31.日の昇る国
航海は順調に進んでいた。
夜、出歩くには少し遅く、眠るには少し早い、切れ端のような静かな時間。出港してから五日目、一つ目の島を経由した後のことだ。
「日の国であり、火の国であり、緋の国。この世界でどこよりも早く太陽の昇る処。火に護られる民がいて、八百万の神々が住まう島」
それまで黙って考え事をしていそうだったフレイが、唐突に口を開いた。
「……なに、それ?」
聞いたことのない言葉の節に、思わずアリシアは視線を上げた。ちょうど湯から上がって、ベッドに腰かけながら濡れた髪をタオルで拭いているところだった。
向かい側に座っていたフレイと目が合う。
優しい瞳だ。
忠誠を誓われた時と同じままで、その熱をまだ真正面からは受け止め切れず、思わずアリシアはそっと視線を外した。
どうしても慣れない。
狭い船内の限られた部屋数で、アリシアはフレイと同室になった。正直、心臓に悪すぎる。どうにか回避しようとしたが、護衛の観点から単独行動は許されなかった。しかも、実力を鑑みて候補はフレイかアンリしかない、と言われてしまったのだ。
二者択一の状態で、敢えて最初の提案であるフレイをわざわざ断るのも気まずい。
それに、どちらに対してもほぼ同じだけ緊張することに変わりはないのだ。
結局アリシアはフレイとの同室に頷くより他なかったのだが、それにしても目が合う度に心拍数が跳ね上がる自分をいい加減どうにかしたかった。
「アリシア?」
視線を外したことを不思議に思ったらしいフレイが名を呼んでくる。
ふと視線を戻すと、いつの間にかフレイが目の前にいて、アリシアを窺うように小首を傾げていた。
近い。
目が合っただけでもまだ慣れないというのに、この距離感はさらに、だ。さりとて座っている狭いベッドの背後は壁、どこにも逃げようがない。
「どうした。なにか気に障ったか?」
そして心底申し訳なさそうに言う。
そこにはアリシアに対する気遣いしかない。羞恥や緊張など色々な感情が綯交ぜになってつい固まってしまったアリシアだったが、慌てて「ごめんなさい、なんでもない」と首を横に振った。
「さっきの言ってた言葉。あれ、なに?」
気を取り直してアリシアは問う。
受けたフレイが柔らかく頬を緩めて、夜に絞られた灯りがそんな彼の横顔を穏やかに照らした。
「アリシアはファティマスから出るのは初めてだろう。これから行く日の国のことを少しだけ話しておこうと思ってな」
先の言葉は、世界に知られる日の国の形容だ、と続いた。
日の国。
世界で最初に朝を迎える国。小さな島全てを包み込んで、その国を朱金色に染め上げる太陽は、揺るぎない第一の象徴として崇められる。
火の国。
国土の大部分を占める山々は、その殆どが火山。火の山は時に怒り、辺り一面を破壊し、焼き尽くす。が、それが与える恩恵は果てしなく莫大な富となって、麓の民を慈しむ。そうして掲げられる第二の象徴は、火の山となった。
緋の国。
日は紅く、火も赤く。世界で最も色を表す言葉が多いこの国の言葉の中にあって、緋色は国の全てを表す何よりも大切な色であり、第三の象徴として定められた。
まるで詩を読むようなフレイの言葉に、アリシアの想像力は否応にも掻き立てられた。
「不思議な国だ。どの四大陸にも属さない独自の文化を持っている」
「大きい国なの?」
「いや、小さいよ。人口は、そうだな。一万にも届かないくらいか。それに比べたら、国土はかなり広いだろうな。……豊かな国だ。色々な意味でな」
豊かな国。
その言葉が少しだけ重く聞こえたのは、多分気のせいではなかった。
「世界で最小の国でありながら、誰の助けも必要としない国、と言っていいだろう」
「それは、……どの大陸とも国交がないということ?」
「答え方が難しいんだが、表立った鎖国政策を取っているわけでもないんだ。ディーン殿が言っていた竜の一族との関係もあるんだろうな。両者がどういう繋がりなのかは俺には分からんが、……末裔狩りに走った各国に対して、そうしなかった日の国が思うところは多分にあるはずで」
そこで言葉が不意に途切れた。
フレイを窺うと、余裕のある表情を浮かべながらもなにごとかを思案している様子があった。
それを見ながらアリシアは頭の中でフレイの言葉を繰り返した。
思うところが多分にあるはず、と。そこに間違いなく滲む配慮と複雑であろう思いを前に、かける言葉が見つからなかった。
いつだってこうして、もはや動かせない過去の事実が、今を生きる自分たちに肉薄してくる。
