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れいに。

作者: 酒若芽生

 雨足は激しくて、日常はまるで夕立のように過ぎていく。

 水たまりを引き延ばした水平線の突き当たりにまみれた、空っぽの集積の上に私はある。踏みしめたのは区分の敷石、進歩の副産物。水面はただ不規則に、無数の足に打たれている。私はその、上を歩く。


 太陽は見えない。体に疲れは見えないのに、何かが足をからめ取ろうと引きずられているようだ。

 小さい頃にはなかった公園、道の溝にそった木の柵、幼いころの、今亡き遊び場。誰も私を見ちゃいない。ただ私が勝手に見てるだけ。見て、評価して、どうもしない。見捨てるだけ。それだけ。


 狭い、せまい世界。グレーで、ただ灰色。どうにも擁護のしようがない。わたしと一緒だ。

 こんな世界で何をしろっていうんだろう。生まれた時から教わってきちゃいない。人助けも、親切も、結局何になるんだろう。幸せなんて要るのかな。私なんかに。


 耳元ですら雨音がする。囁くように。


ただ「言われた通りに生きてりゃわかるさ」なんて、大人ぶって。……私が子供ぶってるからって。純粋な振りしてるからって。


 人の人生は大方否定で出来ていると思う。少なくとも、世界の人口のたった十割の人間の話だけど、その中に例外はないと思う。人並み以上に、それでいて尖ることないのように、そんな人生の私でさえも、こうやって、黙って、腐って生きているんだから。


 否定だ、否定か。見上げたら見上げただけ低く感じる空を、ただ「低い空」って言うかんじ。こんなみだりな空かって、つまるところその上には空があるんだから。結局のところ人間は底なしにしょうがないってことなんだろうな。こんな調子で。


 自宅の前で立ち止まる。この表現も身の程知らずな感じがする。ただ、なんとなく、ただそれだけで。


 「た……ただいま」


 鍵が閉まっている。慣れない。いつも。


 「ただいま……」


 靴のない玄関。いつものことが、いつも通りに飽和している。風に当てれば消えてしまいそうな、いつもだ。

 たった一人の場違いに飲まれる。玄関に立っただけで、一気にその場違いに飲まれてしまう。それだけでも、それでも悪くないのかもしれない。


 生まれてこのかた十六くらい、物ごころと言われる何かが私を蝕んで、ちょうど十年といった齢。まだぶかぶかで、着られるとはいえ、傘嫌いでクリーム色の合羽で外を歩くってのもどうなのか。個性と言えば聞こえは少しはマシになるだろうか。


 一度閉じたドアを開けて、合羽をはたいて、畳んで、入る。それがどれだけ重かったのか、私の後ろに歩いていたのはまるで、動かなくなった鳩の翼のようだった。飛べはしないけど、今はただ、体は軽い。


立ち止まって初めて気づくこともある。ふくらはぎが悲鳴を上げてる。私にはなにもしてあげられないけど。しいて言えば、一緒に歩いてあげるくらい。


一人というのがこうまで自由で寂しい物なのか。そこには何もないという事実しか拾い上げられないくらい平面な、砂浜のような静寂がある。雨の降る砂浜。水平線も、太陽も、誰も見えない。ただの、グレーに塗られた白い砂浜。


ここは言うほど狭くない。こんなに広い世界にいるのに、大した夢もありはしない。少なくとも、独りぼっちでいるうちは。


手を洗う、制服を片付ける。ある程度適当にことの流れをくるくる回す。冷蔵庫の卵をボウルに入れて、低塩の醤油と砂糖を入れて……入れすぎて。フライパンに投げ込んで、はしを四角く折って、丸める。米をよそってお茶を出して、孤独に隠れた何かをかみしめるだけ。俗にいう、孤食。バランスも悪い。


布団に隣接した机の上のノートパソコンに向かう。時刻は六時。全身が、鉛というより立つ水銀。揮発もする元気さえもないし、おとなしく無害なだけの銀の水。

電源を入れて数分待って、ソフトの起動にさらに数分。その間、なにもしないで無駄に生きてる。こんな人間、ごまんといる。


……小説。それも執筆。私に執着する唯一のツルみたいな忖度。いわゆる趣味というものだけど、どこに活かせるわけじゃない。対して上手いとも思えない。


だけど書く。人生と私を懸けて書く。それが他より好きだからじゃない。それしか好きじゃないから書く。それも、書くことが好きだからじゃない。書かなきゃ何も好きじゃなくなる気がするから。

