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竜の負う十字架  作者: 東 吉乃
第二章 蒼き薫風が抱く者たち

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32.接敵


 一、二、三……四。五人?

 いや、違う。もう一人いる。全部で六人。

 

 アリシアは頭の中で呟いた。剣を構えながら、周囲の状況を把握する。

 森の端、まだところどころ空が見える梢の下を貫く、一本の道。その先を塞ぐように、一人が立っている。そして、周囲の藪中にも影が幾つか。

 対峙している相手は黒装束を身に纏っている。全員顔を隠しているが整然とした気配に、山賊や物盗りの類には見えなかった。

 だが彼らは全員、短剣を手にしている。

 決して友好的とは言えない。狙いはなんなのだろう。アリシアが眉間に力を込めると、空気の密度が変わった。

「――っ」

 ビリ、と震えた空気を辿る。

 それは前方を守るフレイから発されている気配だった。


 強く、濃く、鋭い。


 音が遠ざかる。自分に向けられているわけではないにも関わらず、その殺気にアリシアの背筋に冷や汗が滲んだ。

 ちらと視線を返せば、後ろを守るアンリの背が見える。

 彼の周囲にもまた、静かだが触れれば切れそうな圧が感じられた。むしろ、この場で指先一つでも動かせば命はない、そんな感覚が襲ってくる。


 これが重騎兵。


 初めて間近で見る臨戦態勢の竜騎士、その圧倒的な存在感に、アリシアは呼吸を忘れた。

「アリシア」

 耳元で名を呼ばれる。

 隣にいたのはノルズだった。彼の灰色に緑が混じる瞳を見た時、止まっていた時が再び動いた。

 詰めていた息を吐いて、そして吸う。

 耳元で聞こえていた鼓動が遠ざかり、失せていた指先の感覚が戻ってきた。それと同時、金属音が響いた。

「っ」

 高い音を追う。飛び掛かってきた二人の黒装束を、フレイが一人で相手取っていた。

 間髪容れず、背後で二連の音が続く。

 同じくアンリにも二人が襲いかかっていて、長剣と短剣が激しくぶつかり合っている。二人掛かりの猛攻を一本の長剣で防ぎ続けるアンリの顔は、普段と変わらず無表情のままだったが、鮮やかに翻る長剣は一瞬で一人の短剣を弾き飛ばした。

 横に展開していた一人が踏み込んでくる。

 それを受けたのはトラヴィスで、彼は間合いが交錯しないようにアリシアたちから距離を取った。

 残る一人、六人目の黒装束が、来る。

 一瞬で詰められた間合い。

 速い初撃から、連続で短剣が躍る。明らかに手練れの動きだった。

 応戦するノルズの顔が焦りに歪む。このままでは分が悪い。助けなければ、とアリシアは一歩踏み出した。

「来ちゃ駄目だ、アリシア!」

 ノルズが叫ぶ。

 でも、と反駁する時間は無かった。

「っ!」

 右耳を掠めたなにか。頬を撫でたのは見慣れた自分の黒髪で、短くなったそれは目の前ではらりと風に舞った。

 その向こう。

 ノルズの左肩に突き刺さる短刀が見えた。あれは、あの刀は、位置的にアリシアの心臓を狙っていた。

「――ノルズ!」

 叫んでも、時間は戻らない。

 だらりと下がったノルズの左手。右手だけで扱う長剣はその重さが枷となったかのようだ。対照的に、羽根のような身軽さで黒装束が連撃を繰り出す。守勢で手一杯のノルズ。助けようとすれば、また隠し刀が飛んでくる。自分に当たるのならいい、だがもしもノルズの急所に突き刺さったとしたら。

 魔獣や野獣ではない、明確な意思ある人間との初めての戦闘。

 ただの攻撃衝動だけではない。どこにどんな意図が、あるいは悪意が潜んでいるかが分からない。先の飛んできた短刀がそれを如実に物語っていた。

 恐怖がアリシアの身体を凍りつかせる。

 どうしたらいい。

 逡巡したその時、ふと頬に風を感じた。次いで、全身に強い衝撃が走る。身体を締め上げられたと同時に、急激な浮遊感に包まれた。

 ぐら、と視界が揺れる。

 堪らず目を瞑って目眩を堪える。いかな慣れているとはいえ、これほどの急浮上は初めてのことだった。

「アリシア!」

 フレイの声が遠い。

 かろうじて片目を開けると、遥か眼下で黒装束の攻撃を受け流しながら、空を――連れ去られたアリシアを見上げているフレイがいた。

「なんなの!?」

 強い風に翻弄されながら、見る間にフレイたちが遠ざかって行く。自分の胴をがちりと掴んで離さないのは、巨大な鉤爪だった。

 混乱しながらも上を見る。

 深い焦げ茶の羽毛、大きな羽ばたきの音。鳥だ。青く染まる空の中、白く光る太陽の光が眩しい。目を凝らすと、喉元の白い羽毛と鋭い嘴が見えた。

「鷲……魔獣?」

 ファティマスでは見たことのない巨大な種だった。

 魔獣だとすると危険だ。

 少なくともアリシアは、人一人を抱えてこれほど速く、強く飛べる生物を飛竜しか知らない。それはおそらく世界的に見てもそうで、この大鷲が飛竜のように家畜化できる野獣だったとしたなら、竜騎士が駆るのはこの鳥であっても良かったはずなのだ。

