものを守れる強さが、欲しかった。強くなりたかった。強く、在りたかった。この力。簡単に人を、魔獣をさえ殺せるこの。でも、それがあっても……」

 雨が降る。

 男の髪が濡れていく。滴る雫は顔についていた血を少しずつ洗い流し、やがて蒼褪めた頬が露わになった。

「綺麗な金の毛並みだな。お前が大きくなった姿、見てみたい、な」

 どこか眩しそうな目をしながら、男がむせた。また口から血が溢れた。しかし男はそれには構わず、ただすめらぎを撫で続けた。

 大きく優しい手だった。

 なにかを返したかったが、なにも返せるものがなかったすめらぎは、男の頬を舐めることしかできなかった。死というものは知っていた。だがどうやってそれに寄り添えば良いのかは、知らなかった。

「チビ、優しいな。今日は誰かに負けたかもしれないけど、……お前は絶対、強くなる」

 断言された理由がすめらぎには分からなかった。

 頬を舐めるのを止め、男の顔に見入る。

 間近に映る男の瞳は金と赤で、そこには太陽があった。綺麗な色だった。

「なんだよお前。俺の言葉、分かるのか……?」

 もう息も絶え絶えな男。そんな男の口から、次にどんな言葉が出るのかを、すめらぎはじっと待った。

 今日これほど弱い己であったとしても、本当にいつか強くなれる日が来るのか。それが知りたかった。

 尾を振る。

 雨に濡れた細いそれは、パシャ、という音と共に男の手を叩いた。それに気付いた男は、「やっぱり分かってるんだな」と呟いて笑った。

「大丈夫。心配ない。お前は優しいから、……強く、なれる。絶対にだ」

 その理由を信じることはできなかった。

 強さの中に優しさなど必要ない。そう言いたかったが、それは叶わなかった。直後に男が激しく咳き込んだからだ。

 生温かくぬめる感触に視線を落とすと、男の腹部から大量に血が溢れ出していた。それまで笑っていた男の顔が、酷く苦しそうに歪んだ。

 ものを掴めないすめらぎの手では、男を撫でてやることはできない。考えて、それから体をすり寄せた。それが男にしてやれる唯一だった。

「……そうだ。お前に、……頼みたいこと、が」

 男の顔からはすっかり血の気が引き、もはや雪のように白かった。

 それでも尚、男は笑った。今でも目に焼きついている。

 誰より優しい笑顔だった。


 そして男はその意志を遺した。


 大切なことを託す。だからそれに相応しい名を。

 苦しい息の下でそんなことをどうにか呟きながら、男はふるい星の名が持つ意味を語った。

 その後で男は彼自身をジェイディ・アルヴァイン――第一アルヴァイン家の当主だと明かした。

「よろしくな……すめらぎ…………」

 名乗った男はゆっくりと目を閉じた。それまですめらぎを撫でていた手からふと力が抜け、それは下へ落ちていった。くぐもった音が微かに響いた。

 見上げた顔はもう、笑ってはいなかった。

 それ以上言葉を紡ぐことのなくなった彼から離れ難く、その膝の上にすめらぎは蹲った。

 雨は降り止まなかった。

 ジェイディの黒髪を伝って、時折雫が自分に落ちてきた。その度に上を見るのだが、何度そうしても彼が目を開けることはなかった。優しい金と赤は二度と見えなかった。

 

*     *     *     *


「天にある星々の中心の、輝く星の名だそうだ。いつも変わらぬ位置にあり、人を導くらしい」

 それは日の国に古来より伝わる言葉の一つだと、ミトラ――すめらぎと名付けられた彼は言った。

「人を導く、星……」

「そう。まったく大仰なことだ。私はただのミトラだというのに」

 この四肢は決して人の手と同じではない。

 同じにはなり得ないのだ、と続けて、それからミトラが立ち上がった。そして視線を一度アリシアに投げてから、彼は飛竜銀鉱石の輝く中、洞窟の奥へと歩き出した。

 数瞬考えた後、アリシアはそれを追った。

 石柱碑を過ぎて、折り重なる骨を横目に見ながら進む。アリシアがついてきているのが音で分かるのか、ミトラは一度も振り返ることなく薄青く輝く中を往った。

 天球状だった石柱碑の広場を抜けると、再び洞窟らしい道へと出た。

 松明の明かりが照らし出したのは、一本ではなく幾筋にも分かれた複雑な道だった。明らかな通路もあれば、居室のような造りの部屋らしきものも沢山ある。生活の息吹が感じられる不思議な光景に、アリシアはふと声を漏らした。