部活で出すのの目標は、いつも一万文字にしてる。文庫本の一冊だけでも十万文字だし、ミステリーなら十四万文字近く必要になってくる。私には、関係ない。それだけ、それだけなの……。



「俺そんな言うほど量は書いてねぇんだよな」


友達、若山君、若山そうは君。私の小説を書く理由のひとかけら。小説も、絵もうまくて、なにより色々あったかい人だ。


「集中力があるんだよ、きっと。だって若山君賢いもん。私なんて、テストとか、ことあるごとにいつも補習だよ」


外の空は青色。淡くて、しんみりした紫も入ってる。ところどころ、赤も見えるような気もする。部活の教室に、二人。別々の、机の上に、座ってる。


「俺は……いや、俺は言っても中の上だろ」


「そんなことないよ。クラスの方の友達、仲良い子達みんな一緒に補習行ってるもん」


「類は友を……つまり、賢くたって運が悪けりゃ補習あるってことだろ。なんかもっと賢い奴とか、進学対策用の補習とかあるんじゃねェか?」


「うーん、分かんない」


「そか」


彼の表現は柔らかい。もちろん小説の話なんだけど、彼のイラストも、光とか、色とか、色々と神秘的で、純粋にただすごい。牛乳を入れすぎたコーヒーを上品にタルトした感じ。……今回の例えはちょっと失敗したかも。


「……小説、できた?」


「……ああ」


おっと。


「…………」


「……できてないんだな?」


「……うん」


おっとっと。

やっぱり彼は優秀だ。友達と呼べる人の中で、ほんとの意味で尊敬できる人って、ほんと彼くらいじゃないかな。部活の中で考えても、表面上だけじゃ私が一番に小説に熱心だし、純粋に文の量も多いし……やっぱそのくらいか。じゃあ私が勝手に誰も尊敬する気がないだけかな。


「どうするよ。締め切り一週間後くらいだぞ?」


「十日後ね。いや、ほんとにまずい」


丸いアナログ時計は五とゼロを指して回っている。秒針は銀色で、たぶん誰が見ても見えない。


「どうしたんだろな。いつも一番なのに。ネタが浮かばないってことなのか」


「たぶん……昨日もちょこちょこ書いてたんだけどね」


「わっかんねェな。歩けば進むのが人間なのによ」


「うん……やっぱり凄い」


執筆が、歩くのと一緒なのだろうか。たぶん、暗記問題なんかより読解の方が疲れるのは、私がそれが苦手だからってだけじゃないと思う。


「え?」


「いや、なんとなく」


今日は何だかつま先を段差に取られがちだ。スムーズに歩かせてはくれない。話がトントン転げまわってる。私は座って止まっているのに。


 「なんか……」


 「……ん? どうしたの?」


 「……いや、なんとなく。絵、描きたいなって言おうとしたけど、絵、描く人間じゃねェしなってな」


 ほんとだろうか。彼が小説で「いや、なになに」と言うときは、絶対に何かを誤魔化しているときなんだけど。


 「絵は昔なら書いてたんだけど……」


 「昔“は”の方が良いな。絵なんて辞めて良いことないぜ。描けたら描けるだけアドだからな」


 「う、うん。なんか……自分の絵が嫌になってね」


 「……そうか。……ああ、それならもう、いや、それでいい」


 分かってる。小説しか書いてきてないから。嫌んなった時、その時しか、自分の直せる“違和感”に気付けないってこと。めんどくさいし、どうしようもないけれど、その不快感だけが糧だったりすること。詰まる所、私は逃げてるだけってことも。


 「……でも、楽しいよね。描くのって。実際、描くこと自体は辛いけど、描いてた時は楽しかったって思えるもん」


 「……そうか」


 若山君は、立ち上がった。机はガタッと音を立てた。


「……俺はな……」


いつの間にか雨音を奏でる窓枠に、彼は手を乗せた。私は立ち上がろうとした。それはまるで、風鈴のような、不鮮明なガラスの影みたいな、大した輪郭も見えない、そんな――。


