10.戦闘
「ノルズ!」
誰かが叫ぶ。この分隊で一番若い部下の名だ。男は焦って声が飛んできた方向に目を走らせた。
巨大な爪で薙ぎ払われたか。左肩を押さえたまま、名を呼ばれた最年少の部下――ノルズがその場に崩れ落ちる瞬間を男の目は捉えた。
「チッ……!」
舌打ちが出るが、助けに行ってやる暇はない。今はこの場を切り抜けることが最優先だ。
男は槍を構え直す。
魔獣の足元に副官のアンリが単身飛び込む。彼は目にも留まらぬ速さで、真下から魔獣の顎に槍を突き刺した。咆哮が森にこだまする。
「クイン!」
飛び込んだ副官に呼ばれたのは、最も身軽で速い男の名だ。
クインは意図を瞬時に理解し、最前列から後方へ下がる。入れ替わるようにして、別の二人が魔獣の足元に飛び込んだ。左と右、二人でほぼ同時に魔獣の前足を槍で地面に縫い止める。
最も危険な位置にいる副官はしかし、返り血だけで身体を染めていた。
「いい加減にしろや!」
叫んだと同時に間合いを取っていたクインが高く飛ぶ。それを魔獣は迎え撃とうとするが、前足も顎も自由を奪われていて、ただ怒りの咆哮を上げるのみだ。
一瞬の後、鈍い音と共にクインの槍が深く魔獣の片目に突き刺さる。
「退け!」
男は怒号を飛ばした。
経験が警鐘を鳴らす。急所の目、潰されれば物凄い力で魔獣は暴れるはずだ。流石と言うべきか、事前に察知したらしいアンリは男の指示より早く安全圏に戻っていた。
しかし左足を封じていた若い部下が退避し損ねた。
「っ、グレン!」
叫び声こそ上げないものの、グレンはそれと分かる苦痛の表情を浮かべて倒れた。背中が鋭利な爪に大きく抉られている。
「立て! 誰か、アンリ!」
信頼を寄せる同期同齢の副官を、男は視線だけで捜す。
程近くで目が合う。
焦りの顔。そうだった、と焦るももう遅い。アンリの優秀さが仇となる。安全圏に退避してきたのだから、もう一度踏み込むには当然間に合わない。
グレンの伏した場所は危険極まりなかった。
片目になった魔獣が、まさにその身体を食い千切ろうと体勢を低くする。グレンが苦しそうに、しかし光の消えない瞳で強く魔獣を見据える。だが抵抗する術がない。男の目に、光景がゆっくりと映った。
しかし、間一髪。
良く手入れされた綺麗な銀髪が、グレンと魔獣を遮るように翻った。
「く……!」
まずは手にしていた槍。助けに入ったトラヴィスは、魔獣の大きく開かれた口にそれを的確に突き刺した。
口蓋から多量の血が吹き出す。が、魔獣は怯まない。
半ば押し切られるような形でトラヴィスが槍を手離す。逆らっていた力が緩んだのと同時に、魔獣は力強く踏み込む。だがそこで、次にトラヴィスの腰に挿さっていた長剣が閃いた。
「ガアァッ!」
腰の丈程もある長剣が見事な速さで鼻っ柱に叩きつけられる。長さの分だけ剣は重く、そこから繰り出される打撃も必然重い。さすが分隊の誇る重騎兵だ。
魔獣の鼻周りが真っ二つに叩き切られる。衝撃で、血と肉の破片が辺りに飛び散る。
深い傷を負った魔獣が苦しそうに一瞬仰け反った。その隙を突いてトラヴィスが倒れたグレンを担ぎ上げようとする。
しかしそれが悪夢の始まりだった。
残るもう一つの目が真っ赤に燃えた。トラヴィスが気付いた時には遅かった。
残像を残して、巨大な前足が真横に薙ぎ払われる。鋭利な爪は対応に出遅れた二人を易々と捕らえ、派手な音と共に二人を纏めて殴り飛ばした。
オオオォオ――ッ
咆哮が響き渡り、森を震撼させる。
部下の戦いを見ていた男の背筋に冷たい汗が滲む。これでは泥仕合になる。間合いが必要だと直感が告げていた。
だが男が指示を出すより先に、もう一人の部下が飛び出した。
「待てジョセフ、不用意に近づくな!」
「らぁっ!」
