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竜の負う十字架  作者: 東 吉乃
第二章 蒼き薫風が抱く者たち

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36.成人の儀・前

 

 細い山間の道を抜けると、壮麗な構えが目前に迫った。

 鮮やかな朱。

 大きく太い柱が縦横に組み合わされている様はかなりの威容を誇っている。これがかの有名な火鳥居か、とノルズは初めて見るその歴史的建築物に目を瞠った。

 この火鳥居は、日の国の為政者とその一族が住まう宮中と呼ばれる区画の入口だ。いわゆる神域にあたる場所で、民草の営みがある俗域とは一線を画している、と事前に読み込んだ資料で学んだ。

 この火鳥居には伝説が残っている。

 かつてここに神代から根を張る大木があった。その一枝に金銀の羽を持つつがいの鳥が止まり、下にいた稚児に夜明けを告げた。その稚児が長じた時、大木を使い鳥居を建て、それが日の国の始まりとなった、という。

 不思議な伝承だな、とノルズは思う。

 文面をなぞるだけならば、はっきり言って大した情報は含まれていない。にも関わらず、日の国に関連する文献や資料には必ずと言っていいほど出てくるのだ。さながら、これが中核であるような顔で。

 上げていた目線を下ろすと、火鳥居の下に二人の男性がいた。

 狩衣。

 力強い若草色と、落ち着いた赤朽葉色をそれぞれ纏う、良く似た雰囲気の面差し。そして二人とも帯刀している。それらの記号が指し示すのは、彼らがこの国で唯一人を除き、並ぶもののない高位の人間であるということだった。

 本来であれば宮中の奥深くに座し、周囲から傅かれる人間だ。

 こんな所に自ら出迎えに来るような身分ではない。そして彼らは太刀に手を添えている。この時点で日の国からの重いメッセージを感じ取り、ノルズは先頭を行く分隊長のフレイを窺った。

「ゴルガソス国軍は第三竜騎兵連隊長、フレイ・トール大佐とお見受けします」

 先に口を開いたのは若草色の貴人だった。

 朗々と良く通る声だ。

 表情そのものには敵意は見えないが、こちらに真っ向対峙する気概が見える。恐れを微塵も感じさせないその姿勢は、日の国に古くから伝わるという剣技武術の使い手だからだろうか。


 謎に包まれている相手だ。

 今日ここに至るまで、幾度となく日の国へ派遣されたゴルガソスからの調査隊は、そのほとんどが生きて帰ることがなかった、とノルズは教えられている。


 緊張に、じとりと手に汗が滲むのが分かった。

「左様です。事前にお送りした書簡のとおり、大宮への謁見をお願いしたく参上しました」

 答えた上官がその場で跪く。

 絶対に長剣を抜いてはいけない相手。その姿勢を貫くことを理解し、ノルズはすぐに上官に倣った。

「相分かりました」

 再び声が響く。

 ノルズが顔を上げると、火鳥居の下に立つ二人は、太刀から手を離していた。


*     *     *     *


 巨大な御殿の中でノルズたち一行を待っていたのは、小柄な老人だった。

 出迎えと先導を果たした二人の若者がその両脇に控える。腰に佩いていた太刀を目の前の板床に置く。ゴト、と重い音が響いた。

 分隊長であるフレイがゴルガソス国王書簡を読み上げ、国使としての正式な挨拶を述べる。それに対し、日の国の為政者である大宮もまた、正式な挨拶を返してきた。

 順調な滑り出し。

 ノルズがそう思ったのも束の間、次の大宮の一言で場の空気が一変した。

「ここまでご足労頂きながら恐縮ですが、捜し人――アリシア・アルヴァイン殿の所在はお教えできません」

 機先を制されたも同然だった。

 ほとんど前置きもないまま、ざくりと斬り込まれる。ノルズの心臓が嫌な音を立てた。

 どうしたらいい。こういう時、どうすべきか。

 必死に考えるノルズの視界の端、後ろから見る上官の肩が僅かに揺れた。

「ということは、彼女はまだ生きている――やはり彼女は本物で、大宮のお眼鏡にかなった、ということですね」

「さて。私はなにかを量る目を持つわけではないし、なにも判定すべき立場ではないが」

 間合いを測る会話だ。

 それをどう捉えたのか、フレイが僅かに押し黙った後、「この国は」と切り出した。

「この国は表向きは多神教……八百万の神々を信仰しておられますね」

「ふむ。それがなにか?」

「単刀直入に申し上げます。竜の洞窟の調査をしたいと思っています。今回はそのお許しを得る為に参りました」

「なぜ話が突然そこにいくのか、私には理解しかねるが」

「多神教が、この地に密かに伝わる竜への信仰の隠れ蓑ということは、失礼ですが調べさせて頂きました」

「なるほど。随分と優秀な諜報機関をお持ちですな。だが調査したいのならば、その優秀な手腕を用いて好きにされるがよい。私たちは特にその洞窟への立ち入りを禁止しているわけではないからの」