 「あんたの小説を見てると、辛くなんだよ」


 ――そんな何かがそこにはあった。そこにだけ、は、存在した。何も、それだけ。雨音、だけだった。



 「小説を見て、辛くなる、か」


 色で言うところの灰色の声。どこから出てるのか分からないくらい、小さいけれど、世界を揺らすような声。さすがは音楽の人間なだけある。昔はもっと、熱かったけど。


 「うん……」


 「そいつはなんだ、お前とおんなじ小説家なのか」


 彼は凪一郎おじさん。私のおじで、私の目からは体のない私のお父さんの弟にあたる、人。元は仲間を引き連れて国内を回る、そこそこに有名なバンドのボーカルだった人だ。詳しい話は知らないけど、おじさんは「バックが死んだ」とだけ言っていた。


 「一応……普段は絵を描く子なんだけど」


 「うーむ、何でだろうな。ただのろくでなしってことじゃ……いいや、むしろそうならありがたいな」


 「え? ……どういう?」


 おじさんは、答えない。答えずに、カラになったビールの缶を寂しそうに眺めている。瞳は雨の夜空みたいだ。少なくとも、乾いてはいるけど。


 おじさんは見上げた。なで肩で猫背、長い首、細身。天井には露骨に点滅する蛍光灯。気温は暑くないってわけじゃないけど、風が強くて暑くはない。歴史の絡んだおじさんの家だ。ほとんどがコンクリートか金属でできてる、廃墟って感じの、小屋。


 「……コンプレックスだ。よくある話だ」


 「……コンプレックス?」


 「コンプレックス。いわば意識下のサガって奴だ。そいつはそいつの問題だ」


 おじさんはまた、空き缶に視線を落とした。いや、足元の瓶を見てるのかもしれない。ワンカップ。


 「……わかんない。何も」


 「分かるさ。お前は。少なくとも、分からなくたって持ってるもんだ。何かしら創ってる人間なんだろ」


 コンプレックス……。サガ。……そのうち解かるかな。


 壁には、紫色の『NAGI』の名前のあるポスター。おじさんのだ。私は触ったこともないマイクスタンドを握ってる。角がやつれて、揺れている。


 「…………帰るか?」


 ……すこし、考えようかな。


 「……うん」


 「……よし、じゃ行くぞ」


 おじさんは膝を叩いて立ち上がった。



 盲目も悪くないかもしれない。ふいにそう思った。なんでだろう。

 ノートパソコンの右下の時計が十時を指してる。指してるというのは違うかもしれない。示してる。

 玄関のドアが開いた。お母さんが帰ってきた。お母さんは、私が小学一年のときにお父さんが死んで以来、ずっと私を一人で育ててきてくれた。いや、育ててきてくれてる。


 「お帰りなさい!」


 できるだけ、元気に言う。ほんとは締め切りに追われてこんなテンションじゃないんだけど、現実は小説よりも、色々と濃いから。


 「ただいま。ごはん食べた?」


 「うん!」


 お父さんが、まだ居たころに建てた家。その空間を、大いに無駄にしてしまっている。ちょっとお洒落な平屋の家。昔飼ってた四匹の金魚は死んで、オウムもいとこの家で死んだ。五匹の家はこの家の中で、ここから見える位置に置いてある。あっても何にもならないのに。


 「何食べたの?」


 「卵と、ごはん」


 「もう、もっと食べていいのに」


 「太るでしょ」


 お母さんは、微笑みか、哀しみか、眉をしかめて洗面台へ向かった。

 ……お母さんと話すのは、つらい。ほんの少し、いいえ、かなり、つらい。時がたつにつれて、お母さんは疲れているように見える。


 一人で、無茶してるんだ。おじさんや、色んな親族のみんなは支えてはくれるけど、やっぱり、最後は自分で働いてる。朝から近所のショッピングモールの弁当屋さんに行って特に冬には夜中までモールで走り回ってる。今は夏だけど、それでも、暑いし、どんなに良く見積もっても年齢はおばさんなんだ。つらいに決まってる。


