03.夢破れて
アリシアはベルスの背に跨り、空へと飛び立った。
絶対に振り返らない。振り返るものか、と歯を食い縛る。頑なに真正面を向くアリシアの頬に、輝きを増した豊かな朝陽が差し掛かった。
苦い気持ちがじわりとアリシアの胸に広がる。
どうして言ってしまっただろう。これまでずっと口に出してこなかったのだから、死ぬまで飲み込んでおけば良かったのに。最後まで知らない振りを通せば良かったのに。
傷付いた育ての親の顔。
感謝していないわけではない。血の繋がらないそれも幼子の娘を男手で育てるのがどれだけ大変だったか、決して分からないわけではないのに。
力強い飛翔を続けながら、一声ベルスが吼える。雄々しい飛竜の咆哮は静かな朝の空気を震わせた。程なくして、目を閉じても勝手の分かる見慣れた景色に辿り着く。金色に光る村はようやく眠りから覚めたようだった。
アリシアの育った、ファーマという名の小さな村。
村の中心から少し外れたところにアリシアの家がある。ベルスはその庭に静かに降り立った。
「ありがとう」
今日も飛んでくれたことの礼を言って、大きな頬を撫でる。中にはもう一人の育ての親が待っている。重たい胸のままですぐ家に入る気にはなれず、アリシアはベルスに寄りかかった。
「――言っちゃった。素直じゃないよね」
本当はファーマの皆が自分のことを憐れんでいるとは思っていない。心の底から善良な人たちばかりだ。これを疑うと、アリシア自身がこんな時世に親もなく無事に成長できたことの説明がつかない。
竜の末裔と呼ばれる一族を憎む、今はそういう世だ。
そして世界中が出した答えは「竜の末裔狩り」だった。
どうやら一族は普通の人間に害を及ぼす危険な存在らしい。理由はアリシアには分からない。少なくともその末裔であるアリシア自身にできるのは、傷を癒すことと、ちょっとした防御壁を作ることだけだ。誰かを傷付けるような大層な力などでは決してない。ただアリシアが生まれた時には既にそういう結論が出ていたから、アリシア自身はこの世界で存在を隠しひたすら小さく生きていくしかなかった。
諦めているのに気持ちがささくれるのは、たった一つの夢が諦められないからだった。
花嫁になりたい。
たとえそれが世界で一番不幸せな誓いになったとしても。ただ一度でいいから、その清廉な衣装に袖を通してみたかった。
それほど過ぎた願いなのか、とずっと胸に問い続けてきた。この世で唯一の何かを欲しているわけではないのに、許されないのはなぜなのかと。だが答えなど誰もくれずに、アリシアのいなかった過去に理由の全てが置かれていて、今を生きるアリシアにはもはや何をどうしようもないのだ。
「……」
アリシアは唇を噛み締める。
小さなこの村に間もなく最後の花嫁が笑う日が来る。それは自分ではなくて、きっと自分には一生そんな日は来なくて、それでどうしても心が尖るのだった。
最後の婚礼。
たった一人しかいない自分の親友と、自分が密かに想いを寄せていた人の。
彼女たちから生まれる娘か息子か、今はまだ分からないが、この村からはこれ以上の幸せは増えないことが分かりきっている。周囲から隔絶された小さな集落に住むのは二十人もいない。すぐ傍には深い森ばかりが続く。そんな中に壮年から老人ばかりで、未来があるのは彼女たちしかいない。
一体誰が普通の幸せを望まないだろう。
誰もが疑わない。幸せな子供時代を過ごし、やがて出会う相手と恋に落ち、温かな家庭を築く。愛し合ったその先には、その結晶とも言うべき子供が生まれる。家族が増えて、日々成長するその姿に感動しながらも自身は老いていくが、その終着にあるのは逞しく成長した我が子に支えられながらの静かな余生。
ありふれている幸せ。
そんな誰もが描く当たり前の人生を彼女たちが送る為には、ここではいけない。この村を捨てて、もっと別の――そう、それこそ先に引き合いに出した首都レベノスにでも移るしかないことは誰もが分かっている。
遠くはない先、いつか終わりは訪れる。
けれど誰も口に出そうとはしない。その理由は、他でもないアリシア自身が最もよく分かっていた。
半月後だ。
春本番をいよいよ迎え、草木が命の限りに芽吹く頃。
自分が纏うことは生涯ないであろう純白の衣装を目に焼き付けて、自分はこの村を去ろう。何もかも、全てに決別するのだ。足枷の自分がいなくなりさえすれば、そうすればきっと、小さなこの村の人々にも幸せな未来が約束される。
それがアリシアにできるせめてもの恩返しだ。
* * * *
「おかえり」
家に入って扉を閉めた途端に声がかかった。低く柔らかい優しい声を辿り、アリシアは廊下を通りキッチンへ向かう。
「おはよう、大じじ様」
振り返った老人――コルトは、アリシアに向かって優しく微笑んだ。
用意された朝食の匂いが鼻腔を掠める。柔らかい独特の香りは、ここ南ファティマスに伝わる伝統的な香辛料だ。
キッチンを見渡せば、用意した覚えの無い鍋が火にかかっている。どうやらコルトがスープを作ってくれたらしい。出来上がったばかりなのか、湯気が立っていた。