 多少見つけるのが難しい場所にあるが、それは見つけようと思えば簡単に見つけられるし、入りたいと思えば誰でも入れる。そう大宮は言った。

 罠だ。

 ノルズは気付いた。

 その言葉を鵜呑みにすれば、待ち受けるのは全滅であることをノルズは教えられている。少しの間の後、フレイが再び口を開いた。

「何年か前、私がこの国に正式に使者として派遣される前のことです。当時国王は、度々ゴルガソス国軍の者をここ日の国に送りこみましたが、その誰もが本国に帰ってくることはありませんでした。当時の彼らは正式な使者ではなく、またこの国に無断で入り込みました」

「私たちが彼らに対してなにかをした、と?」

「いいえ、そうは申しておりません。ただ私たちにできることは、その時の非礼を今ここで詫びることだけです」

 どん、というくぐもった音と共に、上官の背が低くなった。

 拳を床につけ、額を擦りそうなほど深い礼だった。

 それ以上の言葉はなく、暫時無言の時が過ぎた。

「なるほど」

 しばらくの後、大宮が息を吐いた。

「つまりトール大佐、あなたが改めるようゴルガソス国軍内で上申してくださり、結果として今の関係に繋がったということですね」

「そう大仰な話ではありません。外交と侵略は違う、その事実を国軍内で述べただけです」

「……謙虚な御方だ」

 それまで引き締められていた大宮の頬が、ふと緩んだ。

「最初にあなたにお会いした時のことを覚えていますよ。あれは二年ほど前だったか……その時、あなたは今のような話を一言もしなかった。ただ、ゴルガソスとして敵意がないこと、友好的でありたいことを述べた。そして儀礼に則り誠意ある姿勢をいつも崩しませんでしたね」

 我々が応えられないことを知りながら、尚。

 そう呟いた大宮は、どこか寂しそうな影を滲ませた。

「あの日、お答えしたのと同じことを私はもう一度言わねばならぬ。日の国は、いかなる国とも国交は結ばない。これは永劫変わらぬ姿勢です」

 きっぱりと言い切られたことに、空気が張り詰めた。


 ゴルガソスの申し出は蹴られた。

 竜の一族に関する情報があるとされる「竜の洞窟」、その調査。協力はできない、と突っぱねられてしまった。

 これからどうするのだろう。ノルズの胸がざわつく。

 元より決まっていた調査ができなければ、本国での研究に遅れが出る。末端であるノルズ自身には詳細は明かされていないが、上層部は急いでいる。

 更に悪いことに、アリシアの行方は隠されてしまった。

 手詰まりのこの状態で帰国して良いとは到底思えない。考えを巡らせるノルズだったが、続いた声に耳を疑った。


「ですが」

 逆接を述べたのは上官のフレイではなく、大宮だった。

 食い下がる為の言葉ではない。

 それは前と対立する内容を続ける時に使う言葉で、その意味するところは。

 ノルズは信じられない気持ちを抱きながら、前を見た。

 座す大宮は、複雑な表情を浮かべながらも僅かに頬を緩めていた。

「ですが、――二年もの間、おとない続けてくれた知己に対してならば、お話できることはある」

 あなたをみすみす死なせても良いとは思わないゆえ。

 明かされた心の内は篤かった。

「まず誤解があるようなので言いますが、過去にあなた方のお仲間を手にかけたのは、誓って私たちではない」

「と、言いますと……?」

「竜の洞窟に入ることが許されるのは竜の一族だけです。それは私たちが選ぶのではなく、洞窟の主によって選ばれる」

 古くから伝わる伝承を知らなければ、その無知には死の鉄槌が下される。

 それと等しく、認証されるべき血を持たなければ、如何なる理由をもってしてもその行為は神への反逆と見なされる。

 そこに待つのは無知以上に残酷な死である、そう大宮が言った。

「竜の一族ではない我々が、足を踏み入れて良い場所ではない、と。そういうことでしょうか」

「どうなるかを分かっていて尚知らぬ振りを貫くには、――トール大佐。私は少しばかりあなたのことを知りすぎてしまったようだ」

「それは、……いえ、有難いお話ではありますが、しかし私は大宮からこのようなお気遣いを頂けるようなことはなにも」

 初めて耳にする、上官の狼狽した声だった。

 戸惑いといってもいいだろうか。

 人と対峙する時にはいつも堂々としている、それがトール大佐だとノルズは思っていた。その姿は完成されていて、自分とは生きる世界が違うとも思っていたが、今はその人が少しだけ近く感じられた。

