沼には……
――二年前・裏山。
暗闇の山中、二つの愚者火を思わせるような光が揺れていた。
「ヨハン、あとどのくらいだ?」
「もうすぐだ」
猟師のような出で立ちの男は、近くにある傷の付いた大木の幹を見て答える。
「しかし、夜の山ってのはどうも好きになれねぇな……気味が悪い。そのうえ、こんなもんまで持たされちゃ……」
もう一人の男は、自分の胸元に忍ばせた革袋を触った。
「考えるな。俺達は言われたとおりにやればいい」
「……そうだな」
「ほら、見えたぞ」
茂みを抜けると、二人の前に大きな沼が現れた。
水面には波紋ひとつなく、まるで鏡のように夜空の月を映している。
ヨハンが「よし、条件通りだ」と言って、もう一人に目で合図を送った。
「あ~ぁ、折角のダイヤがよぉ……本当にこんなんで呪いが解けるのかねぇ……」
そう言って、男は胸元から小さな革袋を取り出す。
革袋には長い紐が巻かれており、男はそれをくるくると解くと、沼の中央に向かって勢いよく放り投げた。
ちゃぷん、と水面に波紋が走り、小さな泡が浮かんだ。
握っていた紐をくくりつけた小さな木の杭を、近くの岩陰に刺して、その上から土をかぶせた。
「へへ、これでわからねぇな」
男がパンパンと手の土を払う。
「よし、毎週のチェックは欠かすなよ」
「なあ、ほんとに毎週見に来ないと駄目?」
「たったそれだけのことで、普通じゃない報酬をもらえるんだ。散歩だと思って我慢しろ」
「そりゃそうなんだけどさ……」
「三年の辛抱だ。そうすりゃ、綺麗さっぱり呪いも消える」
「ほんとかよ……そもそも、呪いなんて俺は信じないけどな。カミール様も大袈裟――?」
ヨハンがもう一人の男を殴り飛ばした。
「……ってぇ! なにすんだっ!」
「名を出すな。そんな基本も忘れたかベイツ? それとも思い出させて欲しいのか? 忘れるな、失敗すれば呪いは俺達に向く」
ヨハンは感情の隠された瞳で男を見据える。
「わ、悪かった! この通りだ! つい、調子にのっちまった……許してくれ」
ヨハンは青ざめた男に手を差し出す。
「わかったのなら良い」
ぐっと男の手を引いて立たせると、ヨハンは周囲を軽く見回した。
「長居は無用だな」
「そ、そうだな、さっさとずらかろうぜ」
二人は沼に背を向け、来た道を引き返していく。
沼の月は波紋に揺れていた。
* * *
「今のところ変わった様子はないな……」
山道を歩きながら、ハロルドはしきりに周囲を見回している。
「あんれ~おっかしいなぁ……。いつもなら、こう、シャーって牙むいた蛇が出てきてるんだども……。それに、今日は毒虫もいねぇだ……。こんな山は久しぶりだで」
先頭を行く旦那さんが不思議そうに言った。
首を傾げながらも、どことなく嬉しそうだ。落ち着いた山を見て喜んでいるのだろう。
「こういう日もあるんですね、よかったです」
さすがに叔父様の力が、虫や蛇にまで及ぶとは意外だったけど……。
んー、でも、旦那さんは、今まで見たこともなかったって言ってたわよね。
ということは、虫や蛇も障りの一種なのかも。
だから、叔父様の周囲には出てこられないのかしら。
「フレデリカ、足は平気かい?」
「ええ、大丈夫です。靴を履き替えましたから」
「ふんっ、感謝しろよな。俺がわざわざ町まで戻って買ってきてやったんだ」
ハロルドが憎まれ口を叩く。
「ええ、そうね。ありがとうハロルド。あなたのお陰よ」
とびきりの笑顔で返すと、ハロルドは急にそっぽを向いて「わ、わかりゃいいんだ……わかりゃ……」と消え入りそうな声で言った。
「お、見えてきた見えてきた。先生方、あれがうちの畑に水さ引いてる沼だ」
旦那さんの後に続き、坂道を上りきると視界が開けた。
「おぉ、なかなか神秘的な場所じゃん」
「思ってたよりも綺麗ね」
「うん、絵に収めたくなる」
叔父様は、両手の親指と人差し指で四角い窓を作り、構図を決めている。
「叔父様、絵も描けるのですか?」
「まあ、趣味程度だよ。時間だけは余っててね」
「おい、調べなくていいのかよー」
ハロルドに言われて、私はすっかりピクニック気分になっていたことを反省した。
さてさて、どんなものかしら。
私は少し眼鏡をずらして沼を視た。
「ひっ……⁉」
思わず後ずさり転びそうになる。
「フレデリカ!」
「あ、すみません叔父様、大丈夫です。ちょっとバランスを崩してしまって……」
「足場が悪いからね、気をつけて」
「はい……」
もう一度、沼を視る。
ああ、これは駄目なやつだわ……。
沼を覆うように、真っ黒な大蛇がとぐろを巻いていた。