男の制止も聞かず、クインと同じく優れた速さを持つジョセフは魔獣に飛び掛かる。三人もの仲間が倒れたという未だかつてない事態に、知らず熱くなっているようだった。
自殺行為だ。男の目に映る魔獣が醜悪な笑みを浮かべた。
同じくその気配に気付いたらしいクインが、ものも言わずに飛び出す。その横顔は蒼白だった。魔獣が爪を振りかざす。それを見たジョセフが、攻撃進路を変えた瞬間だった。
上等な鞭より尚鋭い音が響く。同時に、ジョセフの身体が不意に宙を舞った。
ジョセフを薙ぎ払ったのは自分たちの胴ほどもある、長くしなやかな尾だった。
爪と牙の攻撃だけではないことを知り、クインが警戒の色を濃くする。しかしそれはほんの僅かの間でしかなかった。隻眼がクインを捉える。その様子は、クインがその目を潰した張本人であることを確信していた。
爪の一突きが迫る。クインの足が竦む。
「く、はっ……」
しかし受けたのはクインではなかった。男の腹部から、見る間に大量の血が溢れ出す。
思い描いていた結果が訪れなかったせいか、魔獣が更に怒りの咆哮を上げ、次の瞬間にクインもその場に倒れ伏した。これだけ巨大な質量に体当たりされれば、昏倒しない方がおかしい。
傷の深さに思わず男も膝を折る。物凄い勢いで失われていく血に、男の目の前が霞んだ。その傍らで魔獣は残る二人、未だ倒れることなく対峙するアンリとセスに向き直る。
セスが先程と同じように動きを封じようとしたが、二度は通用しなかった。アンリがなにかを叫んだが、それも空しくセスも崩れ落ちた。
未だ無傷で残るのは副官のアンリだけだった。
彼は顔色一つ変えることなく、たった一人で冷静に魔獣に対峙する。ゆっくりと流れるように槍を構え直す。
貴様ごときにやられる気など毛頭無い。無言の中に、そんな気配が強くなる。
空気の密度が濃くなる。まさに一触即発だった。
が、突然魔獣がアンリから目を逸らした。そして狂ったようにある一点を目指して突進する。魔獣の向かう方向を見定めた瞬間、この戦闘で初めてアンリの顔が強張った。そして同時にアンリも走り出す。
両者の先にいたのは最初に倒れた最年少のノルズだった。まだ息があったらしい彼は突然の出来事に目を見開くが、肝心の身体がもはや動かない。
間一髪と言えば良いのだろうか。
ノルズの代わりに、ぎりぎりで飛び込んだアンリが吹っ飛ばされた。
それを遠くに見ながら、男は渾身の力を振り絞ってもう一度立ち上がった。
こんな所で倒れるわけにはいかないのだ。
自分には、やるべきことがあるから。
男の発する強い気配に気付いたのか、ゆっくりと巨体が振り返った。
* * * *
報いが死か。
頭の隅で冷静に考えながら、男は動かなくなり始めた体で必死に防戦していた。
あの時確かに魔獣は語りかけてきた。頭の中に直接「立ち去れ」と言って、そしてそれを自分たちは聞かなかった。
その報いが、死。
およそ他人事のように、「ここで終わりなのか」と考える。
先程、一番若いノルズを庇って副官のアンリが吹っ飛ばされた。これで部下たちは全員倒れたことになる。各々の生死は確認できていないが、この分隊で残るは自分一人だけだ。
怒りに目を真っ赤に染めながら、疲れる素振りも見せずに次々と攻撃を仕掛けてくる巨大な魔獣。人語を解すことから非常に格が高いことが判る。自分の出身大陸――ゴルガソスにはいない、初めて見る魔獣だった。
そうであっても、急所は間違いなく燃える一対の目か、開けられた口の奥、喉だろう。既に片目は潰れている。残る目を取ることができれば勝機も見えるが、一人になった今、その間合いに再び入り込むことがなにより困難だった。
飛竜もいない以上、撤退離脱も難しい。
並んで光る牙をぎりぎりの力で押し留める。しかし失血で目の前が霞んだ時、高い金属音と共に槍が弾き飛ばされた。
