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竜の負う十字架  作者: 東 吉乃
第一章 真紅の出逢い

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27.誠実さが滲む先

  

 日が完全に沈む前に、アリシアたちはガラティアへと向かった。

 遺跡からは南西へと進む。

 空に飛び立つと、夕暮れの金の光がアリシアたちを包み込んだ。沈みゆく大きな太陽が鮮やかだった。

 道中、フレイもアンリも一言も発しなかった。それが彼らの優しさだということがアリシアには伝わってきた。

「おそらくあの辺りだ」

 地図を手にしながら、フレイがとある地点を指差した。森が深く青くなっている。その中に、樹々の切れ目があった。

 アリシアは手綱を捌いてベルスをそこに向かわせる。主人であるアリシアが確信を持っているわけではないのに、ベルスは迷わず下降を始めた。

 ほんの小さな木々の切れ間から森の中へ入った時、そこには確かに村があった。

 しかし辺り一帯は静まり返っている。

 その静けさが、ここが既に捨てられた場所であることを示していた。

 かろうじて残っている家はどこかしらが崩れ、そのほとんどが樹々や苔、下草に侵食されている。それを横目に見ながらベルスはゆっくりと木々の間を縫うように飛び、やがて村の端、樹々が切れて空を仰げるところで地面に降りた。

 音がほとんど聞こえない。

 生き物の気配が希薄だといえばいいだろうか。ベヒモスたちの森よりずっと、ここは深く静かだった。

「二手に分かれよう」

 辺りを見回しながら、フレイが家々のある方を親指で指し示す。

「俺は残された家の中を調べてくる。アンリは近辺の確認を頼む」

「ああ」

「終わったらここで落ち合おう」

 それからすぐにフレイは森と同化しかけている村へと歩いていった。


 その背を見送った後、アリシアは隣に立つアンリをそっと窺った。高い位置から視線が下りてくる。訊こうか訊くまいか僅か逡巡していると、アンリが「気になることがありますか」と問うてきた。

「その、……」

 どう言えば齟齬なく伝わるだろうか。

 迷っているアリシアに対し、急かす素振りなど一切見せず、アンリはずっと待っていてくれた。静かな空気に背を押され、アリシアは抱いた疑問をようやく口に出した。

「どうして組合せが変わるんだろうって」

「組合せ?」

「私を、……きっと守ってくれている、組合せ。順番に、というわけでもなさそうだなって」

「――ああ」

 そこでアンリが合点のいった顔をした。

「すまん。本来はこの分隊指揮官であるフレイがあなたを常に守るべきなんだが」

「あ、いえ、そういうことを言いたかったわけじゃなくて。ごめんなさい、あなたが嫌だとか不安とかでは全然ないの。あなたたちのことだからきっと理由があるんだろうなと思って、でも私には考えても分からなくて、……私は本当に、知らないことばかりだと」

「分からなくて当たり前です」

 俯きかけたアリシアだったが、それはきっぱりと遮られた。

 その語気は強かった。

 これまで見てきたアンリ・バーノンという人は寡黙で、話し方も静かで常に落ち着いていた。こんな強さを滲ませるのは初めてのことで、驚きにアリシアは思わず伏せかけた目を上げた。

 深い茶の瞳が、真っ直ぐにアリシアに注がれていた。

「軍人でもないあなたに分かるわけがないことです。あなただからではない、普通の人間は誰しもそうです」

「そういう、……もの?」

「はい。だからあなたが恥ずべきことなど一つもありません。どうぞ胸を張ってください」

 知らないことがある、それは誰であっても同じこと。

 引け目に思う必要はないし、責めるなどもってのほか。言い切ったアンリから、アリシアは目を逸らせなかった。

 なぜ、と。

 些細な疑問一つにこれほど真摯に向き合ってくれる、そんな風に在る人に出逢ったのが初めてだった。

「私たちは互いのことをほとんど知りません。訊くこと、話すことでしか距離を縮めようがない。ですから、気になることはいつでも問うてください。全て答えます」

 アンリの言葉は一切の淀みがなかった。

 視線を外されることもない。

 ずっと、今でも変わらず引け目に思っているアリシアの瞳を、彼はずっと見てくれている。恐れも嫌悪も滲まない、どこまでも静かな目で。その篤さに声を出せず、アリシアは無言のままに一度だけ頷いた。


 すると、アンリが頬を緩めた。


 初めて見る彼の笑顔だった。

 これまではずっと感情の薄い無表情か眉間に皺を寄せているか、そういう真面目な顔ばかりであったというのに。ここでそんな顔を向けられるなど思ってもみなくて、アリシアは言葉を失った。