「聞きましたよ。彼女の護衛として名乗りを上げたのだと」

「あくまでも任務の一環です」

「どうであろうか。例えば研究対象として彼女をゴルガソス本国へ連れて行くのは、その範囲内であろう。が、そこに忠誠までを懸けるのは、この時世、特にゴルガソス国軍の厳しさを考えると割に合わなすぎるのでは?」

「……」

「あなたは彼女に命を懸けると決めた。トール大佐、私はあなたのそういう部分にこの上なく人間らしさを見ました」

 世界最強の軍事国家、その高級将校。他の追随を許さぬ竜騎士としての実力。

 表だけを見れば、その記号は警戒すべきものばかりだ。しかしそれだけではなかった、と大宮は語った。

 

 ノルズの胸中は複雑だった。

 なにが正しいことなのか、分からなくなったからだ。


 少し前の過去が脳裏をよぎる。

 あの日、ファティマスで言い争ったトール大佐とバーノン副官。争点はまさに「忠誠をかけて」で、口を挟めず成り行きを見守るしかなかったノルズは、内心では上官の決定に反対だった。

 理由は副官の主張していたとおりだ。

 ゴルガソス国軍としての公的身分は、その忠誠をゴルガソス国王に捧げるという契約の元に保障される。いわゆる指揮命令権を預けてそれに従う、ということだ。

 平素はいい。

 表立って国軍任務と彼女のどちらかを選ばねばならないような場面は、そうないだろう。

 だが有事になればそれは変わる。その意味するところは上官と彼女どちらかの死で、上官は迷うことなく彼自身でいい、と決めた。

 ゴルガソス国軍の竜騎士としては絶対に間違っている。

 だが、国軍竜騎士としての正しさを守ったままこの場に座っていたら、その正しさのもとに自分たちはおそらく明日にも殉職したのだ。守りたいはずの彼女を放ったままで。


 そこまで考えて、ノルズの背筋が冷えた。

 正しいことを追い求め続けても、必ず正しい答えに辿り着くわけではないのだ、とその時初めて理解した。

 理解はしたが、翻ってでは自分がどう振舞うべきかを自問しても、答えは出なかった。


「――ご配慮痛み入ります。今少しだけ、お時間をお許しくださいますか。私たちゴルガソスには、理想とする世があります」

「ほう。それは?」

「竜の一族のもとで発展した、三千年の歴史。そこにゴルガソスは平和と平等を見出しました。彼らにならう為に、より多くを紐解き、彼らを理解することが求められています」

 熱い語りだった。

 曇りなく、純粋に世を憂い、それをどうにかして打破しようとしている。それは本当に末端の一軍人であるノルズにさえも伝わってくる篤さだった。

「おそらくですが、私たちの目指す竜の洞窟と、彼女の臨む成人の儀の場所は、同じではないでしょうか」

「……」

「竜の一族、その末裔。最後の一人となってしまった彼女を失うわけにはいきません」

「死ぬと分かっていて尚、それでも彼女の傍に行くと?」

「それが彼女との約束です」

「あなたは本当に、――強い光を放つ人だ」

 眩しい、と。

 そう呟いて、大宮が目を細めた。次いで、ゆっくりと首を横に振る。二度、三度と。

「益々あなたを行かせるわけにはいきませんな。彼女の為にも」

「彼女の為? しかし」

「確かに成人の儀は危険が伴う。竜の一族以外は例外なく『死』という形で排除され、一族であっても無傷で戻れるものは少ない。彼女の生い立ちを考えるのならば、生きて戻れるかも正直未知数だ」

「であれば尚更、……!」

「トール大佐。あなたにその意志あるのならば、彼女の負う幾つかの傷と引き換えに無駄死にするのではなく、彼女の生還を信じてその先を共に歩むべきでは?」

「っ、……」

 大宮から言い放たれたことは過酷だった。

 上官のフレイが息を飲み、押し黙る。逡巡しているであろうことは想像に難くなかった。

 とはいえ、大勢は固まってしまった。

 これだけのやり取りを経たなら、無断での洞窟調査はない。信頼を寄せてくれた相手を裏切るような真似は絶対にしない、トール大佐はそういう人だ。

 斜め後ろに控えているバーノン副官が、静かな視線をそっとその背に送っていた。

「彼女は生き方次第で、普通ならば抱えきれないほど沢山のものを背負うでしょう。それはおそらく、私たちの想像も及ばない領域だ」

 ぽつりと呟いた大宮は、酷く寂しそうだった。

「あなたの理想は分かる。あなたとゴルガソスの目指す世になったのならば、確かに素晴らしいと思う。だが何事かを為そうとする時、そこにほんの少しの犠牲も出ないことはあり得ない」