諦めるつもりは毛頭ない。すぐさま腰にかかる長剣を引き抜く。が、不意に膝が折れた。
出血の多さにこめかみが痛む。
頭上から振り下ろされる鋭利で巨大な爪を見て、男はとうとう目を閉じた。
続いた金属音は悲鳴のようだった。
音と、来るはずの衝撃が来なかったことに驚いて男は目を開ける。目の前には振り下ろされた爪を槍で受け止め、更に弾き返した人物がいた。
肩より少し長い、僅かにくせのある黒髪。
女性。
その細い体のどこにそんな体力があるのかというくらい見事な動きを見せ、巨大な魔獣を牽制している。
彼女自身に注意を引き付ける。誰も倒れていない場所に魔獣を誘導する。自分たちが巻き込まれてこれ以上攻撃されないようにしてくれているのが知れる。
動きに思わず男が見惚れていると、彼女が叫んだ。
「あなたはまだ動けるの!?」
芯の通った凛とした声だった。
傷は負っているが、四の五の言える状況ではない。男が慌てて頷くと、魔獣の背に槍を突き立て、それを軸にその巨大な背にひらりと乗った彼女から指示が飛んできた。
「倒れてる人を集めて! 飛竜に乗れるんでしょう、使って!」
男は言葉を失った。
飛竜には乗ってきていない。一瞬、嫌な汗が背中を伝う。まさか彼女が男の飛竜を当てにしていたとしたら、死人が一人増えるだけだ。
魔獣は背に乗った彼女に気を取られている。考えている暇はない。
とにかく部下たちを言われた通り一箇所に集めようと踵を返した時、男は息を呑んだ。
僅か離れた場所に、飛竜が静かに佇んでいる。手綱と鞍付き、明らかに飼い慣らされている。先の言葉からも彼女の飛竜であると考えるのが妥当だ。
飛竜は通常その主人にしか従わない。
下手に自分が主ではない飛竜に近づくと噛み付かれることもある。経験が男に二の足を踏ませるが、しかし今は緊急事態だ。ましてこれだけ大怪我を負って、噛み傷の一つや二つ増えたところでなにが変わる。否、変わらない。
ままよ。
腹を括り、男はいっそ堂々と正面から手綱を取ってその背に跨った。すると飛竜はおそらく本来の主である彼女が乗っているのと同じように、男の手綱から出される指示に素直に従った。
一人一人、部下を回収して一か所に集めていく。ほぼ全員の意識がない。たった一人、最後に残った副官のアンリだけが苦しげな息を吐きつつ問いかけてきた。
「……あの人は?」
声が掠れている。折れた肋骨が刺さりでもしたか、肺をやられているようだ。
「分からん」
答えた時、男の口から血の塊が溢れ出た。熱い。それを見たアンリも辛そうに顔を歪め、そこで目を閉じた。
彼女は何者なのか。
敵なのか、味方なのか。魔獣の正体は何なのか。助かるのか、ここで死ぬのか。なにもかもが分からなかった。
全員を集め終わったと同時、彼女がほど近くに着地した。魔獣が暴れる力を利用して、一息に飛んできたようだった。その身のこなしに嘆息しかけたが、男が本当に驚いたのは次の瞬間だった。
彼女がなにごとかを手短に呟く。
男に向かって手をかざす。周囲に薄く輝く、赤の壁ができた。透き通っていて向こうが見える。図ったように飛竜が舞い上がり、彼女を空へと連れ去った。背後に迫っていた魔獣の爪は空を切った。
当然、振り下ろされた爪は男に向かう。
咄嗟に目を瞑った男は、衝撃を受けないことにただ呆然とした。
自分たちを包み込んだ壁が全てを防いでいた。儚げな見た目に反してかなりの硬度らしい。魔獣の爪も牙も硬い音と共にはね返されている。魔獣は怒り狂い激しく攻撃を加えるが、壁はびくともしない。
その時、上空からあの女性が降りてきた。
かなり高い所まで昇ってから飛び降りたようだった。手の中に光っているのは長剣だ。
見る間にその姿が大きくなり、狙いが魔獣の首だと男が理解した瞬間、馬の胴ほどもあった魔獣の首が落ちた。同時に、盾となっていた光も四散して消えた。