14.神託、史上最も危険なそれと最後になるであろうそれ
軍事大国で大佐の任についている青年は、肩書きに不釣り合いなほど実直すぎた。
階下に降りてきたフレイ・トール大佐。口数は少なく、しばらくは何事かを考え込んでいた。だがやがて彼は意を決した風情で、コルトに「話すお時間を頂けませんか」と乞うてきた。
「既にお伝えしておりますが、やはり私は彼女を我がゴルガソスに迎えたいと考えています。彼女の安全は私と、この分隊の人間が命に換えても守ります。たとえ我らが膝を折る日が来たとしても、我らの遺志を継ぎ彼女を託すことのできる仲間が本国にはいます」
その声を契機に、さざ波のようだった談笑の声はぴたりと途絶え、居間の中が静まり返る。
彼の部下達は礼儀正しく、折り目正しく、彼らの上官の言葉に黙って耳を傾けていた。
「あなたも授けられた神託はご存知のはずです。いえ、竜の一族に代々仕えてきたディーン家が知らないわけがない。このままいけば世界は遠からず終わることを」
指摘された事実にコルトは否定も肯定もしなかった。その代わりに、熱さを湛える若い瞳を覗き込む。
どこまで本気で言っている。
どこまで真剣に信じている。
老いぼれといえど簡単に籠絡はされない、残された命をここで張っても構わない。そんな決意を胸に抱きながら、相手の心の中を計るつもりで目を眇める。
嘘をつけばすぐに分かる程度には、人より長い時間を生きてきた。
自分より若い人間の死を数多く見てきた。どんな瞳に、どんな頬に、人の気持ちが映されるのかを焼き付けてきた。
コルトに計られていることを知ってか知らずか、青年が続ける。
「世界に緩やかな破滅が来る。三十年前に降りたこのヴェルド神託は、近年俄かに現実味を帯びてきています。我がゴルガソス帝国では内乱が続いて十年になる。北のカルキノスではセヴァス公国とラ=シェイが戦争中。西のサルディアでも部族間抗争が年々激しさを増して、……いつ武力派に政権交代してもおかしくはありません。このファティマスでさえ、緊張状態のこのご時世いつどこの戦争に巻き込まれるか。『緩やかな破滅』という言葉が正直空恐ろしくなります」
それなのに、と落胆の声が続いた。
「この世界はもう、神託など信じてはいない」
勤勉でもある青年は、真剣にこの世界の往く末を案じている。
それがコルトの目に眩しい。
「――そう。今や神託を捨てたと言っても過言ではありませんが、求めた平和な世界は来なかった」
三十年前の神託が示したのは、世界に近く訪れるとされる破滅の回避の為に、竜の一族を駆逐すべきだということだった。
古い血の支配から抜け出し、新しい世界を迎えるのだ。
合言葉のようにその言葉が口々に叫ばれ、一部の反対を数の力が押し切り、やがて世界は竜の一族、その末裔狩りに突入した。
最も早かったのが最北のカルキノス大陸。下るように東のゴルガソス、次いで西のサルディア。最後に動きが伝播したファティマスでは、待ちかねていたかのように末裔狩りは苛烈を極めた。
竜の一族さえいなければ史上最も危険な神託は回避され、結果として世界は終わらない。
短絡に見えた決断はしかし、「世界の終わりを呼ぶ一族」という分かりやすい脅威を払ったことで喝采を浴びた。新しい世界が始まるのだと誰もが信じて疑わなかったし、事実新しい世界になったと誰もが思っている。
当時の情報は錯綜して、もはや扇動者の出所を辿ることは不可能だ。
「一体なにが違うと言えますか。私たちと竜の一族、どれだけ野蛮さに違いがある。誰かを排除して次の朝を迎えただけでは昨日となにも変わらない。自分たちが変わっていないのに、世界だけが変わるはずがない。よくよく考えれば分かろうものなのに」
現実を見ればそれでも戦争は止まらない。
愚かすぎて涙も出ない、そうフレイは断じた。
「結果として竜の一族は絶えたとされています。しかし、先も申し上げた通り神託の言う『緩やかな破滅』の影は消えるどころか、徐々に色濃くなっているのが実情です。火種はありすぎて、いつまた世界大戦にもつれ込んでもおかしくありません」