「まるで誰かが住んでいたみたいね」

 呟きは、壁に僅か反響した。

「ここはかつて砦だった。竜の一族が守り抜いた、最後の」

「末裔狩りの時に?」

「いや。もっと古い時代――千年前の大戦の時だ」

「……だからあんなに骨が」

 ここで死んだ彼らはなにと戦い、誰の為に死んだのだろうか。

 あれだけの夥しい数の人と飛竜。

 守り抜いたというのはなんなのだろう。単純に考えれば石柱碑と受け取れるが、それだけではないような気がした。

 もの思いに耽りながらしばらく歩くと、微かな水音が耳を掠めた。

 少し先でミトラが立ち止まっている。その背に追いついた時、その前肢が透明な水に浸かっていた。水面は薄く輝いている。目を凝らすと、それは透明な水の向こう、水底にある飛竜銀鉱石の返す光だった。

「ここが洞窟の終着だ。最初の水源は枯れたが、ここにこうして新しい源泉が湧き出している」

 深いこの源泉あればこそ、ここが最後の砦たり得た。

 そう呟きながら、ミトラが数歩先へと進む。四肢が水音を立てた。

「私はここにジェイディを運んで水葬した。彼にしてやれたのはそれだけだ」

「それだけ? あなたがずっと守り続けている約束は、その中には入らないの?」

「約束ではない。私は間に合わなかったのだから」

 分かった、と。

 その一言を返せぬまま、刹那に彼は逝ってしまった。頼むぞと一方的に投げて寄越して、返事も待たずに。洞窟の最奥を真っ直ぐに見つめたまま、ミトラがそう呟いた。

「ジェイディが願ったのは、いつか彼ら一族の血を引く誰かが来るまで、この場所が守られること――それだけだ。相手が竜の一族でなければ、それはミトラである私にとって大した労ではない。普通の人間は三度攻撃する内に首を飛ばせる。こんな簡単なことを約束などと呼べるはずがない」

 なにかに憤るかのように、そこでミトラが言葉を区切った。

 沈黙が訪れる。

 源泉が湧き出す微かな音が響く中、アリシアとミトラはしばらく無言のまま揺れる水面を見つめていた。

 どれくらい経ったか、ミトラがしなやかな体躯をくるりと返し、水から上がってきた。身体を震わせて水を切る。その動きを見ながら、アリシアはずっと考えていたことを口に出した。

「じゃあ成人の儀って」

「先にも言ったとおりだ。三つ目の加護を受けるか受けないか、それをここに訪れた一族の人間が各々決める」

「……受けなかったら、偽物になるかな」

「偽物?」

「私は、成人の儀は本物の竜の一族かどうかを試されることだって聞いてきた。ねえ、すめらぎ。本物と偽物の違いって、どこで決まるんだと思う?」

 アリシアの問いに、それまで淀みなかったミトラの言葉が止まった。

 彼は思案顔でアリシアを見上げてくる。暫時の後、彼は「そんなもの」と呟いた。

「最初に決まっている。私の牙を防げるか否かだ」

「そっか」

「悩むことなどない。どうあれ一族として生まれた以上はその力を持つわけで、選べないのは他でもないあなた自身が誰より分かっているはずだ」

 そこに真贋など存在しない。

 言い切られたミトラのそれにアリシアの心は抉られ、同時に救われた。

「あなたがなにを憂うのかは私には分かり得ない。が、あなたがどちらを選ぼうとも私は良いと思う。たとえ力があったとしても、必ず誰かを守れるわけではない。ジェイディがそうだったように」

「そうね」

「だが同時に、力が無ければ何一つ守れないこともまた事実だ」

「……そうね」

 優しいミトラから突き付けられた残酷な現実に、アリシアは笑うしかなかった。


 身体に流れる血を問われるのではない。

 己の覚悟そのものを問われているのだ。


 理解したアリシアに、もう迷いは無かった。

「ありがとう。戻るわ」

「受けるのか」

「ええ。だって」

 二度ともう、育ったあの村には戻らないと決めている。

 アリシアは独りで生きていかなければならない。一族としての力を忌憚しても、一族として生きていかねばならない。それならば答えは一つだった。


*     *     *     *


「ありがとう、わざわざ見送ってくれて」

 アリシアとすめらぎは、洞窟の入り口まで戻ってきていた。

 夜明けだ。

 昨晩の嵐は通り抜けたようで、今は風も落ち着いて辺り一帯がしんとしている。濡れた森は空気が冷えていて、息を吸えば肺が冷えた。

「ねえ。いつかもう一度この国に来たら、また会いに来てもいい?」

 帰路につく前、アリシアはそっと尋ねた。

 丁寧に前肢を揃えて座るすめらぎが小首を傾げる。

「どのくらいまともにできるようになっているかな。楽しみだ」

「一回入ったのに、また試験されるの?」

「冗談だ。いつでも来るといい。私はずっとここにいる」

「……ありがとう」

 アリシアが微笑むと、すめらぎはぱたりとその尾を振った。

 名残惜しさに後ろ髪を引かれる。

 だがアリシアはどうにかそれを振り切り、踵を返した。


「さようなら。ジェイデイの遠い子孫、ヴァースの娘」


 背後から届けられた言葉に心臓を鷲掴みにされ、アリシアの歩が止まる。振り返りたい気持ちがせり上がる。だがどうにかそれを飲み下し、アリシアは振り返ることなく足を前へと進めた。




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