34.四季、夏と秋
「私の真名は、錦と申します」
それは日の国の織物を指す言葉で、金銀の他に様々な色糸を使い織られるのだという。
今着ているのも錦織と名付けられているのだと言って、春宮が微笑んだ。
「正式には春宮錦と申しますが、私の政務がこの時期――つまり春と水に関する政務を取り仕切るので、皆が春宮と呼びます。どうぞお好きな方でお呼びください。あかねは、私の側仕えです」
「私は、……アリシアです。アリシア・アルヴァインと」
緊張しながらアリシアは名乗った。
言葉尻をはっきりさせられなかったのは、自信が無かったからだ。春宮の真名は美しいと思う。けれど自分が持っているのは「かつて世界を壊した一族」、そして「狩られた一族」としての名前だけだ。
明かせば誰しも知っている。
そこからどんな反応が返ってくるのかは分かり切っていて、だから胸を張れない。
ところがそんなアリシアに対し、春宮は穏やかな表情を少しも変えなかった。その様子に戸惑いを隠せずにいると、春宮の隣に座っている冬宮が「次は私ですね」と鈴の鳴るような可憐な声で言った。
「私は泉です。錦の妹でして、私と姉様の間に二人の兄がいます。もう少しで二人共参りますから、紹介はその時に致しますね。そしてこの子がつぐみ。つぐみ、ご挨拶なさい」
「初めまして、アリシア様。つぐみと申します。私は冬宮の側仕えで、あかねは私の双子の姉です」
「双子の――」
落ち着いてしっかりと話すつぐみを見て、アリシアは感心した。
そして、良く似た顔の二人を交互に眺めて、その愛らしさと利発うな表情にまた一つ感心する。
この年頃だった自分は、こんなにしっかりはできていなかった。
まして彼女たちは主人がいて公的に仕えている。誰にでもできることではなく、それだけで彼女たちの優秀さが分かった。
「良く似ているでしょう? ただ、あかねの方がつぐみよりも、そそっかしいのだけれどね」
春宮が隣に座るあかねを見つめながらくすりと笑う。
それに対し、あかねが「春宮!」と不満そうに口を尖らせた。それから彼女は「内緒にしておいてくださいと言ったではありませんか」と頬を膨らませる。
「春宮なんてもう知りません!」
「ああもう、あかねったら。そんなに怒らないで」
穏やかな微笑みを浮かべつつ、春宮があかねの頭を愛おしそうに撫でる。
あかねはというと頬を膨らませたままながら、春宮の手を払うような真似はしない。幼い視線は訴えるように、けれども真っ直ぐに春宮に向けられていた。
「うふふ、相変わらずね」
そんな二人を見て冬宮が楽しそうに笑い、もう見慣れた光景なのか、つぐみは呆れたようにしている。
心の温まる瞬間だった。
時がこんなにも優しく、穏やかに流れることを、アリシアは初めて知った。
ファティマスにいた頃とは質の違う、緩やかな時間だ。目の前の光景と相まって、ふとアリシアからも笑みが零れた。
「――やっと、笑ってくださいましたね」
と、冬宮が小首を傾げながらアリシアを見つめてくる。
無意識だった自分の笑顔に、思わずアリシアは目を瞬いた。
「え……あ、ごめんなさい、つい」
「いいえ、そうではなくて。どうぞ謝らないでくださいませ」
ずっと張り詰めたお顔をなさっていたものですから気がかりで、と冬宮が眉を下げた。
「父上……大宮のしたことはとても不躾で無礼なものでした。謝るべきは私共です。不愉快な思いをさせてしまって、ごめんなさい」
「いえ、違うんです。大鷲の……飛鳥にはさすがに少し驚きましたけど、気にはしてませんから。張り詰めていたのは、」
言葉を斟酌してアリシアはそこで口を噤んだ。
冬宮は「張り詰めていた」と言った。けれど、言葉の柔らかい彼女のことだから、それは幾分控え目に表現されたように思える。
きっと自分は険しい顔をしていたのだろう。
