光差す部屋
光差す部屋
徐々に強くなる光が瞼にあたるのをうつらうつらとしながら僕は感じた。もう目覚めなきゃいけないのはわかっているのだが、体はまだ惰眠を貪りたいと訴えている。
カーテンが開かれる音と共に柔らかな日差しが僕の瞼を起こそうとする。三十代もあと数年で終わり、若いというには老いているように思うし、老いているというにはまだまだ若い。
「早く起きて。お寝坊さん」と彼女の声が響く。
僕は寝ぼけ眼を擦りながら、ひとまず起きることにする。ゾンビウォーク並みのけだるさで這うようにしてリビングへ。
彼女は容赦ないからこのままだともっと直接的な起こし方をする、だから、起きなくてはならない。
きっかり7時半、オーブントースターからはパンがトーストされていい匂いを振りまいている。
オムレツはいい具合に焼けている。
僕は朝食をあまり味わわずに口の中に放り込み規則的に咀嚼する。
最後は牛乳で流し込む。そのルーチンを何回か繰り返して朝食はおしまい。
プロジェクターにはニュースが映し出され、気になるものがあれば僕が見出しを読み上げて詳細を表示させる。
毎日チェックしているニュースは退屈で退屈でそれでも正気を保つには必要な儀式だ。
洗いたてのシャツ、スラックス、決められたようなお仕着せはこの時代にも健在で、はるか昔二十世紀と同じような一式に身を包む。
僕はいつものように「行ってきます」と声をかけるとベルトコンベヤに乗せられるようにして地下鉄の駅を目指す。
出社なんてしてどうするんだといわれることもあるが、コミュニケーションにおいて対面であることは重視される。
他人と違う自分、相手に自分の有用性を証明しなければならない。機械と違うことを証明する必要がある。
機械のように生きながら機械でないことを証明するというのはなかなか矛盾だと僕も思うけれど、僕は相変わらず同じ仕事を続けている。
ユーザのニーズに答え、疑問と問題を解決する。
お前とAIやBOTとどう違うのかと問い続けるのはずっと変わらない。もしかしたら対応している相手はいないのかもしれないしいるのかどうかわからないなんてことは日常茶飯事だ。
僕らの多くはユーザやカスタマーをサポートする、機械にできない揺らぎとひらめきが僕たちをこの席に縛り付けている。
僕は電車内で端末に表示された広告やレビューやレコメンドを流し見しながら、彼女の好みそうなものを見つけるたびに二人だけのプロジェクト管理SNSに転送する。
どこへ行こうとか、ここのカフェがおいしそうだとか、限定メニューだとかそういう些細な事。
彼女からは秒で星やハートが飛んでくる。
路傍の花や空や目についた色々なものを僕は彼女に送る。
仕事場につくと個人ブースに入ってあとは電話(なんと絶滅の危機を免れている!)とメールともろもろの手段でもって僕は社会から求められるロールを完遂する。
タスクを消して消して消して消して、の繰り返し。
提案と提案と提案とその間にまた別の相談を受け、コミュニケーションすることは仕事をすることと同義だ。
彼女から「今日は花を受け取ってきてね」とメッセージ。
僕は帰りに行きつけの花屋に寄ると、店員にいくつかのパスコードを伝え生花を受け取る。
彼女と毎週花束を買ってこようという約束をして以来、ずっと僕の続けている日課である。
花の写真を彼女に送る。「もう少しで届くよ」とメッセージ付きで。
花のある暮らしがしたいと言っていた彼女のためのささやかな贅沢だ。
「花のある暮らしっていいでしょう?」
そう笑う彼女に僕は逆らえるはずもなく。
花は咲き、萎れ、枯れていく。季節も巡っていく。
「ただいま」家に帰ると黒猫のアーノルドは帰宅した僕におやつをねだる。だんだんと老いてくる愛猫の甘え鳴きに僕は弱い。
僕は彼女より甘いからついついアーノルドにいくつか猫用のお菓子をやる。
ふわふわとした毛並みが僕の足元にまとわりついてくるのが僕の帰宅時の恒例だ。温かいぬいぐるみのようなその姿はいつだってかわいい。
すこしだけ撫でてやるとまたにゃぁと甘えて鳴いた。
昔から人に話しかけるように鳴くやつなのだ。
僕は花束を花瓶に生けるとそっとリビングへ入る。
食欲はあまりない。
「今日は何のテレビ?」
「配信の音楽番組もいいけど、お気に入りのドラマが新しいエピソードきているよ」
恒例のテレビタイム。ソファで猫と彼女とゆっくりした時間を過ごす。
それから少しの持ち帰り仕事。夜が更けてくると彼女の声が聞こえる。
「もうそろそろ寝ないと、ね」
「わかったよ」
大抵、押し問答になったら根負けするのは僕の方だ。
「おやすみ」僕が言うと彼女も「おやすみなさい」と電気を消した。
一つきりのベッドに寝るのは僕と黒猫のアーノルドだけだ。
僕は彼女のおやすみを聞くと目頭が熱くなる。
僕の妻が亡くなって5年経つ。僕が寂しがりやだからと家のいたるところに仕掛けを施して、それこそ二人だけのメッセージツールにもたくさんの言葉やリアクションを仕込んで。
残り時間を僕にくれた。
「愛してる」
変わらない彼女の声が響く。
「僕もだよ」
不意に彼女が何食わぬ顔で戻ってきたりしないだろうか。僕に「アーノルドはマッチョ猫になる予定なんだから太らせちゃダメ」とか言ってくれないかとか、そんな気持ちで眠りに就く。
都合のいい幻想を抱きしめて眠っても朝起きると僕は一人だ。
「アーノルド、ほら寝るよ」
アーノルドはたまに部屋の隅を見つめている。彼女を見つけた時のようににゃあと鳴いた。
明日になったら僕はすべてのデータを消せるだろうか。
いや、もう少し、もう少しだけ。
ふと、瞼を優しい風が撫でていった。
きっと明日も彼女が僕を起こすだろう。
僕が寝坊しないようにカーテンを開けてくれる。
僕はいつか覚める夢と知りながら微睡に揺蕩う。