「……ふむ」
「だからこそゴルガソスはヴェルド神託以降も一族の研究を進めてきました。ゴルガソス文書の解読の他に、ほとんど残されていない資料を大図書館から賢明に掘り出し、また各国に調査団も派遣した。まさか少数民族を淘汰することが世界平和に繋がるとは考えにくかったからです。かつて三千年の治世を築いた彼らなら、答えをくれるかもしれない。答えがなくとも、参考になるなにかが見つかるかもしれない。ただ世界の終わりが来るとするならばそれを回避したい、その想いで必死に。ゴルガソス文書でさえ解読したのは善き指針を求めてのことで、決してヴェルド神託を擁護する為ではなかった。招いた結果は、……惨憺たるものでしたが」
青年は真っ直ぐに憂う。
そして歴史の暗部に心を痛めてもいる。彼の責任ではない過去のことさえ、我が事のように受け止めている。
「最後になるであろう神託は『暁を待つ最後の太陽が、大地の果てに眠る』と言っています」
「馬鹿な。新しい神託がもたらされたと?」
篤く語るフレイの言葉に、初めてコルトは反応した。
今、なんと言った。そんな気持ちが、言葉を喉奥からせり上げる。
「ヴェルド神官からはなにも……近頃はヴェルドの近況さえ口を閉ざしているのに、まさか」
最近では思い返すこともあまりなかった遠い神話がコルトの頭を掠めた。
遥か昔の神代まで遡る、古い古い話だ。
今では知っている人間の方が稀だろう。時の彼方に忘れ去られた事実は竜の一族に絡む故、文献なども残ってはいまい。
* * * *
世界は若き神によって創られた。
まだ生無き静かな世界の最初の朝に、神は自らの下僕として双子の竜を作った。
その二頭の竜は神に従い良く働いた。
世界には次々と生命が溢れ、やがて満たされた。
世界の全てが出来上がった時、神は遥か遠く星霜の彼方に去った。
去る時、神は己が司っていた力の全てを下僕であった二頭の竜に託した。
そうして世界の神は竜になった。
世界を動かす力は以後、双子の竜により守られることとなった。
その竜を最初に崇め、守護につき運命を共にすると誓った二人がいる。
エイル・アルヴァインという名の乙女と、スヴァルト・ウォルスという名の青年だった。双子の竜は以後アルヴァイン家とウォルス家に分かれ、その家を守り続け、力を与えることを約束した。一族が世界を神である彼らに代わり、平和の内に統治することと引き換えに。
竜から人へ、この力の継承が「竜の祝福」と呼ばれている。
祝福を受けた彼らの子孫が、後の歴史に「竜の一族」と呼ばれることとなる。そして今、彼らの血を遠く引くのが「竜の末裔」だった。
世界を三千年にも渡って導いた竜の一族には、仕えた家が多くあった。
中でも最も古い歴史を持つのが、両家の腹心として仕えた影の家――ある時は影武者にもなり、あらゆる火の粉を払ってきた――ディーン家と、クレヴス家。
そしてもう一つが、既に去った神々からの神託を降ろし竜の一族に伝えるヴェルド一族。
神託は、常に世界を揺るがす重大な警告だった。
軽視すると大きな災厄を運ぶ。
* * * *
先程フレイが嘆いた通り、一連の神話は大部分が忘れられ、今では寝物語と一笑に付す為政者ばかりだ。
竜の一族は末裔狩りで駆逐された、いわば古い時代の象徴でしかない。その使役一族のヴェルドも同じだ。既に滅びた一族絡みの話など旧時代の遺物として扱われている。今では竜の一族などお伽話と同義だ。
そうして三十年前の神託は、史上最後の神託となった。
なぜならば、神託が降りる条件である竜の一族が、この世から消えたからだ。そんなご時世にあって今また神託が降りたなど、子供でも冗談だと馬鹿にして笑うだろう。
コルト自身は当然信じている。信じているというより、この身をもって竜の一族とはどういうものかを体験してきた。だがそれを一国の大佐が口に出すなど正気の沙汰とは思えなかった。
