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竜の負う十字架  作者: 東 吉乃
第二章 蒼き薫風が抱く者たち

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37.成人の儀・後


「……っは、……」

 アリシアの喉から、微かな息が漏れた。


 瞬きもできない。

 地面に尻餅をついたまま動けず、恐怖で身体が小刻みに震えている。


 間一髪、だった。


 殺されると思ったあの瞬間、叫んだ短い言葉。

 守りの爪(ネイヒ・ディフェンダ)、と。

 自分が呟けば、必ず出でる薄赤い光の盾。その古語がなにを意味するのか、そんなことさえ知らないままに唱え慣れてしまったなにかに対しての祝詞。物心ついてからは一度も嬉しいと思ったことなどない力。そうであるが故に、自分ではなく他人の為にしか使ってこなかった祈り。

 それが今、自分の命を救った。

 不思議な感覚が襲ってくる。こんな自分であったとしても光は盾となってくれるのかと、まるで他人事のように思う。

 そう、助かった。

 現実を認識しながらも震えが一向に治まらないのは、歴然とした力の差を見せつけられたからだった。

 光の盾は一撃で破られた。ベヒモスですらすぐには破ることのできなかった、この盾を。戦った相手は素早さも力もなにもかも、自分より遥かに上だと認めざるを得なかった。

 その事実に半ば放心していると、微かに土の擦れる音が聞こえた。

 洞窟の奥からだ。

 規則正しく響く音、しかし先ほどまで満ちていた切り裂かれるような殺気は失せている。アリシアは落ち着きを取り戻し、少し離れた場所で燃えている松明に視線を投げた。先ほどの戦闘で放り投げた火は、乱雑な扱いをものともせずに、その周囲を丸く柔らかく照らし出していた。

 やがて、暗闇から明かりの中へ姿を現したものがいた。

 その獣の纏う金色の毛皮が、そのしなやかな動きに合わせ、松明の光を返して煌めく。アリシアを見つめる一対の瞳は、宝玉のようにきらりと輝いた。

 先ほど襲ってきたのは、今目の前にいるこの獣に違いなかった。

「……綺麗ね、あなた」

 アリシアは握りしめていた槍を獣の目の前に放り投げた。カシャン、という金属音と共に、薄青の刃が地面に横たわる。

 これ以上戦うつもりはなかった。

 歴然とした力の差を見せつけられたばかりだ。光の盾でかろうじて命拾いしたが、次は無い。ここまで足を踏み入れた時点で抗う術は残されていないことは、あの鋭利すぎた殺意に真っ向対峙した自分だからこそ分かっていた。

 凪いだ心で、前を向く。

 揺れる炎が洞窟の壁に陰影を作る。

 獣は美しかった。

 人よりは間違いなく大きいが、魔獣の中では小型の部類だ。金の毛皮に黒い斑点、長くしなやかな尾。四肢の先には鋭い爪がある。

「あなたは許された」

 後肢を曲げ地面に腰を下ろしながら、獣が言った。

「……え?」

 アリシアは思わず訊き返していた。

 獣が言葉を使ったことに対してではない。目の前にいるのが高等魔獣であることは戦闘能力の高さからも歴とした事実であって、それと同時に知能の高さも窺い知れる為、人の言葉を使うことに関してなんら疑問はない。

 引っ掛かったのは獣の話した内容そのものだ。

 許されたとはどういう意味だろう。相手の意図が全く読めず、アリシアの眉間に皺が寄る。

 獣はそんなアリシアを見て、思案するように長い尾をぱたり、ぱたりと振って地面を軽く叩いた。

「私はミトラ。遥か昔より、この聖地を数多の侵入者から守ってきた」

「ミトラ……?」

 どこかで聞いたことのある名だった。不意に掠めた記憶の端、一体どこでだっただろうか。

 アリシアが思い出そうと思考を巡らせていると、おもむろにミトラが立ち上がった。そして洞窟の奥へと向かって歩き始めたが、二、三歩進んだところで彼が振り返った。

「それから私は魔獣ではない」

「もしかして、あなた、……神獣?」

「――そう呼ばれることもあるようだ」

 魔獣ではない、と釘を刺されて、ようやくアリシアは思い出した。

 野獣にも魔獣にも属さないもう一つの大きな存在、それが神獣だった。

 彼らは人知の及ばぬ特殊な力を持っている。

 それは魔獣の持つ純粋な強さ――強靭な肉体と発達した牙や爪、そして強い攻撃衝動――とは一線を画していて、例えばそう、今まさにミトラがアリシアの思考を読んだのもその能力の一つとされる。