いつだって自分は全てに対して引け目を持っているし、いつだって自分の命が安全だという保障はない。
「――きっと、緊張していたからでしょう。この国に来たのは初めてでしたので。でももう、大丈夫。気にしないで下さい」
そう返したアリシアに、春宮と冬宮は安心したように顔を見合わせて、そして笑った。
優美な姉妹だ。
彼女たちの纏う雰囲気は穏やかで、心地良いものだった。
アリシアの緊張が解けたのもあるのか、空気はかなり和らいだ。
そんな折、遠くの方から近づいて来る話し声があった。なにを言っているのかははっきりとは聞き取れないが、あまり楽しそうな声色ではない。
春宮が話し声の近づいてくる方にちらりと視線をやる。そして溜息交じりに「間違いなく彰と裕ね」と呟いた。柔らかな日差しのようだった空気が一変し、彼女は口を引き結ぶ。
「まったく、早くに来なさいとあれほど言っておいたのに」
「まあまあ、姉様。兄様たちにも事情がありそうです。まずは話をお聞きになってから」
「大体、何だって俺が!」
冬宮の執り成しの途中に、パシン、と鋭い音が部屋に走った。横滑りの扉が勢いよく開いた音だ。
それと同時、一人の男性が部屋に入ってくる。背が高い。聞こえた不満は彼が出所だ。彼は部屋の中に視線を巡らせ、アリシアと目が合ったその瞬間に顔が引き攣った。
次いで入ってきたのは少しだけ背が低い、こちらも男性だ。
二人目の彼は固まった部屋の空気に気付いたのか、慌てた様子で「あ、姉上、これは」と口を開いた。が、
「黙りなさい、裕」
問答無用だった。
春宮の形の良い眉根に僅かに力が篭る。いかなる反論も許さない、まるでそう宣言するかのようだ。
裕と呼ばれた男性はそれ以上の反駁はなく、進退窮まった顔をしている。その様子を見て取ったのか、春宮が隣に立つもう一人、最初に入ってきた背の高い方へと視線を向けた。
「彰。私はあなたに、早くにここに来なさいと確かに言ったはずですが?」
丁寧ながらもかなりの迫力で、先ほどまでの柔和さが嘘のようだ。
「勿論、忘れた訳ではありません。ですが、――」
続きそうだった言葉は、しかしそこで途切れた。
高い位置から彰という名の彼がアリシアを見つめてくる。彼はそのままアリシアの正面に歩み出て、目の前で座した。
両の拳が床に置かれる。そして彼は音が聞こえそうなほど、深々と頭を下げた。
「大変御見苦しい所をお見せしてしまい、申し訳もございません。私は彰と申します。ここ日の国で、夏と火に関する政務を取り仕切っております」
少しの間の後、床に付きそうなほど下げられていた頭がふと上げられる。決して拙速ではない、余裕のある洗練された所作だった。
彰は真っ直ぐにアリシアを見つめてくる。濃茶の優しい瞳が、春宮に良く似ていた。
「御名前をお伺いする許しを頂けますか」
「え、あの、アリシアといいますが、でも」
「アリシア殿。本当に不躾で大変失礼致しました。どうかお許し賜りたく」
真剣な顔で彰が言う。
礼を取ったままの姿勢で微動だにしない。フレイたち竜騎士が跪いて取る礼とはまた異なるが、研ぎ澄まされた敬意がそこにあった。
なぜ、とは問えずにアリシアは口を噤む。
予想は裏切られてばかりだ。
きっと厳しいであろうはずの世界は、初めて触れる異国は、どうしてかアリシアに寄り添ってくる。戸惑いしかない。痛いことを覚悟していたのにそれがないと、却って不安になる。
可能性さえ思い描いていなかった目の前の光景に、アリシアは気後れして目をそっと伏せた。
「気にしないでください。私はその、頭を下げてもらえるような人間ではないので、……」
どんな振る舞いや言葉で、こういった場を収めれば良いのだろう。
そんなアリシアの内心に気付いたのか、間に入ってくれたのは春宮だった。
「アリシア様が寛容な御心をお持ちで良かったわね、彰」
「姉上、確かに今回は私に非がありましたよ。ですが少しくらいは弁解させて下さい」