それほどまでに現代は、神話も竜の一族も神託も、まるで最初からなかったことのようにされている。
「強制睡眠と言いましたか。あの眠り続けることでしか回復できない、不思議な力」
フレイの指摘に、コルトは頷かざるを得なかった。
アリシアがこのファーマに戻った時、到着と同時にくず折れた。目立った怪我がないことは彼らの方が理解していた。
一見健康そうな人間が突然目の前で昏倒すれば誰でも驚く。当然彼らもコルトに尋ねた。なにか持病があるのか、ともすれば身体に障る無理強いをさせたかもしれない、と。つぶさになにが起こったのかを説明してくれたのは他でもないフレイだった。
煙に巻けないとコルトが観念したのは、彼の説明の中に力の使役としか思えない表現があったからに他ならない。
薄赤い壁、淡い赤の光。
彼自身が破れた服の裾をたくし上げ、瀕死の傷が立ちどころに塞がったことを不可解そうに明かした。
それでもまだ口が重かったコルトに対し、彼は率先してその身分を明かした。ゴルガソス国軍の大佐と聞いた時に、少なくとも彼だけはアリシアの出自にある程度の確信を持っているはずだと直感が告げた。
音に聞くゴルガソス帝国。
竜の一族に関する研究が盛んな、世界一の軍事国家だ。
文献の少なさから全ての詳細は露になっていないだろうが、それでも異端の瞳を持つ一族であるということは随分前から周知の事実となっている。ゴルガソスの高級将校がそれを知らないはずがない。
「あれほど特異な力を持つことさえ、私たちは知らなかった。ゴルガソスの研究機関でさえ掴んでいない事実を、そこらの一般人が知り得ているなど到底あり得ない」
フレイの言葉には研究の第一人者であるという自負が滲んでいた。
「研究が進む程……竜の一族について調べる程に、謎は深まるばかりです」
高度な文明を持ち、三千年に渡り世界を治めた一族。文字がないわけではない。文献が残っていないわけでもない。そんな状態でなにより不可解なのは、彼らの痕跡がどの大陸からも不自然な形で消されているように見えることだ――そう彼は指摘した。
竜の力にしてもそうだ、と。
先に述べた通り、明らかに人外の力であることは疑うべくもない事実で、そうであれば必ず記録に残ったはずだ。
「竜の一族自身が彼らに関する情報を消去したのか。仮説は検証しましたが、その可能性は限りなく低いと見ています」
「ふむ」
「ディーン殿。竜の一族に仕える家のあなたなら、我らの仮説についてどう思われますか」
「……まずは聞きましょう」
青年の語る篤さが肌を泡立たせる。久しく忘れていた感覚だった。
コルトはなにも言わず、手で続きを促した。
「一言で言うと、千年前の大戦時に、そんな時間も人的余裕もなかった、ということです」
手札の切り方が的確で鮮やかだ。
コルトが是も否も漏らすより前に、まるで退路を断つかのように青年が重ねる。
「単純に聞こえますが、そう結論付けることが最も筋が通る。何せ、竜の一族の本流である十一の血筋の内、二つもしくは三つを残して大戦を契機に全て断絶している。当時、主要大陸を治めていたのはこの血筋のいずれかだった。正確な数字は前後するかもしれませんが、世界の人口が三分の一にまで激減したと複数の記録が語る程度には激しい――激しすぎる大戦でした。国がある以上、国を存続させることは最優先にされる事柄です。後継者を残す暇もないのに記録を消去する? それもここまで徹底的に? 三千年も世界を統治してきて、それが正史であると間違いなく主張できる一族が、わざわざ? ――彼らがそんなことをする利点がない。あまりにもなさすぎるのです」
「随分と、……進んでいるようですな」
歴史の帳に隠される、竜の一族についての研究が。
コルトはほぼ唸るような態で声を絞り出した。
こんな話ができる日が来るなど、もはや夢にも思っていなかった。
諦めてはいなかった、しかし望みはほぼ絶たれていた。風前の灯となった残りの生で、後世に繋ぐ日などおそらくもう来ないとさえ。
そうしてコルトの脳裏に過去が鮮やかに蘇ってくる。