 ……私のせいでもあるんだ。高校の費用はまったく持って安くない。それに、私の年齢も、もう小さくはない。


 ……執筆、だよ。そう。私はやらなきゃいけないことがある。雨足だって言っていた。合羽のフード越しに「言われた通りに生きてりゃわかるさ」って。そんなもん。そんなもんなんだ。


 ……そうだよ。その通り。でも逃げてる。お母さんは、私が小説を書いてる時、話しかけない。ほんとは私は、話しかけられるのが怖いんじゃないか。卵を割る時、黄身が割れるのが怖くて、卵を弱く何回も叩いてるみたいに。そんなことしたら、絶対に細かいヒビが入ってカラが入ってしまう。それを箸で取る時、また黄身を割ってしまうんじゃないのか。……それでも、しょうがない。似たような意味で、私はマッチが使えないんだ。熱そうで、怖そうで。


 私に、お母さんは、癒せるのかな。それ以前に、どうして、近づけないのかな……。



 ……子供の頃は、私も夢があったのかな。


 もしあったなら、その夢はできれば、あの月にまで空を飛んでいくような、大きくて面白い、優しい夢であってほしいな。


 涼しい。湿度は変わらず高いから爽やかでこそないけど、それなりに、それなりの気温だ。夏祭り明けの夜みたいな。


 ……一人で月を見ている。それだけでも人間は頭を回す。


 みんなと違ってスマホはない。持ってるのは、お父さんが、いなくなった年に買った、十年もののノートパソコンだけ。スマホほどの機能もないし、デスクトップほどの性能もない。重いし、もう一つの意味でも重い。人によっちゃ、さらにもう一つ重いかも。


 そんなノートパソコンをベランダに持ち出して、凪一郎おじさんスタイルでキーボードに指を置いている。右手の下には『鈴木、私物』のレッテルが付いてる。そう、私は鈴木。鈴木凪弘の娘なんだ。…………いつも思うけど、このレッテル、貼る場所絶対間違ってるよ。閉じたら見えないじゃん。


 それに、お父さんとおじさんは二歳差だし、どっちもおじさんになるまで生きてるし生きてた。なんでおじさんが凪一郎なんだろう。


 ……まいっか。小説書かなきゃ。

 今の進捗は、一万字中、五千字弱。急がなきゃとは思うけど、ここ五日で三千字進んだんだ。ちょっと心に余裕もある。まったり行こう、着実に。嫌になったら、私はずるいから、そこで終わりだから。


 …………なんでだろうか。優れた君には私が寂しく見えたのだろうか。今日の私は、昨日の私よりも上手い。人生そのものに意味はない。作られたナイフが果物を切ることを望むか。人を刺すことを望むか……。


 君の私は、たぶん私じゃないと思う。私にあなたは分からない。わかんないんだよ。


 「あなたの私は、誰に似てるの?」


 ……月と話すのは女子のやることじゃないかもしれない。男子は強さとか優しさとかで月とは張り合わないけど、女子は色々と月と、似てるから。


 あ、でも家庭じゃお母さんは太陽なんだっけ。子供が星で、お父さんが月だった気がする。どうでもいっか。


 寒くなってきた。時間はゼロ時ぴったり。小説あるあるの家族との会話も、こんな時間じゃまずないと思う。お月様にも、おやすみ。



 「俺の名前か? お前の親父……ああ、そりゃ確かに普通はおかしいと思うだろうな」


 おじさんの家。日曜日。月見をしたのが昨日だから、まあ小説はそんなに進んでない。五百文字くらい。


 「うん。昨日気になったの。なんでお父さんのがお兄ちゃんなのに、お父さんは凪弘なの?」


 「ああ、なに簡単な話さ」


 おじさんは自分のノートパソコンに向かってる。おじさんの居場所は机の上。いつも机に座ってる。おじさんは顔だけふいに向けて言った。


 「理由なんか多分ない。てかあっても俺にはわからん」


 「え、えええ? なんで?」


 「だから、ねんだっての」


 「ええ?」


 翻弄される。こんなにくだらないのに、リアクションだけは何故かとってしまう。馬鹿と言うより、私はアホだな。


 「……ま、まあいいとして、なんで若山君はああ言ったんだろうって話だよ、本題は」


 すごいな、私。中身はこうまで落ち着いてるのに、外見はどうにも急には変わらないみたいだ。まるで車だな。……ん? 車? 食ってないから私は軽いが?