 信念や努力の全てが無駄だと言っているわけではない。むしろそれはいつの世にも必要だ。

 だが誰もが等しく幸せな世界は、ない。

 繁栄の礎には、誰かが懸ける大きななにかが必ずある。大宮ははっきりと言った。

「それを私たちは忘れてはいけない、とも思うのだよ」

 年寄りの戯言と捨て置く向きも当然あろうが、と。

 大宮の声音は同意を求めてはいなかった。ただ、傍観者としての言葉というにはあまりにも重く、決して見えはしないその過去にノルズは思いを馳せた。


*     *     *     *


 その日の夕方頃から俄かに空が曇り、風が強くなり始めた。

 嵐が来る、と女官達が言いながら、御殿中の縁戸を慌しく閉めてまわっている。

 必然的に建物中が暗くなるので、どの部屋にも明かりが入れられる。柔らかな灯が御殿の中を照らし、中の調度が浮かび上がった。

 大宮と共に尋ねた社から戻った後、アリシアはとある一室に案内された。

 そこで一人休んでいたのだが、この時分に尋ねてきた者があった。

「……秋宮?」

 応対に出て最初に目に入ってきたのは、鮮やかな赤朽葉色の衣だった。

 落ち着いた表情の彼は、「今から出られますか?」と訊いてきた。端的な問いに、アリシアの鼓動は否応にも跳ね上がった。

 成人の儀が始まるのだ。

 アリシアが緊張に口を引き結ぶと、それを見て取ったのか秋宮は「明日でも構いませんが、」と言った。

「成人の儀は夕刻から夜にかけて、と決められています。そこだけは変えられませんので」

「いいえ、大丈夫です。今日、行きます」

 はっきりと答えたアリシアに対し、秋宮は僅かに眉を上げた。

 それから二度ほど瞬きをして、少しだけ逡巡を滲ませながら彼は続ける。

「分かりました。俺が道先案内をします、が……少し前にあなたの竜騎士が到着しました。儀式を明日にするのならば、彼らに会えます」

 不思議な言い分だった。

 今から行けるかと問うてきたのは秋宮の方だ。それなのに、敢えて明日でも良いような、むしろそうすることを勧めるような響きがある。

 理由を考えながらアリシアが秋宮の濃茶の瞳を覗き込むと、彼は若干バツが悪そうに視線を逸らした。

「……危険だと聞きました」

 控えめな一言に全てが凝縮されていた。

 優しい人だ。

 きっと彼の仕事はアリシアを案内することだけであるだろうに、その先を見てくれているのだ。

「ありがとう。会いたいけど、でも、顔を見ると甘えてしまいそうだから」

 そっと目を伏せ、秋宮に答える態で自身に言い聞かせる。

 臆病な内心を汲んでくれたのだろうか。

 秋宮はそれ以上は口に出さず、「では参りましょう」とアリシアをいざなった。


 途中の会話は無かった。

 前を行く秋宮はなにも喋らない。その背を見ながら歩くアリシアもまた、なにも言わなかった。

 こちらが言わない限り余計な詮索はしない。そういう気質らしい秋宮を好ましいなと思いながらの道中だった。

 近づく嵐の影響か、風が強くなっている。

 翻弄されるように森の木々、枝葉や下草の藪などが千々に乱れる。昼とは打って変わって低くなった気温に、アリシアの肩が震えた。

「行くのですか。本当に」

 心配そうに秋宮が言った。

 目の前には大きな洞窟の入口がぽっかりと開いていた。様子を窺えるのは本当にすぐそこまでで、奥は果てしなく暗い。


 本当は怖い。なにがあるか分からない、光の無い場所へと足を踏み入れることは。

 それでもこれは、自分で選んだ道だった。


 なにが起こったとしても、絶対に生きて戻る。そう心に誓い、アリシアは秋宮を見た。

「……行きます。私が決めたことだから」

 それを聞いて、秋宮はそれ以上なにも言わなかった。

 アリシアが洞窟の入口に立った時、後ろから声が掛けられた。

「出てくることができたら、その時は、御山みやまに来て欲しいと。父上からの言伝です」

「御山?」

「石碑のある社です」

「……分かりました」

 出てくることができたら。

 その仮定は、とてつもなく厳しい言葉だった。



 そしてどれくらい歩いてきただろうか。

 手に持つ槍の感触を確かめる。