けれど今のアリシアにはそれに対しての向き合い方が、まだ見えていない。
知らないことばかりだからだ。
ゴルガソスの歴史も、日の国の在り方もだ。そんな自分がなにを言おうと今は気休めにもならなそうで、アリシアは喉までせり上がっていたなにかを飲み込んだ。
「私、少し夜風に当たってくる」
「――ん、ああ」
アリシアの声掛けに、少しの間を置いてフレイが頷いた。
さして大きくはない甲板に出ると、藍色の空に星々が煌めいていた。
船は大海原の只中に停泊している。
全方位が暗く静かな海面だ。星明りしかない中で、飛竜ベルスのことを考えた。彼の姿はどこにも見えない。ファーマに残るコルト達の為に置いてきたのだ。アリシアは言った、「日の国へ行くからしばらくはお別れだ」と。それを聞いていたベルスは、一声も漏らさずにアリシアを真っ直ぐに見つめていた。
もしかしたら、二度と戻らないことを見透かされていたかもしれない。
それくらい静かにベルスは佇んでいた。
そこまで想いを馳せた時、背後で甲板の床が軋む音が響いた。振り返ると、そこに立っていたのはノルズだった。彼も湯上りなのか、軽いいでたちだ。
「アリシアも涼みに?」
言いながらノルズが歩み寄ってきて、アリシアの隣に並んだ。
申し訳程度の細い柵にもたれかかりながら、満天の星を見上げて嘆息を漏らす。それと思って見遣れば彼の所作はどれを取っても洗練されていて、粗雑さとは正反対だった。
「不思議だよね。星は同じはずなのに、故郷のライトスよりここで見る方が光が滲むっていうか、大きく見える」
空気が温かいから、膨張して見えるのか。
そんなことを呟いたノルズは、次いで「日の国ではどう見えるかな」と言った。
声に誘われてアリシアは顔を向ける。
暗闇に慣れた目は、星明りに照らされるノルズの横顔を鮮明に捉えた。そこに見えたのは、――
「ねえノルズ。船酔いは大丈夫?」
「それは、うん。随分慣れてきたよ。今日はそんなに揺れなかったし」
「そっか。それじゃあ、……その、なにか考えてる?」
口に出してから、アリシアはしまった、と歯噛みした。
こんな迂遠な言い方ではなにも伝わらないかもしれない。しかし他人との距離の正しい縮め方など知らないアリシアにはこれが精一杯だったのもまた事実であって、結局やり直しもできないままノルズの返事を待つしかなかった。
そんな不安を他所に、ノルズが小さく笑った。
思わぬ反応にアリシアは目を瞬く。少しの間を開けてから、彼は「うん」と頷いた。
「ずっと考えてるんだ。強くなりたいって」
柵にかけている手、その拳が握りしめられている。
彼の視線は、大きく見えると呟いた空の星へと注がれていた。
「僕はいつも皆に迷惑ばかりかけてて。僕がいなかったら、バーノン副官だってあんなことには」
そこで不意に言葉を区切り、辛そうに口を噤む。
話題に上がった副官のアンリはここにはいない。
アリシアの脳裏に浮かぶのは物静かだが辛抱強い、硬い雰囲気の青年だ。だが思慮深く、彼の纏う空気は決して居心地の悪いものではない。澄んだ冬の空気のようだと言えば良いだろうか。
「あんなこと、って?」
引き結ばれたノルズの口元を見ながらアリシアは続きを促した。
間が空く。
緊張しているのか、ノルズの喉が一度だけ上下した。
「副官があれだけの傷を負わされたのは、僕を庇ったからなんだ」
足が竦んで動かなかった。
そう言ったノルズの声は震えていた。間違いない、これはアリシアと彼らの出逢い――ベヒモスとの戦闘のことだ。
あの日のことはアリシアもよく覚えている。激しい戦闘だった。あれはそう、死人が出なかったことが奇跡と言えるほど。
「僕がもう少しまともに戦えていたなら。せめてバーノン副官の足を引っ張ってさえいなければ、副官はもっと軽傷で済んでいたかもしれない。もしそうだったら、君が血相変えて飛び出してこなくても良かったはずなんだよ。ごめん。――本当に、ごめん」
足手まといの自分がいなければ、結果はきっと違っていたはずなのに。
そこまでを辛そうに吐き出した時、ノルズの視線は満天の星ではなく、暗く沈む海面に落ちていた。
アリシアはかける言葉を斟酌した。
彼が優しいことは歴然とした事実で、それなのに彼の自尊心はどこまでも薄い。
ダイム港での一幕が思い出される。
裕福な名門貴族の家に次期当主として生まれ、傍目には不幸であるようには到底見えない。しかし人とあまり目を合わせようとしない彼の性質は、割り引いたとしてもやはりそれなりの理由がありそうだった。なにより、今まさに目の前で苦しい気持ちを吐露しているその姿が、孤独に苛まれているように見えて仕方がなかった。