 「若山? ああ、あの、お前の小説見てると辛いっつってた奴か。いつまで引きずってんだお前。別にお前のやつが悪いとは言ってねェじゃねェか」


 おじさんがパソコンから顔を上げてこっちを見る。左手はまた、栓のあいた缶ビールに伸びている。


 「……でも若山君は小説書くのも私よりうまいし、それに……」


 「それは、そいつ自身が俺のが上手いっつったのか」


 「……そんなの言う人じゃないよ」


 少しの、沈黙。風の色もない。車の音もない。


 「…………いいか、コトダマ専門のアーティスト。今亡きナギとしての助言だぜ。俺らみたいなな、モノ創って売るような奴らは、思ってるより世界にゃそんなにいないのさ。つまり『お前は俺より下手だからテメェのソイツは面白くねェ』って言われない限りは、お前は世界に限られた、優れた人間、星なんだぜってことだ」

おじさんは続ける。


「俺の前言ったコンプレックスってのは、いわば勘違いみてェなもんだ。自意識過剰の呑気な鬱みてェなもんだ。多分そいつは、嫉妬してんだ。お前の小説によ」


 「嫉妬……?」


 おじさんに昔聴かせてもらった『それってジェラシー?』って曲を思い出した。あれはほんとにダサかった。そんなことより、おじさんもやっぱりアーティストなんだ。綺麗で、突き刺さって、否定的。それだけ、それだけ。


 「ああ、嫉妬だ。お前は多分、上手い。俺は読んだことないがな。世の中には、俗にアンチっていう奴らいるだろ。あいつらは、お前の言う若山って奴の、頭悪いバージョンみたいなとこだ。お前がどう受け取るかは知らねェが、お前は多分、人間としちゃ風に当てれば飛んでくくらいに弱い。だからお前自身、思考は否定から入るだろ。それにふつうじゃ人に言えないような、弱さって奴を、人はお前に見せるはずだ。つまり、その若山って奴は、弱いお前より、もっと弱い。そういうことだ」


 ……そういうもんか。弱さ……ね。弱さがそこに在るんじゃなくて、強さがないから弱いんだ。


 おじさんは天井を見上げてビールを飲もうとして、空っぽだったことに舌打ちした。


 「……私がいる時、いつもビール空だね」


 おじさんは目を閉じて、後ろに手をついて頭を垂れた。


 「……ああ。シメでカッコがつかねェのは昔っからだ」


 おじさんはため息を吐いた。


 「…………おじさん、その……アーティストだね」


 「昔はな。今は違う。ただのフリーのシンガーソングライターだ。もっともそんなにデカいことはしてねェが」


 「……そう、だね」


 窓からはグレーの田んぼが覗いてる。むこうの山はうっすら赤い。空が紫だから、もう夕方だ。


 「……そうだ、お前、楽器やったことあるか?」


 「……ううん、一回も。いや、小学校でリコーダーだけは授業でやったけど」


 「そうか。……小説、頑張れよ」


 おじさんはイヤホンをつけた。私を見る、私に話しかけられない、あの、私のお母さんの気持ちがほんの少しだけわかった気がした。


 ……隙間風が吹いた。雨雲のにおいがする。



 「テーマの活かし方じゃないか?」


 「テーマ?」


 若山君だ。机に向かって、スケッチブックを広げてる。そのページは、まだ白紙。


 「そう、テーマ。俺の場合、最初にストーリーを作って、その中のキーパーツに、そのテーマを埋め込むようなイメージで書いてるんだよ。絵で言うところの、キャラを描いて、後から背景だったり服装だったりで表現するイメージ。描きやすいし、勢いに任せやすいんだよ」