 いつだったか、育ての親コルトが教えてくれた二種の神獣。


 一つは金の毛皮を持つミトラ。彼らは人の心を読む。

 一つは銀の毛皮を持つヴァルナ。彼らは人の未来を読む。


 長い時を生きる美しいもの。誰も触れられない孤高の存在。そんな風にして低く語られた寝物語は優しく、アリシアの記憶の淵にそっと沈んだ。

 それが今、鮮やかに蘇る。

 実際、人里から遠く隠れ住む神獣については目撃例や接触例がほとんどなく、その生態も能力も詳らかになっていない。ただ過去にあった偶然の鉢合わせなどによる伝承があるだけで、そんな存在にここで出逢えるとはまさか思ってもみないことだった。

「どうして神獣であるミトラがこの洞窟を守るの? 竜とは関係無いでしょうに」

「さあ。私はただ、言いつけられたことを実行するだけだ」

「言いつけ?」

「この洞窟に入り込む侵入者は、誰であれ殺すこと。ただし私の攻撃は三度まで。それを全て防ぎきった者だけを、奥に通すこと」

 明朗に語られたことには、何者かの意志が滲んでいた。

「なぜ……誰に言われて?」

「さあ。あんまり昔のことで、もう忘れた」

 ちらりとアリシアの方を見ながらも、興味が薄そうにミトラが首を傾げた。

 彼は一体どれくらい生きてきたのだろうか。

 アリシアが考え込んでいると、ミトラがふと笑ったような気がした。声を掛けようとしたが叶わなかった。彼の鮮やかな夕陽色の目はアリシアから外れ、洞窟の奥へと注がれていた。


 ミトラの先導で、アリシアは洞窟の中を進んだ。

 入口の狭さからは想像もつかないほど広く、歩く時に踏みしめる土の音が存外に響く。

 人の手で作られたとは到底思えない造形にアリシアが驚きを隠せずにいると、ミトラがここはかつて地下水が流れていたのだと教えてくれた。

「最初の水源地が枯れた後、こうして洞窟として歩けるようになった」

「水源地が、枯れた……? ねえ、一体ここになにがあるの?」

「知ってて来たのではないのか。お前、竜の末裔だろう」

「……どうして判るの?」

 今のアリシアは自身のことを考えてはいない。

 思考は読めないはずだと訝っていると、ミトラが僅かに小首を傾げた。

「爪の盾を使った。いかなミトラでも、あれを破った上でその中の対象に攻撃を加えることは少し難しい」

「一撃で破られたのは初めてだったわ。驚いた」

 感嘆混じりのアリシアの言葉に、ミトラが長くしなやかな尾をほんの少し揺らした。

 得意気なような、あるいはこちらの反応を窺うような。

 不思議な間が暫時開き、それからミトラが「あれは」と言った。

「あれは、『守りの爪』。竜の一族が生まれながらに授けられる力の一つだ」

「力?」

「そう。竜との約定がもたらす三つの加護のうちの、一つ」

「……二つではなくて?」

 アリシアが使えるのは守りの爪(ネイヒ・ディフェンダ)翼の加護(フェリガ・グラティア)だけだ。

 この古語を口に出せば、光の盾が生まれ出でるし、人の傷を癒すことができる。

 だがそれだけだ。

 三つ目の古語をアリシアは知らない。それは自分が一人残された末裔で、一族のことをほとんど教えられていないからだろうか。考えを読んでいるはずのミトラからは、なにも応えは無かった。

 そのまましばらくを歩く。

 やがて洞窟の奥がぼんやりと青白く浮かび上がるように見えてきた。

「なに、これ……? 星空、……じゃないよね」

 辿り着いた先は天球のように広がる空間だった。

 視界は松明の照らし出す周辺に限られている。だが明かりのその先、本来であれば漆黒の闇が広がるであろうそこには、点在する光があった。

 まるで闇夜に煌めく星空だ。大小の青白い光が明滅する。それは見たことのない、想像だにしない絶景だった。

「かつての名はあおがね。今の世では、飛竜銀鉱石と呼ばれているはずだ」

「これが飛竜銀鉱石……!?」

 驚きに、アリシアは目を瞠った。

 その強度の強さから、竜騎士の持つ槍に使われる原材料だ。世界的に産出量の少ない希少な金属で、まさか一大鉱脈と言っていいこんな状態を見られるとは夢にも思わなかった。

 アリシアの持つ松明、その火が揺れる度に飛竜銀鉱石が輝く。

 まるで囁いているようだ。

 上を眺めていると遠近感が狂い、本当に星空の只中にいるかのように錯覚する。誘われるように一歩、二歩と踏み出した時、足元でなにかが割れる小さな音がした。

「え、」

 慌てて止まり、足元を照らす。

 飛竜銀鉱石の青白い輝きの中に、白い欠片が見えた。骨だ。見回すと、地面には特徴のある牙の並んだ頭骨、鋭い鉤爪、そして大きな翼骨がそこかしこにあった。

 飛竜だ。

 無造作に朽ちているそれらには、戦いの痕が――骨にまで達している深い傷が見えた。

 目を凝らせば、人の骨も混じっている。夥しい数。虚空を見つめる暗い眼窩。もはや言葉を交わすことも叶わない相手、彼らはなにを伝えようとしているのだろう。折り重なる骨を見ていると、広い空間の中ほどに石柱があることに気付いた。