引き締まっていた彰の表情が、そこでふと緩んだ。その奥で、裕という名の男性がほっとしたように笑みを作ったのが見えた。
「彰、弁解も良いけれどその前にまずは自己紹介をすべきね。ほら、裕もこちらに来て」
「私は姉上にいきなり大目玉を食らったんですよ。自己紹介もなにもあったものじゃないでしょう、まったく」
憮然とした表情で彰がぼやく。
すると、隣に来た裕がため息混じりに「そもそも」と言った。
「兄上が俺の忠告を聞かずにいきなり襖を開けるのが悪い。俺があれほど『もういらっしゃるかもしれない』と言ったのに」
淡々とした話しぶりは、冷静さが際立っている。
そんな彼は、燃えるような赤朽葉色の衣をまとっていた。
「どうせ聞いていなかったんでしょう、彰兄様は。いつもそうだもの」
横から入った冬宮が小首を傾げた。
放っておけば延々と続きそうだと思ったのか、弟と妹に突かれた彰が「それはともかく!」と声を張った。それから彼の視線がアリシアに向けられる。
「改めてお話させて頂きます。名は先程名乗った通り彰ですが、ここでは皆、夏宮と呼びます。私はどちらかというと名前で呼ばれる方が好きなのですが、俗称というのはまったく、浸透が早くて」
笑った夏宮は、目に鮮やかな緑の衣だ。
それと知って見れば、確かにその名のとおり夏に力強く輝く草葉の色だった。
「年は二十七です。姉上とは三つ違いですので」
「――彰、それは私に対する挑戦ですか? それとも嫌味?」
「滅相も無い、姉上。年上は大切にしなければ罰が当たります」
さらりと躱す夏宮の笑顔は、それこそ夏の空のように爽やかだった。
彼はそのまま「そして私の下が」と言いながら裕に視線を向ける。だが裕は手を挙げて「俺は兄上ほど口は達者ではありませんが」と言って、夏宮を遮った。
「俺だって自己紹介くらい自分でできます。裕です。ここでは秋宮ですね。どうぞ宜しくお願い致します。私は姉上、兄上とは少し年が離れてまして、二十歳です。泉は私の二つ下です」
淡々と語られた情報の中に自分との共通項を見つけて、アリシアは目を丸くした。
「二十歳? それじゃあ、私は秋宮と同い年ですね。驚いた、とても落ち着いているから、年上かと思いました」
「はは、良く言われますよ」
涼やかに笑う秋宮もまた柔らかな濃茶の瞳で、落ち着きの中に強い意志の見える、静かな色だった。
四季たちは良く似ていた。
纏う空気は微妙に異なるが、笑い方の柔らかさや話し方の丁寧さに、同じ品性が垣間見える。間違いなく血の繋がったきょうだいなのであろうことが窺えて、ふとアリシアは自分にもしもきょうだいがいたならどんな感じだったのだろうかと想いを馳せた。
「それはそうと、アリシア様には本当に申し訳ないことをしました」
と、夏宮が申し訳なさそうに頬を掻いた。
なんのことだろう。
出会い頭の話は終わったはずだ。アリシアが首を傾げると、「実は」と夏宮が眉を下げた。
「あなたをここに連れてきた大鷲――飛鳥は、私の鳥なのです。早いとはいえ手荒すぎると反対したのですが、父上には逆らえず……」
「彰兄様は、姉上にも頭が上がらないもの。父上なんて、とってもじゃないですけど」
「こら泉。年上は敬えといつも言っているだろう」
「うふふ、ごめんなさい」
冬宮が小さく舌を出して、夏宮の叱責を受け流す。
可憐な所作で、それはどことなく親友のヘレンを彷彿とさせた。別れてからまだ一月も経っていないというのに、懐かしさがアリシアの胸を掠めた。
その横で春宮がふと思案顔になる。
「――本当に、一体どうしたのかしらね」
「なにがです?」
夏宮の問いに、春宮が端的に「父上よ」と返した。
「あんなに頑固に押し切ることなんてこれまで無かったのに、今回に限ってどうしてこんな、……あなたたちも、なにも聞いていないのでしょう?」