 「ああ、確かに、若山君の絵って色とか光とか背景とかの方が時間かけてるかんじのイメージある」


 私は、窓枠に背中を当てて、なんとなく立ってる。


 「まあそこはデジタルだからあたりまえなんだが……」


 「あれ、若山君てデジタルだっけ」


 若山君はスケッチブックに目を落とす。


 「今は、比較的。もともとアナログじゃないと絶対に描けないって思ってたけどな、やっぱりずっとやってるうちに、デジタルの利便性のが尖ってくるんだ」


 若山君は、シャーペンを回しながら言う。続けるうちに……。私はほとんど思い出せない体験だ。


 「続ける……。私、そういえば色々、すぐに新しいことやろうとして、小説くらいしか長く続けたことないかも」


 「慌てがちってことだな」


 「え?」


 「いや、小説で前使った話だ。口で説明するのはダサすぎるかもしれない」


 「いいじゃん。教えて?」


 「……ああ。えっとな……、とりあえず、人生慌ててたって仕方ないってことだ」


 「ふーん……どゆこと?」


 「つまり……色々やっても仕方ないってことだよ。絵も小説もやってる俺の言う事じゃないけどな。人生って、短い。でもだからって、いや、だからこそ色々手を出すだけ出して中途半端にするくらいなら一つの事をずっとやってた方が友達は増えるぞっていう……」


 「へええ……」


 美術系の人間ってみんな話が長いのかな。それとも相手が私だから? とりあえず、この前小説で使ったっていってるとこから、このフレーズは彼自家製みたい。


 「なんかほんとに、確かにってかんじ」


 「……聞き上手ってか人を否定、しなさすぎじゃないか」


 窓の外をうっかり眺めはじめたせいで、若山君の動きを見逃した。外は紫。ところどころ、オレンジ。


 「否定……しなさすぎってことはないと思うけど。そんなに我が強いつもりもないし……」


 「じゃあ我が強くなさすぎんだと思うぜ。まあそれが、悪いこととは思わないけどな」


 若山君はシャーペンの芯を出して、何かをスケブに描き始めた。


 「我が弱いってこと?」


 若山君は目をスケブに置いたまま答える。


 「うーん……というより、相手に合わせ過ぎって言うかな」


 もう一度窓の外を見る。風が出てきてて、空も暗い。


 「合わせ過ぎ……なんでだろう」


 「や……いや、なんでもない」


 ――優しい。ってことかな。

 …………外の空は、いまにでも夕立の一つ降ってきそうな雰囲気になってきた。


 「……雨が……降るね」


 目をちらっと向ける。若山君も、外を見ていた。


 「確かに」


 若山君は立ち上がった。席は、ガタッと音を立てた。若山君はバックを持ち上げながら言う。


 「そっちは確か、電車だったか」


 「うん。若山君は、自転車?」


 「いつもは。今日は迎えがあるから徒歩。そんじゃ、これで」


 時計は五時、五十分過ぎ。私が出るには十分くらい、早い。


 「じゃね」


 軽く、胸の高さで手を振る。若山君は手をちょっとだけ持ち上げて、背を向けて教室から出て行った。



 ――一気に静かになった。教室に二人きりだから、ほとんど音の量自体は変わんないけど。


 窓の外は雨雲と夕方で、すっかり暗くなってしまった。私も五分後には出ようかな……。紫とか、赤とかの雲がどうこうってのが小説の中の雲ってもののはず。私の上のあの雲は、灰色、暗めのグレーの色してる。


 ……教室の中に目を移す。若山君のいた机。机の横に、暗めの青の、傘がある。多分、若山君の傘かな。いつも自転車らしいから、初めて見る。

忘れてった。というのが自然かな。どうしよう。小説の中じゃ、そういうときに私は焦るべきはずだよね。さっき慌て過ぎだって言われたし。


 …………戻ってくるかな、若山君。戻ってくるなら、私がこれ持ってって、鉢合わせた時渡せばいいよね。


 雨音が、私に話しかけはじめた。


 ……よし。分かった。


 私は、窓辺の雨音から、背を離した。上靴越しに、踏みしめた。

 私はかばんを背負って、クリーム色の合羽を着て、青い、彼の傘を、手に取った。

骨が一本折れていた。


日常を書くという非日常を私は日常にしています。

伝えたい事なんて伝わらない。

あなたがどう受け取ってくれるかに、私は身を任せます。

今は疲れました。

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