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竜の負う十字架  作者: 東 吉乃
第一章 真紅の出逢い
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01.始まりの朝






 終わりは随分と呆気なかった。


 五年もの間秘めた想いは親友の一言で簡単に区切りがつき、しかしアリシアの目から涙は一粒も零れなかった。


「ごめんね、アリシア。本当にごめんなさい。まさかこんなことになるなんて」


 そこまで言って、アリシアの親友は俯き肩を震わせた。

 両手を握りしめ口元を覆う。固く瞑られた両目は、恐ろしい何かを二度と目にするまいとしているかのようだった。


 こんな時、どんな言葉をかけたら良いのだろう。


 親友から明かされた事実に、アリシアの心はただ痺れていた。感覚がない。咄嗟に出る無難な言葉を持ち合わせていなかったアリシアは、無言のまま空を見上げた。

 夜明けだ。

 地平線から静かに太陽が昇る。東が暁に燃える。西の果てはまだ濃紺に眠っている。太陽は金の光を放ちながら、周りを紅に染め上げる。音は何もない。ただ太陽がそこにあるだけだ。

 緩やかに吹く風は冷たい。

 薄着のままでアリシアをずっと待っていた親友は、きっと身体の芯から冷え切っているだろう。

 けれど彼女は寒いなど一言も漏らさない。何よリこの事実を彼女自身で、他の誰に明かされるより早くアリシアに伝えたかったと、ただそれだけを震える声でアリシアに語りかける。

「昨日の夜、父さんと母さんに呼ばれたの。大事な話があるからって。私、なんの話かも知らないまま――まさかギルと一緒になれだなんて。断ったの。最初は嫌だって言ったわ。だってギルと結ばれるのは、ギルが好きなのは本当はアリシアなのに」

 それなのに、この集落の数少ない大人たちは全員、ギルと親友が誓いを交わすことに頷いたという。

 式は一ヶ月後だ。

 春の佳き日が暦から見定められ、それが刻限となった。

「大事なことだっていうのは分かってる。ここにはもう他に若い人間がいないから、アリシアを守る為にはこうするしかないって。でもそんなの、周りからなんて絶対に決められたくなかったのに! アリシアの気持ちだってあるのに……!」

「ね、ヘレン。落ち着いて。そんなに泣かないで」

 親友のあまりの慟哭に、そこでようやくアリシアは声を出した。

 次々とあふれ出る親友の涙をそっと拭う。それから、羽織ろうと手にしていた外套をヘレンの肩にかけた。

 普通の娘、華奢な肩だ。

 毎朝こうして外に出て集落の外を見回る――魔獣と戦うアリシアの張った肩とは、全く違う。


 互いの違いなど生まれた時から明白だった。


 アリシアはかつて大罪を犯した「竜の一族」の末裔だ。

 ひっそりと生まれ、今日に至るまでその存在を秘匿されてきた。ヘレンはそんなアリシアの為にこの隠れ里で生まれ育った、数少ない若者の一人なのだ。

 アリシアを守る為に、周囲が固く団結する。

 この隠れ里はずっとそうしてきたし、その為にここで人は生きてきた。だからこそ、今回の決定に口を差し挟む余地などない。

 そこにどんな感情があったとしても、アリシアがここで生き続ける限りは、覆してはならない流れなのだ。

「泣かないで、ヘレン。大丈夫。ギルのことはそんなんじゃないの。なんて言えばいいのかな、憧れてたのはきっとそう。この里でたった一人のお兄さんだったわけだし。でも多分、恋とかじゃなかった」

「――どうして?」

「だって、好きかどうか分からないもの。ヘレンのことは今ここで好きだって言えるけど、ギルはって訊かれたらすぐに答えられない。大切ではあるけど」

 そんなあやふやな感情などあってないようなものだ。

 アリシアは小さく笑いながら、まだ零れ落ちるヘレンの涙を拭った。

「ね。だから大丈夫。それにね、ギルが本当に好きなのはヘレンだから」

「そんなこと」

「小さな頃からギルの口癖だったよ。『自分がヘレンと一緒になって、絶対にアリシアを守るから』って。私はいつもありがとうって言って、でもギルは『恥ずかしくてヘレンにはまだ言えてないけど』って照れくさそうにしてた。だからヘレンが知らないのは当たり前なの」

 誰かの抱いている想いは、知っているからとて軽々しく口には出せない。


 こうなることは最初から決まっていた。

 目を逸らし続けていた現実も、そうと決まればこれ以上逸らしようもない。

 アリシアの胸はまだ痺れていたが、一息にざくりと断たれた心はいっそ清々しくもあった。そうして密かな決心がアリシアの中に宿る。いい加減、潮時だろう。


「――ようやく約束の日が来るのね。決めた。私、レベノスに行ってくる」

「アリシア? 急にどうしたの。駄目よ、まだ食糧はあるわ。レベノスなんか行かなくていい。もしも見つかったら」

「違う。食べ物じゃなくて、ヴェールを買いに行くの」

「ヴェールって」

「花嫁のね。ヘレン、あなたへのお祝いに私から贈らせて。忘れちゃった? 約束したでしょう、その時が来たらヴェールは絶対に贈り合おうねって」

 それは小さい頃の約束だ。

 なにも知らなかったアリシアとヘレンは、本で読む物語に心を躍らせ、いつか誰かと結ばれるであろうその日を語った。隔絶されたこの隠れ里では、本でしか外界の様子を知ることができなかった。

