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ショートショート集

ペトロフの憂鬱

作者: 菅原やくも

 ある老人が病室のベッドで寝ていた。もうじきに来るであろう自身の死を静かに待っていた。


 彼の名はスタニスラフ・ペトロフといった。政府のプロパガンダでは、ソビエトの英雄ともてはやされていた。じっさいのところ、陰では世界に核戦争にもたらしたと揶揄されることも少なくはなかった。病室に窓はなかった。ここはモスクワの地下深くにあるシェルターの中だからだった。それに地上の、外の世界はどこも暗く雪の世界に閉ざされていた。世界は核の冬に見舞われていたのだ。


 ペトロフは戦略ロケット軍の中佐で、その当時はモスクワのセルプコフ十五バンカーの当直将校を務めていた。彼の担当任務には、核攻撃に対する人工衛星を使った早期警戒網を監視し、ソ連への核ミサイル攻撃を認めた場合これを上官に通報することが含まれていた。


 そして運命の一九八三年九月二六日、二十四時四十分。バンカーのコンピュータが飛来するミサイルを探知したのだ。


 はじめは一発だったが、しばらくするとさらに四発が現れた。合計五発のミサイルを探知したのだ。ただ彼は訝しく思ったのだ。もし米国が攻撃をするなら一斉攻撃になるはずだと聞かされていたからだ。それに時たま誤作動を起こすコンピュータに対しての信頼も今一つだった。しかしながらミサイル飛来が事実なら、なおさら司令部に報告しなければならなかった。目の前のことに疑問の面持ちだったが、ペトロフは司令部への直通電話の受話器を手にとった。それが彼に課せられた仕事であり義務だったからだ。

「こちらはセルプコフ十五バンカーのペトロフです。監視衛星が米国から飛来すると思われるミサイルを探知しました」

「数は?」

「現在、数は計五発です」ペトロフはさらに付け加えた。「しかし、もしかするとコンピュータの誤作動とも考えられます」

「判断は指令部が行う。君は引き続き仕事を続けたまえ」

 指令部は一方的に言うと通信を切った。そのやり取りにペトロフは若干の不安を覚えた。付け加えておくと、この一ヶ月ほど前に大韓航空機撃墜事件の発生を受けて、米ソの緊張はこれまでになく高まっていた。さらにソ連側は相互確証破壊戦略に基づき、核攻撃を受けた場合に即時反撃を行える体制をとっていた。不測の事態から思いもよらぬ状況に発展したとしても不思議はなかった。

 基地の地上のレーダーには飛来するミサイルはまだ映っていなかった。これは的確な判断をするには最適だが、もっとも反撃するには遅すぎるというのが実情だった。そして、クレムリンの司令部は米国および各地の米軍基地へ対する核攻撃の指示を出した。ソビエト領内の各基地から何十発もの大陸間弾道ミサイル ―どれもメガトン単位の威力を持つ核弾頭を備えた― が、米国と西側同盟諸国へ向けて基地から発射されていった。しかし、五発のミサイルは地上レーダーに映るであろう時間を過ぎても探知をしなかった。そう、実際にはミサイルは飛翔してきてなどはいなかったのだ。ペトロフが直感したように、コンピュータは誤作動を起こしていた。ただ、根本的なところは、高高度の雲にかかった日光が監視衛星のモルニヤ軌道と一列に並ぶという現象が原因だった。つまりは稀な気象条件、物理現象によるものだった。が、今となってはそれを知る由もなかった。


 一方の米国は大混乱となった。突然、ソビエトからの一斉核攻撃を受けたのだから当然だった。ワシントンも国防省も困惑した。しかし、時間の猶予はなかった。ミサイルの迎撃は事実上不可能だった。せめて反撃を、報復攻撃を決断するほかなかった。ソビエトのミサイルが到達する前に、米国からソビエトへ向けた弾道ミサイルが次々と飛び立っていった。


 誰しもが頭の片隅で思っていた悪夢が現実となった。


 もはや誰の手にもどうすることもできない状況となった。米国内の基地のみならず、世界中の米軍基地と主要都市までも壊滅した。もちろん米国や欧州の政府要人たちの多くはシェルターへ逃げ込み、なんとか難を逃れた。ただ、多くの市民には逃げ場などなかった。もちろん、直接被害を受けなかった地域も存在したが、身の安全を脅かされるのは時間の問題だった。放射能を含んだ塵は各地で空高く舞い上がり、じきに気流によって広範囲へ広がっていった。


 ペトロフはソビエトの政府高官や一部の市民と同様、モスクワ地下の巨大シェルターへと移っていた。軍人というだけあって、それなりに不自由ない生活だったが、彼は後悔の念に悩まされた。ミサイル探知のコンピュータが誤作動だったという噂はすでに軍の間では広がっていた。もちろんソビエト政府はそれらを否定し、ペトロフを英雄と称えつづけた。

 しかし彼は、自身の決断を後悔し続け、ノイローゼとなった。もし司令部に連絡さえしていなければ…。彼には妻と娘がいたが、安否はいまだに不明だった。次第に精神を病んでいった。地下での生活というのもそれに拍車をかけた。ついに彼は、この世界は実は夢で実際には自分は司令部に連絡などしていなかったと思い込むようになった。米ソがにらみ合いを続けていたとしても、市民は普通の暮らしを続けているのだと考えるようになった。そして誰とも会わず自室にこもるようになり、彼は衰弱死する寸前にまで追い詰められていた。事態を重くみた政府は、彼を病院へ隔離することに決定した。表向きは身体的な病気とされ、面会は一切禁止された。


 ソビエトにとってペトロフは英雄でなければならなかったのだ!


 長い月日が過ぎ去っていった。それでも地上は核の放射能を含んだ雪で閉ざされていた。

 モスクワのシェルター内の病院、ペトロフが収容されている病室へ担当医師が入ってきた。その気配に気づいたペトロフは目を覚ました。

「ここは、また夢の世界か…」かすれた声で彼はつぶやいた。

「夢ではありません。この世界は現実ですよ」

 医師はきっぱりと言った。

「ここは私の夢の中だ」

「それでは、あなたにとって現実はどんなところですか?」

 医師は聞いたが、これはこれまでにも何回もやり取りをしたことだった。

「普通の世界だ。核ミサイルが飛び交ったりしない。市民は地上にいて、昼間は陽の光の下で、夜は月明かりや星空の下で暮らしているのだ」

 医師はため息をついてから続けた。「あなた自身はどうですか?ここでは英雄なのですよ」

「現実世界で私は軍から解任されたが、世界を救ったのだ。ここでは英雄だと?こんな惨めな英雄がいるというのかね?」

 それを聞いた医師は何も言わなかった。そして診察を終えると黙って部屋をあとにした。


 時間は過ぎ去ってゆき、年老いたペトロフは息を引き取った。彼は永遠の眠りの世界へと旅立ったのだ。


 シェルターの中で最も大きなホールで国葬が行われた。シェルター内に暮らしている、ほぼ全ての人々が参列した。皆、一様に陰鬱な表情だった。それは英雄と言われ続けたペトロフの死よりも、シェルターでの生活に疲れ果てていたということの方が理由としては大きかったかもしれない。生き延びるために、なすべきことは多かった。

 何十年も見ていない太陽の、陽の光が恋しかった。誰もが思いはじめていた。もしシェルターでのこの生活が夢であれば、どれほど幸せなことだろうかと…。

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