 出来る限り骨を踏まないよう注意を払いながら、石柱の前に行く。

 そこには思ったとおり、古代文字が刻まれていた。

 読めはしない。読めはしないが、予感はあった。

「これが――三つ目の加護? あなたはこれを、守っている。いいえ、守ってきた」

「そうだ」

 ミトラの尾が先ほどと同じように、ぱたりぱたりと一定の感覚で柔らかく音を立てた。

「そこには竜が祀られている。その石柱碑に触れて『古の約定、我に授けよ』と口に出すだけでいい。そうすれば、竜の一族本来の力が使えるようになる」

「本来の力って……?」

「他の追随を許さぬ絶対的な力だ。これをして竜の一族は世界を三千年もの間統治した」

「――世界を引き裂いたという力のことね」

 一族の為した三千年の統治は確かであるが、その終わりが千年前の世界大戦であったこともまた歴史の事実だった。


 今を生きる者ならば誰しも知っている。

 その大戦で、世界は引き裂かれた、と――激しい戦闘の果てに、大陸の地形さえも変わったのだと記録は語る。


 あらゆる兵器を軽く凌駕する力だ。

 怖ろしい以外のなにものでもない。それをこれほどまでに簡単に使えるようになって良いのか。どことなく違和感というか疑問がアリシアに浮かんだ後で、一つの仮定に行きつく。そしてミトラへと意識が向いた。

「ねえ、どうしてあなたはここを守っているの」

 同じ問いを敢えてもう一度繰り返す。

 先のはただの流れだったが今は違う。明確に問う意志がアリシアにはあった。

 飛竜銀鉱石が煌めく中で、金の毛皮のミトラが僅かに首を傾ける。

「もう忘れたと言」

「嘘。本当は、あなたがここを守る必要なんてないはずだもの」

「……なぜそう思う」

「誰が来たって、結果は変わらない、というか……決まっているように見えるから」

 そしてアリシアは自分の考えを述べた。


 結局、三つ目の加護はどうあれ竜の一族、その血を引く者にしか与えられないのではないか、と。


 ただの古語を口にするだけで誰しもその力を使えるようになるのであれば、多分歴史はこうはなっていなかった。わざわざ竜の一族とそれ以外を分けて語る必要などない。どれだけ願ってもその系譜に生まれなければ絶対に手が届かないもの、血の選別。大前提としてそれがあるからこそ、世界はここまで真っ二つに、旧世界と新世界という呼び分けが為されるほど割れた。

 逆に、なにをしてもアリシアはこの血から決して逃れられないのだ。

 望むと望まざるとに関わらず、生まれながらにしてアリシアには特異な力が備わっていたのだから。

「この石柱碑を壊したところで、私の一族としての力が無くなるわけじゃないんでしょう、きっと」

 目の前にあるそれを見つめながら、アリシアは呟いた。

 たったそれだけのことでこの呪縛から逃れられるのなら、今この瞬間にそうする。そう続けたアリシアに対し、ミトラはなにも言わなかった。

 つまりそれが答えなのだ。

「日の国でなければならない、という場所の制約はありそうだけれど、象徴があってもなくても約定は生きている。その約束の言葉を定められた地で言うか言わないか、ただそれだけ。一族じゃない人間がここに来たってなにも起こらない。そういう意味で、この場所をあなたがわざわざ守る必要なんてないはずだって思ったの」

 一つずつアリシアは説明する。

 良く揺れるはずのミトラのしなやかな尾が、今はぴたりと動きを止めていた。

「私は成人の儀って、本物の竜の一族かどうかを試されることだとだけ聞いてきた。額面だけ見れば三つ目の加護を受けられたらそれが証だと思うけど、でもあなたがここを守っているからそれが正解なのかどうか分からなくなったよ」

「……」

「だって、やらなくて良いことなのに、ずっとやる? 一年や二年の話じゃないでしょう? だから、やっぱりそれを言ったのがあなたにとっての誰だったのかが、すごく重要な気がして」

 そうであるから、二度目を問うた。


 成人の儀が一体何であるのか、それを確かめるために。


 これを素通りして良いとは思えない。

 だからなぜここを守るのか、教えてほしい。そうアリシアが重ねた時、虚空を見つめていたミトラの瞳が、ふとアリシアに向けられた。

 無言のまま、暫時見据えられる。

 厳しい視線に僅か空気が張りつめる。最初の戦闘で感じた殺気が滲む。しかし一瞬たりとも目を逸らさないアリシアに対し、やがてミトラが観念したようにため息を吐いた。

「……あまり愉快な話ではないぞ」

 血塗れの過去だ――あなたにとって。

 そうミトラが呟いた。


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