 後ろを振り返ってみても、もう光は見えない。松明は周囲を照らし出しているが、それはほんの限られた空間でしかなかった。

 しばらく経つが、特に変わりはなかった。

 道が思いの外悪いというわけでもなく、入り口の辺りこそ人が手を伸ばせば天井につくくらいの高さしかなかったが、進むにつれて洞窟は広くなっているようだった。

「一体どこが危険だっていうの……っ!?」

 そう呟いて更に先へ進もうとした時、アリシアの全身が総毛立った。一歩だけ踏み出した足をその場に留め、静かに槍を握り直す。


 闇の先から、強烈な敵意を向けられている。

 何者かは判らない。

 が、その得体の知れないなにかは、確かに自分を殺そうとしていた。


 構えたものの、思わず数歩あとずさっていた。すると、途端に洞窟内に満ちていた殺気が立ち消えた。

 おそらく、あのまま構わず進んでいたら、確実に死んでいただろう。

 奇怪なその事実ではあったけれども、今この位置は危険ではない。ほんの少し落ち着きを取り戻し、アリシアはその場から動かないように松明を高く掲げた。

 注意深く。

 闇に溶け込む周囲に目を凝らす。

 そしてアリシアはあることに気付く。

 歩いてきた道は、どこにでもある普通の土だった。が、先程踏み出そうとした辺りには骨が散乱していた。

 どれも砕けている。

 明らかに何者かによって攻撃を受け、噛み千切られたか、あるいは引き千切られた痕が見える。

 骨は獣のものではない。

 つぶさに見ずともそうだと確信するその根拠。

 あちらこちらに四散している骨と共にある、鎧や兜などといった装備品。それらが紛れも無く、四散した骨は人間のものであることを示していた。

 自分が照らすことのできる範囲、つまり目が利く空間は、この闇の中ではたかが知れている。このままでは圧倒的に自分が不利だ。

 松明を足元に置く。

 最初の一撃をかわす為に、全神経を集中する。

 槍を構え、一線を越えた。

 

 瞬間、空気の密度が変わる。

 それはまるで肌に突き刺さるように。

 

 闇の奥底を、真っ直ぐに見通す。

 

 

 ――ギィン!

 

 

 とてつもなく大きな衝撃だった。

 空気がほんの僅か震えたような気がした瞬間、それは既にアリシアを捉えていた。姿を確認する間もなく、目の前に迫っていた牙を渾身の力で弾き返す。

「くっ……!」

 重い。酷く重い一撃だった。あとほんの一息、僅かでも遅れていたら、首が飛んでいた。

 事実、左の首筋が熱い。確認せずとも血が流れ出しているのが分かる。が、今はそんな怪我に構っている暇は無かった。

 次に来るべき攻撃に備え、もう一度構える。

 が、待てどもその気配はない。

 

 緊張に支配される。

 

 おそらく敵は、自分のことを見ている。

 あれだけ速く重い一撃を、構えているからといって次も躱せる自信は無かった。現に、躱しきれずに傷を負ったのだ。

 その思考が頭をよぎった瞬間、アリシアは行動に移っていた。

 足元に置いた松明を拾い、洞窟の奥に向かって力いっぱい投げつける。それと同時に前に向かって駆け出す。

 照らされた光の中、一瞬だけ敵の影が見えた。距離は近い。

 

 最初に首を狙われた。

 次も命を取る、そのつもりで来るはず。

 

 そのまま敵の射程の中、アリシアは一瞬で姿勢を低くし、そのまま右斜め上部に向かって槍を払う。

 が、手応えは無かった。確かにそこにいたはずなのに、槍は洞窟の側壁を崩しただけだった。

 獣の咆哮が響く。

 アリシアは後ろを振り返る。槍を前面に出し、迫っていた牙をかろうじて受け止めた。しかし、今度は受け止めるのが精一杯で、弾き返すこともできなかった。

 衝撃の重さに目を瞑る。すぐに開ける。その時には獣の姿は既にそこにはなかった。

 空気が悲鳴を上げる。

 真上だった。

 先の攻防で体勢を崩していたアリシアは、その時初めて戦闘における絶対的な恐怖を感じた。

 

 殺される――!






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