そこでアリシアはふと気付く。
別に、孤独であることはそこまで特別ではないのかもしれない、と。
どんな境遇であったとしても、苦しさや辛さから解き放たれるかは約束されていない。どんな場所にいても、きっと。
アリシアとは正反対の立ち位置にいるように思えるノルズでさえこうなのだと思えば、これまでずっと心の片隅にこびりついていた「どうして自分だけが」という負の感情が、ほんの少しだけ薄まったような気がした。
そっと窺ってみても、ノルズの視線は黒い海に縫い留められたままだ。
頑なだった。
「……私は、強さって難しいと思うの」
伏し目がちのノルズに語りかける。
今のアリシアにはそこまで沢山の手札があるわけではない。それでも届くか届かないかはやってみなければ分からなくて、届かなければ残念ではあるけれども、もしも届いたとしたらいいな、という微かな思いがアリシアにそれを語らせた。
「一騎当千の力を誇ったとしても、守りたいものを守れない時もあるんじゃないかなって」
他でもないアリシアの父が、母が、一族がそうだった。
そして強さを持つ者が選ぶ道は、その力故にとてつもなく寂しい時もある。力の無い者は彼らの決断を止めることはできない。それもまた寂しいことだと、少なくとも一人残されたアリシアは思うのだ。
「強くなりたいって、そう在りたいって思うなら、その理想を追い求めていいんだと思う。いつか、ねえノルズ、強くなったあなたに救われる誰かがきっといるはずだから」
「……そうかな」
「だって、すごく強いあなたの上官二人――フレイさんとアンリさんに、私は間違いなく救われたもの」
「そっか」
「うん。でも」
そこで一度区切る。
少しだけ思案してから、アリシアは再び口を開いた。
「でも、どれだけ手を尽くしたとしても、守れない人もきっと、いるの」
「そ、れは……」
「残酷だと思う?」
海面に落ちていたノルズの視線は、アリシアに向けられていた。
その双眸は美しい。灰色に緑が混じる、不思議な色だ。その瞳はしかし、アリシアの言葉に間違いなく傷付いていた。
「でも、バーノン副官なら」
「アンリさんは確かに強いと思う。でも、誰かを神聖視するのはやめた方がいいような気がする。世界を統治したっていう竜の一族にさえ、できないことはあったから」
その証拠に、アリシアに残された血族は一人もいない。
比類なき力を誇ると言われた一族でさえ、ままならないことは多かった。抱く強さ、純粋な力が全てを解決するのならば、こうはなっていなかっただろう。
そう続けたアリシアから目を逸らさないまま、ノルズが酷く痛そうな顔になった。
それは彼自身が傷付いたのではなく、おそらくアリシアの境遇に憤ってくれているのだと知れた。
何者でもない自分の拙い言葉に、真正面から耳を傾けてくれている。
ノルズのその真摯さがアリシアの心に沁みた。
「――どんなに焦がれても、私は私以外になれなかったよ」
普通の女の子として生きたい、そんなささやかな願いさえ叶わなかった。
ついこの前までそうだった自分を思い起こしながら、アリシアは小さく笑う。ノルズが唇を噛み締めて、しかしそれでも彼はアリシアからまだ目を逸らさなかった。
優しい人だ。決して逃げない人でもある。そういう些細な仕草にこそ、彼の人間性が滲み出ていた。
「でもそれって、私だけじゃなくて皆そうだよね。ねえ、ノルズ。あなたはアンリさんと同じにはきっとなれなくて、でもあなたにしか持てない強さもきっとある。今が完璧じゃなくたって、諦めなければそれでいいんじゃないかな。私はあなたたちを助けたことは後悔してないし、アンリさんだって誰かを足手まといだなんて思うような人じゃないって、私は思うけど」
「ええ、その通りです」
急に背後から相槌が来た。
驚いたアリシアとノルズは、同時に振り返る。そこにいたのは、長い髪を夜風にたなびかせるトラヴィスだった。
「びっ……くり、した……!」
手で胸を押さえながら、ノルズが息も絶え絶えに呟く。
するとトラヴィスが「気配は消してなかったんですけどねえ」と苦笑した。
「気付かなかったあたり、相当悩んでいるみたいですね」
「いえあのトラヴィスそれは」
「でもですね、ノルズ。今回ばかりは悩んでも仕方ありませんよ?」
「え、と……?」
「ベヒモスでしたか? あれは軽騎兵が相手をすべき魔獣ではありませんでした。あの場面なら、重騎兵が軽騎兵を守るのは当たり前のことです。その為にトール大佐だけではなく、バーノン副官と私が重騎兵としてこの分隊にいるのですよ?」