「作ってくれたの?」
「早くに目が覚めてしまってね」
「ありがとう」
いつも食事を作るのはアリシアだ。だが、たまにこうしてコルトは手伝ってくれる。「長生きの秘訣は無理なく働くこと」と彼は折に触れ冗談めかして言うが、百歳を越えている彼が言えばあながち嘘でもないだろう。加えてそれが彼の厚意であることを知っているアリシアは、固辞はせずに笑顔で礼を言うに留めている。
「ふふ、今日も美味しそうね」
彼の作る食事は簡単なものが多いが、味は折り紙つきだ。優しい、どこか懐かしい味がする。時たま思うことは、これが母の味だろうかという素朴な疑問だ。
「デールは?」
「ん……もう少し見回りするから、先に食べてていいって。今朝もまた出たの。この前襲ってきたのと同じ魔獣だった」
少しの嘘が滑り出た。
いつも朝の見回りの後は二人で帰ってきて、必然朝食も三人でとる。だが今日はアリシア一人だ。当たり前の問いに、嘘をついたことと言い争いをしたこと、二重の後ろめたさが引っかかった。
しかしコルトは「そうかね」と返してきたきり、深くは聞いてこなかった。
「今日もきっと良い天気になるわ。太陽が綺麗だった」
手早く盛り付けをしながらアリシアは言った。森の中から見る夜明けは嫌いではなかったが、今は話を逸らす為に話題にするのがまた心の重しになった。
そうして珍しく二人きり向かい合って朝食をゆっくりと食べた。
パンは普段食べる分で、特に趣向が凝らされているわけではない。飾り気もない薄茶の皮は軽い音を立てて破れた。近頃はちらほらと春の野草も芽吹き始めている。柔らかな新芽のサラダは鼻に爽やかな匂いを残しつつ喉を通っていった。
簡素だが美味しい食事。
自給自足でやりくりしている食糧だが、近くそれも不可能になるだろう。働き手がもういない。その事実を咀嚼して、急がなければというアリシアの焦燥はまた募る。
「大じじ様。私、レベノスに行ってくる」
スープに口をつけた後でアリシアは持ちかけた。
相槌がない。
目を上げるとコルトがスプーンを置いていた。身体の細さと高齢に見合って彼の食は細いが、それにしても早すぎる。コルトは「レベノス?」と繰り返し、僅かに眉を潜めた。
「物資は残っているよ。まだ行かずとも」
「分かってる。でもヘレンのヴェールを買いに行きたくて」
詳細は語らない。知っているはずでしょう、とアリシアは心の中で呟いた。
コルトはこの村の最年長であり一人しかいない神官だ。この村の全ては彼に伺いが上がり、彼が知らないことはない。昨日なのか数日前なのかは分からないが、この日が来ることを彼は前もって理解していたはずなのだ。
抱いていた淡い想いを漏らしたことはない。
だがヴェールの約束は、間違いなく幼かったアリシアがかつて話している。「素敵な約束だ」と笑ってくれた育ての親を覚えているからこそ、ずっとアリシアはもしもを夢見てきた。もはやその夢は破れてしまったが。
コルトは考え込みつつ壁に掛けてある暦に視線を投げた。そして少しの時間をかけて日を読む。
「――新年祭が始まる日だ。人が多くて危ない。別の日にしたほうが」
「式はもうすぐよ。他にも準備があるし、新年祭なら逆にちょうど良いわ。店が増えてるから、きっと良いヴェールが見つかると思うの」
「しかし」
「ね、お願い。私が自分で織りたかったけど、できない不器用さは大じじ様が誰より知ってるでしょ?」
「む……確かにのう。アリシアにあれは無理だの」
「ほら、決まりね。どうせ行くんだし、足りなくなったものもついでに買ってくるわ。一回で終われば上等でしょう」
アリシアが押し切ると、それ以上コルトは何も言わなかった。
他の村や都市と交流の無い、辺境の村ファーマ。
生活は自給自足だ。数年に一度、迷った旅人が訪れるくらいで、定住の為に人が来ることはない。そうであっても、こちらから出て行くことはできる。今回のヴェールは本当に突発の話だが、本来は年に一度アリシアが自分たちで賄えない物資を外へ調達しにいっている。
他でもないアリシア自身がデールとのやりとりで揶揄した現実だ。
行先は首都レベノスだ。大陸地図上ではファーマとは真逆にあるが、ここを頼るより他ない。首都の大きさが隠れ蓑になるからだ。小さすぎる他の集落ではアリシアの存在を覚えられる恐れがあり、却って危険が増す。
レベノスに行くには、大陸を南北に大きく二分するファティマス山脈を越えねばならない。
山脈は魔獣と野獣が入り乱れる広大な原始の森に覆われている。かつては大陸の南北を繋ぐ主要な交易路が何本か切り開かれていたと聞くが、近年の魔獣増加に伴いそれらはもう使われていなかった。
普通ならば廃れた交易路など危険過ぎて通れない。
だがアリシアには飛竜のベルスがいる。
陸路が不可能でも空路が選択できるのは、辺境の村には不釣り合いな程の恩恵だった。裏返せばこれがなければ村は立ち行かないということでもある。
しかしそれをコルトにぶつけない程度には、アリシアは落ち着きを取り戻していた。