 幼い二人はなにかの本で、ヴェールは花嫁を守るものだと読んだ。

 なんて素敵な話だろうと二人で目を輝かせ、そして約束したのだ。互いに誰かと結ばれる日が来たら、必ずと。

「本当はヘレンみたいに自分で織れたら良かったんだけど……どうしても上手くなれないままで時間切れになっちゃったね。ごめん」

「そんなこと……! だってアリシアはいつも忙しかったから、そんなことまでやってたら倒れてたよ!」

 ヘレンがアリシアの手を掴んでくる。

 きめの細かい肌、柔らかい指先が、アリシアの手に出来ている硬い剣だこをそっと撫でた。

「アリシアのお陰で、私たちはこんな辺境でも暮らしていけるのに」

「逆だよヘレン。私が皆に守られてきたし、私がいなかったら皆はこんな辺境で暮らす必要なんてないんだから」

「……アリシア?」

「楽しみだね、結婚式。ねえ、私レベノスで一番綺麗なヴェールを見つけてくるから、楽しみに待ってて」

「アリシア」

「ほら、もう戻って暖炉に当たって。私も見回りに行く時間だから」

 そっとヘレンの背を押す。すると彼女は戸惑いを僅かに残したまま、しかし「そうよね、こんな時間にごめんなさい」と踵を返した。

「レベノスから戻ったら教えて。話したいこと、まだ沢山あるの」

 後ろ髪を引かれるようにヘレンが振り返ってくる。

「うん」

 アリシアは頷きながら手を振り、後ろ髪を引かれる様子の親友を見送った。


*     *     *     *


 心に靄を抱えたまま、アリシアは歩いて村の外へと向かった。

 大森林の端に沿うように隠れ、存在する故郷。人は数えるほどしかもういない。家も同じだ。かろうじて本来の役割を果たすのはもはや数軒で、外周に近くなるほど朽ちた家ばかりになる。それらを横目で眺めながら、周囲に魔獣の気配がないかを探る。

 それがアリシアの日課だ。

 自然豊かなこの大陸は、野獣だけではなく魔獣も殊の外多い。少しでも気を抜けば人の集落などすぐに侵食されてしまう。

 近辺をくまなく見て回ると小一時間はすぐに経つ。

 その終わりにアリシアはいつも見張りをしている木に登り、太い幹に背と頭を預けた。

 夜明けが進んできている。

 地平線から静かに昇る太陽を見ながらアリシアはうなじに手を回し、細い鎖の留め金を外した。


 掌に収まるのはロケットペンダントだ。


 蓋を開けると、色褪せた写実の絵が顔を出す。

 それは旧世界の技術が使われているそうで、まるで鏡に映したかのようによく姿を捉えているらしい。そこに描かれた赤子は今日も屈託のない笑顔を向けてきた。

 金色の小さなペンダント。

 表に優美な装飾が施されている。飛竜の翼が象《 かたど》られており、今にも空へと飛び立ちそうな躍動感が見て取れる。

 残念なのは、翼だけの装飾であることだ。見る度に不思議に思う。頭部まで彫り込まれていればより完成された美しさが際立つだろうに、なぜ翼だけを敢えて選んだのだろうか、と。

 アリシアの疑問に答えてくれる相手はいない。

 このペンダントの持ち主はとうの昔に死んでいるからだ。

 アリシアが一歳の時だったと聞く。絵の中で笑っているのは過去のアリシアで、物心がついた頃に母の形見としてこれを受け取った。


 実の両親が死んだ本当の理由を、一体どんな言葉で問えるというのだろう。


 綺麗な、あるいは無難で迂遠な言葉か。けれどそれではアリシアが知りたい真実はきっと聞き出せない。

 ならば鋭利な、直截かつ剥き身の言葉か。しかしそれは問い質す相手を必ず傷付けることが分かっている。

 今日も答えは出そうにない。

「アリシア!」

 と、木の下から声が掛かる。物思いを切り上げ、アリシアは再びペンダントを身に着けた。

「はあい?」

「下りておいで。様子がおかしい」

 アリシアが下を覗き込むと、先に付近の見回りに出ていたデールが戻ってきていた。

 見上げてくる顔は曇っている。爽やかな朝とは正反対だ。

 不穏な空気を感じ取り、アリシアはそれまで座っていた木の枝から飛び降りた。

「なにかいた?」

「姿は見ていないが、来そうだな」

 答えたデールが難しい顔をしていた。壮年ながら逞しい体躯を持つ彼は、アリシアの育ての親だ。

「ベルスを呼んでおいた方がいいだろう」

「……うん」

 アリシアは指を唇に当てた。春とはいえまだ空気の冷たい朝、手がかじかんでいてうまく動かない。一度目は鳴らず、二度目で甲高くほんの少し掠れた音が響いた。

 ここは森の終着だ。

 海から吹く風が強く、鬱蒼と茂る大森林もこれより先には広がらない。森を背に遥か南を見遣れば海が見える。穏やかな波、透明で深い碧だ。

 見入っていると、やがて力強い咆哮が聞こえた。

 目を転じれば、森の奥の上空から近づいてくる一頭の飛竜が見えた。翼の色は夜明けの空の澄んだ青に近い。母の飛竜だったという。こちらもペンダントと同じく、物心ついた時からずっと一緒にいた。


 理由は、――その理由を、これもアリシアは知らない。


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