 気付いているのかいないのか、アンリは緩めた頬を次の瞬間にはもう引き締めて、「組合せが変わるのは」と続けた。

「常にあなたをより危険の少ない方に置こうとしているからです。状況によって私とフレイのどちらがどう展開した方が良いかは変わります。私とフレイはどちらも重騎兵ですが、純粋な戦闘能力はフレイの方が高い。基本的に敵と不期遭遇する恐れがある場合に、フレイが前衛に出ます」

 だからこそ遺跡内部はフレイが先行したし、今ここでも魔獣が隠れ潜むかもしれない朽ちた家々の調査は彼が請け負った。

 そう説明されてアリシアはなるほど、と合点がいったが、「ただし」とアンリが肩を竦めた。

「これは正直、フレイの私情が大きいですね」

「……え?」

「それらしい説明に聞こえたでしょうが、国軍の基本をなぞるならば、前衛に常に出るべきは私です。我々はフレイ・トール大佐を守る為に組織された分隊ですから、個々人の戦闘能力がどうあれ露払いは我々の職務になります。指揮官は守られるべき存在です。我々一介の兵士とは異なり、即座に替えがききませんから」

「じゃあ、どうして」

「……」

 一度区切り、アンリが目線だけをちらと背後に向けた。

 その先にはフレイがいる。

 既に声の届かない距離にいる彼は、ちょうど閉ざされた家の扉を開けて中へと入っていくところだった。

 危険に対する逡巡などまるで無かった。

 その姿を見届けたアンリが再びアリシアへと視線を寄越してきた。

「――そういう人間だから、としか言いようがありませんね」

 小さく息を吐いたアンリが、僅かに苦笑を浮かべた。

「本国では先任連隊長たちの目もあるのでそれなりに弁えて振る舞っていますが、我々……特に私の前だと好き放題です」

 明かされたことに、アリシアは思わず眉を寄せた。

 そんな風にはまるで見えない。

 礼儀正しく篤い、そういう人であることは既に知っているが、言われた奔放さはとても想像がつかなかった。

 驚きすぎて相槌を打てない。

 そんなアリシアに対し、アンリが続けた。

「あなたのことを本気で守ろうとしているからです。なにに換えても」

「そんなこと、」

「あります。あなたに傷一つ付けるわけにはいかない、それを真っ向から成し遂げようとする。そういう男です」

「……正気なの?」

「そう来ますか」

 ふとアンリが笑みを深めた。

「本気ではなく、正気か、と。良い言葉選びです。私も同感です」

 無論、あなたを守る覚悟は自分にもありますが、とアンリは言った。

「擦り傷一つも許さず守れるかと問われると、さすがに自信はありませんね。うっかりつまづいて転ばれた瞬間に終わりです」

「待って、私が勝手に転ぶことまで責任なんて取れるわけないでしょう?」

 この人は真顔でなにを言っているのだろう。

 どこまでが本気で、どこからが冗談なのかが分からない。アリシアが戸惑っていると、アンリが首を横に振った。

「フレイの言う守るとは、――竜騎士の誓う忠誠とは、そういうことです」

 その気概を携えて、己が身を剣と盾に変え、全てを誓った相手に跪く。

 それが竜騎士というものだ、とアンリは続けた。


 否応にも昨晩のことが思い出される。

 アリシアは「証明などできないくせに」と突っぱねた。だが彼らはそこで終わりにせず、こうして身を以て彼らの覚悟を示してくる。

 その覚悟をさえ否定できるだけの言葉はアリシアにもはや無く、口を噤むしかなかった。


「余談はここまでに。日が暮れる前に確認してしまいましょう」

「……ええ」

 切り換えたアンリが指し示した先には、幾つもの墓標があった。

 気を取り直してアリシアはそれらに向き直る。

 等間隔で、苔生した地面に小さな石板が並んでいる。そこには埋葬されている者の名前と、埋葬した者の名前が彫られていた。

 その全てに目を通す。

 アリシアは墓の主たちを誰一人として知らなかったが、彼らに祈りを捧げた二人のことは良く知っていた。

 コルトとデール、二人の育ての親は、どんな気持ちでこの石板を彫ったのだろうか。一日やそこらで終わる量では到底ない。長かったであろうその日々に想いを馳せるだけで、アリシアの胸が詰まった。

 最後の石板を読み終えても、両親の名前は無かった。

 コルトが話していたことと一致している。彼は、アリシアの両親だけは埋葬できなかったと言っていた。

 どこにいるのだろう。

 ふとアリシアが考え込んだ時、そっと肩を叩かれた。顔を上げると、アンリが無言のまま指を差している。その先を視線で追うと、今のアリシアのいる場所からちょうど反対側、再び森の始まる境に、一際大きく立派な樹があった。