「それは、そうかもしれないですけど……」
「不服ですか? 副官に訊いてもこれは同じ答えが返ってくると思いますよ」
目下に対しても丁寧な口調でトラヴィスが諭す。
本人に訊いてみますか、と船室に向かって歩き出そうとするトラヴィスを、ノルズが大慌てで引き留めた。
見た目の優美さとは違い、存外にはっきりした性格のようだ。そんな先輩の腕に取り縋ったノルズが、息を吐きつつも「それにしたって」と呟いた。
「今回は仕方なくても、僕はいつも副官に守られてばかりです。国軍に入って二年になるのに訓練以外で怪我をしたのはこれが初めてで、それも皆に比べたらずっと軽くて」
「そんなことを気にしてたんですか」
「トラヴィスにしたらそんなことなのかもしれませんけど、僕は」
「私も最初はそうでしたよ」
「え」
トラヴィスの気負いない話し口に、ノルズが意表を突かれて絶句した。
空いたその間をどう思ったのか、トラヴィスが至極真面目な顔で小首を傾げる。そして彼は「一足飛びに重騎兵になれるなら、苦労はしません」と言った。
「誰もが通る道です。それにそもそも副官が部下の面倒を見るのは仕事ですし」
だから気にするだけ時間の無駄で、どうしてもというなら自分がいつかその立場になった時に下の者にしてやればいい。
軽やかに言ったトラヴィスは、「お邪魔しました」と締めくくり、さっさと船内へと戻ってしまった。
毒気を抜かれたような顔でノルズが肩を竦める。「戻りましょうか」とアリシアが声を掛けると、彼は「そうだね」と笑ってくれた。
船は往く。
風を全身に受けて、目指す場所へ。各人の、様々な想いを乗せて。
* * * *
日の国に着いた時、海岸には人っ子一人見えず、ただ静かに波の音が響いていた。
ファティマスの玄関口であるダイム港に比べるとまるで違う。島の中心にそびえる山は大きく威厳があり、その麓を覆う緑は深かった。
「ここが日の国……?」
アリシアの呟きには疑問符がついた。
桟橋は一つあり、かろうじて港の体裁は整っている。しかし本当にここには誰もおらず、ただの海岸線と言ってもいいくらいだ。それと知らなければ無人島と勘違いしてもおかしくない。
伸びをしていたフレイが呟きを拾ったらしく、「豊かな国だと教えただろう」と言った。
「日の国に大型の港はない。全てを自給自足で賄っていて、他国との貿易が必要ないからだ」
フレイが先頭に立ちながら、アリシアたち一行は細く伸びる小道を進んだ。
それは首都レベノスにあった石などで舗装された道ではないが、誰かが確かに使っているとわかる道だった。
海岸線を離れると、やがて森へと差し掛かった。
森を貫く形で道は続き、左右から差し伸びている樹々の梢が頭上に影を時折作る。豊かな植生が見て取れるが、ファティマスとは違う森だった。
なにが違うのだろう。
歩きながら考えて、アリシアは音の多寡の差に気付いた。
ファティマスの森はどちらかといえば混沌で、何もかもが入り乱れる、動の森。魔獣も、野獣も、高い木も低い木も、あちらこちらにあった。
この日の国の森は、静だ。木々たちが主役のような、一本芯の通った静けさが満ちている。
鬱蒼とは生い茂っていない、整然とした枝葉を見ながら歩いていると、アリシアの肩に小鳥が一羽、ふと舞い降りてきた。
「こんにちは。あなた、近くに住んでいるの?」
ピピ、と高く可憐な鳴き声に、アリシアの頬は自然と緩む。
「そう。きっと、綺麗なところなのね」
「ちょっ、アリシア! 君、鳥と話せるの!?」
驚きの声を上げたのは、アリシアの隣を歩いていたノルズだった。
彼の口はぽかんと開いたままになっている。その顔があまりにも驚きに満ちていて、思わずアリシアは小さく笑った。それに合わせてか、小鳥が羽ばたきアリシアの指に留まる。
「話せるかって訊かれると微妙かも。ただの鳥寄せよ」
「鳥が寄ってくるってことかい?」
「ええ。小さい頃から森が遊び場だったから、自然と友達になったというか」
「自然とって、すご……うーん、多分僕には十年かかっても無理だなあ」
ノルズの眉が八の字に下がる。
その様子がおかしくて、アリシアが手元を見ると小鳥がピイ、と鋭くさえずった。相槌が来るかと思いきや、それは予想外の反応だった。
「――え、なに?」
「アンリ!!」
アリシアが聞き返したのと、小鳥が慌てて飛び立ったのと。
フレイの怒号が飛んだのと、黒い影がアリシアたちを取り囲んだのと。
それら全ては同時だった。