「姉上が知らないことをどうして私たちが知っていることがありますか。私なんか父上に飛鳥を貸して、その後に急に言われた政務を片付けに取り掛かった直後に、裕から姉上の言葉を聞いたんです。もちろんアリシア様をお迎えするのは疎かにできませんが、かといってさすがに政務を放り出す訳にはいきませんでしたよ」
「あなたという人は。どうせその急な政務とやらは今日中になどと言われて、それで慌てて御殿に走ったのでしょう」
「どうして分かるんです」
「彰、あなたは体よく父上に追い払われたのよ。飛鳥を貸すことにほとんど質問させてもらえなかったのでしょう? まったく、都合の悪いことになると父上は人を煙に巻くのが巧いんだから」
長子であるせいなのか、春宮は冷静に物事を捉える人だった。
柔らかく微笑んでいるだけではなく、言うべきことははっきりと言い、親兄弟の性格も熟知しているようだ。しかし、そんな春宮をして分からないと言わしめる「アリシアの身柄確保の理由」に、その場の空気が思案に沈んだ。
アリシアの存在は大宮に知られていた。
ここ日の国に来ることも、そのタイミングも。
ここまではおそらく、フレイたちから大宮に対して事前に連絡、あるいは伺いのようなものがあったのだろう。少なくとも、フレイが「もう一つ任務が残っている」と言っていたのだ。その目的地である日の国、その為政者に対して公的にその情報を入れるのは、なんらおかしい話ではない。
不思議なのは、なぜアリシアがフレイたちと引き離されたのか、ということだ。
黙っていてもいずれアリシアはここに辿り着いた。フレイたちゴルガソスの竜騎士を護衛として。
それを待たなかったということは、アリシアたちが共に行動していると日の国にとって何らかの不都合が発生する、ということなのだろうか。そういえばアリシアは、フレイたちが日の国でどんな任務を果たさねばならないのかを聞いていなかった。
自分のことで頭が一杯だったからだ。
アリシアはこの日の国に、「成人の儀」を受ける為に来た。竜の一族として、本来であれば十八歳を迎えた時に通過していなければならない儀礼だ。本物の竜の一族であるかどうかを試されると聞いているが、課される試練がどのようなものか、アリシアには全く知らされていなかった。
一つ思い出すのは、その話をコルトから聞いた時のフレイとアンリの顔だ。
彼らは二人とも眉間に力を籠め、難しい顔をしていた。引き締められた頬、あれは先行きを楽観視しているような表情では決してなかった。
読めない思惑と、見えない意図が交錯する。
部屋を覆った重苦しい沈黙を破ったのは、冬宮の鈴のような可憐な声だった。
「姉様も、彰兄様も、なにもご存知ないの? 裕兄様はご存知よね?」
彼女が小首を傾げた時、その肩口で艶やかな黒髪がさらりと流れた。
名を挙げられた秋宮は複雑そうな表情を浮かべつつ、否定はしなかった。
「一応俺も、『影』を貸したしな。……というより、泉から聞いたわけだが」
「おい泉! どうしてお前が私や姉上も知らないことを知っているんだ?」
「え……どうしてって、ただ父上がこの前ぽつりと言っていたから」
冬宮の漏らした言葉に一番驚いたのは、夏宮のようだった。
その勢いに押された冬宮もまた、目を見開いて、きょとん、としている。互いに驚き合って、不思議な空気が漂った。
「まったく、どうしたって末娘には甘くなるものなのね。ここで憶測を飛ばし合っていても仕方がないわ、父上の御殿へ行きましょう」
区切りをつけて春宮が立ち上がる。纏う花の色の衣、その裾が優雅に広がった。
いよいよここへアリシアを呼び寄せた人、日の国の為政者である大宮のもとへと行く時間だ。
成人の儀がとうとう始まるのかと思うと胃の腑が落ち込む。先ほどようやく解けたはずの緊張に、またしてもアリシアは支配されるのだった。