「なんて大きな樹」

「神木のようですが――」

 促されるようなその言葉に、「もしかして」という想いがアリシアの胸に去来した。

 ゆっくりと歩いて近づく。

 大樹の根元に二箇所、僅かばかり土が盛り上がっている部分があった。

「……名前がない」

 目の前にある光景を見ながら、アリシアは呟いていた。

 二つの簡素な墓標が立てられている。

 木だ。ただし僅かに加工の跡が見える。名を彫り込めるように、一部が面に削られていた。しかしそこには誰の名も刻まれてはいない。墓の主も、埋葬者も、分からない。

 風雨に曝されて朽ち果ててもおかしくはないその墓標は、しかし流れた年月をあまり感じさせなかった。

 墓そのものは苔生していて、墓標が無ければ森の一部にしかもはや見えない。その様子は先に見た村人たちの眠る土と変わらず、同じだけ年月を重ねているように思われた。

 つぶさに見ているうちに、とある存在が目に入った。

「骨?」

 二つの墓標の間に白い欠片があった。

 半分ほどは土に埋まっているだろうか。アリシアがそっと持ち上げると、それは掌ほどの大きさの牙だった。

 僅かに曲線を描く形に見覚えがある。

「飛竜の牙だわ」

「飛竜?」

「ええ。多分、上の尖頭歯。ここの」

 アリシアは自分の口元、犬歯のある部分を指で差した。飛竜の持つ牙の中で、最も大きい一対だ。

 周囲を見回すが、頭蓋骨や翼骨などは見当たらない。

 野生の飛竜がたまたまここで息絶えたというには不自然だ。とすると、これもまた誰かがここに埋めたということか。

 縁もない飛竜をわざわざ一緒に埋葬はしないだろう。

 そこまで考えて、ふとアリシアの頭に一つの仮説が浮かんできた。

「お父さんの飛竜かな」

 アリシアと共に生きる飛竜ベルスは、母の形見だ。

 父にも母と同じように、共に生きた飛竜がいたとしてもおかしくはない。

「もしもその飛竜が、お父さんと一緒に最後までファティマス国軍と戦っていたとしたら、だけど」

「そうかもしれませんね。元来、飛竜は主人に忠実かつ勇敢な生き物です」

 乗り手が固定されないゴルガソス国軍の飛竜でさえ、前線で竜騎士を守って負傷することがある。それが一対一の関係となれば、その絆の強固さはいかばかりか。

 そう言ったアンリの視線は、その古い牙に注がれていた。

「――これがあるから、辺り一帯が静かなのかも」

 生態系の頂点に立つ飛竜の縄張りには、野獣も魔獣も基本的に入り込まない。生きた飛竜に比べれば弱いだろうが、骸であっても匂いなどの残渣で影響力があると考えて良さそうだった。

 手にしていた牙をそっと元の位置へと戻す。

 立ち上がったアリシアは、下から大樹を仰ぎ見た。


 午後の風が緩やかに流れていく。

 暁に露に濡れ、朝に鳥たちの声を聞く。

 昼に太陽の光の下に曝されて、夜に幾千の星々の許に照らされる。

 大樹に守られ、飛竜に守られ。

 悠久の時の流れの中で、静かに、安らかに眠る。


 ただ美しい。


 いるだけで、涙が零れ落ちそうなほど。この場所は、そういう場所だ。

 それを思うとここに墓標を立てた見知らぬ誰かの心が見えるような気がした。その誰かはここに眠る二人の人間に対し、心から冥福を祈ってくれたのだろう。その事実に、アリシアはどうしてか救われた気持ちになれた。

 名前の無い、本当は誰が眠っているか分からない墓。

 それでもアリシアには、この墓の主がおそらく自分の両親なのだろうという不思議な確信があった。

「お父さん……お母さん?」

 声に出してみる。当たり前だが返事はない。

 なんて子供じみているのだろう。自分の幼さに思わず苦笑を浮かべたアリシアだったが、その時自分の右隣にいた大きな影が、目の端でふと小さくなった。

 顔を向ける。

 アンリが二つの墓標に向かって跪いていた。寡黙なその人は、暫時そのままでいた。伏せられた目、物言わぬ頬、固くある背。その姿があまりにも真摯で、ほんの少しだけアリシアの視界が滲んだ。


 真実がどちらにあったとしても。

 自分が想いを馳せるなにかに対し、心を寄せてくれたという目の前の事実が胸に迫った。


 ややあって、祈りを終えたアンリが立ち上がった。

 彼は無言のまま遥か上に生い茂る梢を見遣る。その時の彼の目が、ひどく優しいものだった。

「行きましょう」

 アリシアが声を掛けると、アンリが上げていた視線を向けてきた。

 もういいのか、と言いたげだ。それを見てアリシアは小さく笑った。

「会いたくなったら、また来たらいいもの。場所は覚えたから、一人でももう大丈夫」

「それは」

「冷えてきたから、これ以上はあなたたちの身体に障ってしまうでしょう? フレイさんのところに行きましょう」

 促すと、それ以上アンリはなにも言わなかった。


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