 だが現実はそうはなっていない。

 するとこの鳥が飼い慣らせない危険な魔獣であるか、もしくは特殊な能力を持つ希少な神獣に類するなにかか、あるいはここ日の国で独自の進化を遂げた野獣の固有種か。

 できれば最後、ただの野獣であってほしい、と願う。

 魔獣だとすると、攻撃衝動が強すぎて応戦せざるを得ない。だが今のアリシアは丸腰だ。すくい上げられた瞬間の予期せぬ衝撃で、剣を取り落としてしまった。この状態では戦いようがない。

 神獣は人語を解すると言われているものの、その生態の多くが謎に包まれており未知数だ。有名なのはカルキノス大陸に生息する焔の鳥が知られているが、総じて人間に対して好意的とは聞かない。

 野獣ならばあるいは、隙をついて脱出できるかもしれない。

 覚悟を決めながらも、アリシアは唇を噛み締めた。

「ベルス……!」

 その名を呼びながら、唇を噛み締める。

 自分一人ではなんと弱いのだろう。いつも寄り添い守ってくれたあの青い翼。ベルスが傍にいなければ、自分は空中で戦うことも、この場から脱出することも叶わない。

 強くなりたい。

 そうアリシアが思った時、大鷲が「ギイ!」と鋭い鳴き声を発した。

 羽ばたきが速くなる。

 頬に当たる風の流れが一段と強くなって、髪が千々に乱れた。

 鳴き声が続く。

 大鷲は焦っている。突然のことだ。なんだろう。まるでなにかに追われているかのようで、――


 オオ……ン……


 背後から、低い咆哮が響いた。

 咄嗟に振り返る。空の只中、一点だけ青が濃くなっている場所があった。

「どうして、……!? ベルス……!」

 俄に信じ難い気持ちでその名を呼ぶ。

 間違いない。間違いようがない。生まれた時から一緒だった飛竜だ、その声も翼の色も、誰よりアリシアが一番よく分かっている。

 ファティマスに残してきたはずのベルスは、遥か彼方からその豊かなスピードで見る間に大鷲との差を縮めてくる。大鷲の飛翔速度も上がってはいたが、しかしベルスの方が速かった。

 弧を描いて上空から大鷲の目の前、進行方向を塞ぐように回りこみ、大鷲に向かって牙を剥く。大鷲は空中停止を余儀なくされ、両者が睨み合う。

 一触即発の空気だったが、暫時の後にそれは不意に終わった。

 ベルスが牙を収め道を開ける。大鷲は再び飛翔を始め、その後をベルスがつかず離れず付いてきた。

 アリシアの緊張が僅か解ける。


 武器はない、だが最も信頼する翼が共にあれば、怖くはない。

 この先に、どんな危険が待ち受けていようとも。


 落ち着いて進行方向を見る。

 遠くに噴煙をたなびかせる火の山がある。その麓は大部分が森に覆われているが、一部が切り開かれている。

 人の集落だ。

 そこには目に鮮やかな朱色の屋根と、幾つも連なる壮麗な建築が見えた。


*     *     *     *


「チッ! それが狙いか」

 忌々しげに分隊長であるフレイが吐き捨てた。

 アリシアが攫われたのと、突然現れた黒装束達が撤退したのは同時だった。

 彼らの目的が護衛である自分たちを拡散、さらに注意を引き付け、その隙にアリシアを連れ去ることだと今さら気付いても、それはもう遅すぎた。

「すぐに追わなくては……!」

 梢の向こう、彼方の空を見ながらノルズは狼狽えた。

 既にアリシアの姿は見えなくなってしまった。一刻も早く追わねばならないが、走り出そうにも日の国に初めて来た身では、地理も怪しかった。

「どこに連れ去られたのでしょうか、この道が繋がっているのはどこに」

「落ち着けノルズ」

「しかし、彼女になにかあったら……!」

「気持ちは分かるし、焦っているのは俺も同じだ。だが単独行動は許さん」

 本国ゴルガソスにとって友好国でも指定貿易国でもないこの異国の地で、それは自殺行為に等しい。

 上官から厳しく言い放たれた言葉に、ノルズの胃の腑が落ち込んだ。

「お言葉重々理解していますが、そうであれば尚彼女が危険ではありませんか!」

 食って掛かったノルズに対し、僅か考え込んだ後でフレイが「懸念はもっともだ、だがその可能性は低い」と断じた。

「――アリシアが連れていかれたのはみやだろう。元々俺たちの目的地も同じ、日の国の為政者がいる場所だ」

 先ほどの戦闘。

 いわゆる警備としての巡回中に不期遭遇したにしては、あまりにも手口が鮮やかすぎる。あの統率された動きは、間違いなく最初からアリシアの身柄を確保することを念頭に組まれていた。そうでなければこの分隊がこれほど分断されるはずがない、そうフレイが言い切った。