「三十年前。竜の古文書が……今で言うあなたたちの『ゴルガソス文書』が発見された頃と比べて、格段に一族について理解されておられる」
「むしろ、ここまで紐解く為に三十年もかかったのです」
ぽつりと呟いたフレイが、そこで暫く口を噤んだ。
なにかに思いを馳せるようでもある。重体に近い身を押してまで彼が伝えようとするのは一体どんな言葉であろうか。
昼下がり。
静かな居室には時計の針の音だけが微かに響く。その中で暫時沈黙を貫いた後、再びフレイが口を開いた。
「いずれにせよ竜の一族が消したのではないとすると、残る可能性は一族以外の誰かが、何らかの意図や目的を持ってその痕跡を消し去ろうとしたと考えるのが妥当です」
「……成程。聞く程に道理のように感じますが、」
では一体誰がそんなことを。目線で尋ねる。
しかしフレイは首を横に振った。
「まったく見えません。そして決定付ける証拠がない以上、仮説は仮説の域を出ない。だからこそ私たちは今でも各大陸の調査を続けています」
ふと寂しそうに笑って、「今は内戦が続いて、正直割ける人員はほとんどいませんが」ともフレイは零した。
小さなその呟きがコルトに疑問を抱かせる。
「内乱中の国、少ない人員で、ましてあなたはかなり上級の竜騎士だ。高級将校といっていい。なぜこんな小国に来たのです」
「先程も申し上げましたが、新しい神託が届いたからです」
「本当かどうかも分からないのに? 既に三十年前の神託が片づけられたこの時世に、新しい神託の存在などますます笑われるだけでしょう」
神託は古くから常に警告を伝えてきた。玉石混合あれど、いつの時代にも世界が毀損されるという重大かつ深刻な未来について、救済の為にそれは与えられた。
しかし本来、神託の存在を知る人間は常に限られてきた。時の為政者、国のトップとその側近だけに留められる最高機密だった。
当然だ。
娯楽としてまことしやかに「破滅が来る」、「世界が終わる」と囁かれる分には委細構わないが、本気で信じ込まれれば民衆の暴動、クーデターが起こりかねない。規模次第では傾国の危機を招く。国を治める者として、それは最優先に避けなければならない事態だ。
だからこそ、ヴェルド神託は頑なにその存在自体が秘匿されてきた。
元を辿ればかつて世界を統治した竜の一族に対してのみ、その使役一族であるヴェルド神官が伝える情報だったのだ。
千年前の大戦を契機に竜の一族の統治は終わりを告げたが、「世界を善く保つ」という至上命題が課されていた一族に仕えたヴェルドは、その後も時の為政者達へ神託を降ろし続けた。竜の一族に代わる新しい統治者達に、忠告と指針を届け続けたのだ。
その歴史が綻んだのが、まさに三十年前だった。
「新しい神託は、……それを信じるにはもう一つ信憑性が欲しい。しかし悪戯として棄却するにはあまりに重い。不可解さに上層部は揺れましたが、結果私はファティマスに、他の大陸にも別分隊が派遣されています。真実か否かはこれから明らかになるでしょう」
コルトの心中を量ったか、フレイが生真面目に正確に言った。
「新しい神託は、手紙でゴルガソスに届きました」
一通の親書。
宛名は過去五回にも及んだヴェルド掃討作戦の内、最後に殉職したとある中尉宛だったという。
「私の尊敬する先任大佐の、――かつての上官だったと聞いています」
「宛先が?」
「はい」
「それが不可解なのですか? なぜ?」
「上官の名を知っている者はヴェルドに一人しかいない。そのヴェルド神官の目の前で上官は亡くなり、おそらくは哀悼の流れで名を聞かれた。先任大佐はそう断言しました。死んだことを知っているのに、死んだ相手に親書を送る。まして開けてみればそれが神託だったなど、悪戯や狂言として片づけるには、あまりにも不可解でしょう」
道理だ。コルトは心の中で呟いた。
死者への手紙。
その死を知っていて、尚。
感情がざらりと撫でられるような、簡単に見過ごしてはいけないような感覚がコルトを襲った。