 ここには今、最年少のノルズと分隊長であるフレイしかいない。

「あの一瞬でアンリとトラヴィスが森の中へと誘い込まれた。実に巧みな作戦だったと言わざるを得ない。間違いなく宮から指示があってのことだろう」

 フレイの分析は淡々としている。

 が、そこに僅か苛立ちのようなものが滲んでいるように感じ、初めて触れるその気配にノルズの背筋が冷えた。

「為政者……王族でしょうか」

「答え方が難しいところだ。国体として王政を敷いているわけではなくて、血筋を辿ればこの日の国を開いた天地あめつちの二柱神に繋がるとされる一族が、この国を治めている。民草もその正統性を信じていて、そういう意味で独特の秩序を元に統治が成り立っているんだ。それよりノルズ、肩を見せろ」

 ノルズの疑問にすらすらと答えていたフレイが、話の矛先を変えた。

 上官の青い瞳はノルズの左肩口に注がれている。

 そこには投げられた短刀が深く突き刺さっていて、制服が赤黒く濡れていた。

「これと同じものか?」

 道に落ちている短刀を拾い上げながらフレイが言う。それは先の戦闘で、アリシアに向かって投げられたものだった。

「はい。おそらく同じかと思います」

「では刃渡りは短いな。ここで手当てしよう」

 素早く判断を下し、フレイが指で地面を指し示す。意図を解したノルズは大人しく従いその場に膝をついた。

 次に来るであろう痛みに備え、奥歯を噛み締める。

 伸びてきたフレイの手が短刀を掴み、慎重に、しかし迅速にそれを引き抜いた。赤く濡れた刃から、ノルズの血が滴り落ちた。

「……っ」

「止血する。しばらく窮屈だが堪えろ」

 携行している応急用の止血帯で傷口をきつく縛られる。分かってはいたことながら、動きが制限されて左腕は完全に使い物にならなくなってしまった。


 護衛としては完全に落第で、戦力としても足手まとい確定だ。


 自分の犯した失態に吐きそうになりながら、ノルズは「申し訳ありません」とかろうじて呟いた。

 そうしているうちに、副官のアンリとトラヴィスが戻ってきた。

 追ったものの、急に姿をくらまされたという。しばらくは気配を探ったが忽然とそれは消え、不意に収束した戦闘に不可解さを抱きながらも、一旦退いてきたとトラヴィスが言った。

「こちらも同じような状況だったのですね。……アリシアは?」

 ふとトラヴィスが首を傾げる。

 その問いを耳にした瞬間、ノルズは目を伏せた。

 自分の不甲斐無さがあまりにも腹立たしく、あの時一瞬とはいえ油断した自分は、万死に値すると思った。命に代えても守ると誓った自分の主が、自分の目の前で連れ去られた。それだけで、もうここにはいられるはずもない。

 心の底から、ノルズは自分を恥じた。

「――連れ去られました。僕の油断と力不足が招いたことです。本国へ戻ったら、処分を」

「もういい、過ぎたことだ。今はアリシアを追うのが先だ。宮に急ぐぞ」

 ノルズの言葉を途中で遮ったのは、他でもないフレイだった。

 上官はそのまま先頭を切って走り出し、トラヴィスが後に続く。二人の背を見てもノルズはその場から動くことができなかった。早く後を追わなければ、こんな森の中ではすぐに見失ってしまうことは分かっている。しかし足がどうしても動かなかった。


 誰も言わなかった。

 今回のことは完全にノルズの落ち度であり、ノルズに非があるというのに、誰一人それを責めなかった。それがまるで、自分がミスをするのがさも当たり前のように周囲から思われているようで、ひたすら不甲斐なかった。

 自分以外の誰かがアリシアの傍についていたなら、今回のことは未然に防げたであろうに。

 そして処分のことを口に出した途端、それを遮られた。尊敬する上司を失望させたことも、辛かった。


 唇を噛み締めて地面を見据えていると、ふと背中を押す手があった。

「失敗をしない人間などいない」

 端的な言葉をくれたのは、物静かな副官だった。

 その人はノルズに一瞥をくれることなく歩き出す。

 急ぐことは分かっている。そんな状況にあっても駆け出さず歩いて進んでくれるその背はあまりに大きく、ノルズはそこでようやく足を前へと進めた。


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