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無為






 今日も一日が無為に過ぎていく。


 ゆっくりと煙草を吸いながら、おれはそんなことを思う。空は赤く焼け、吹き抜ける風は生ぬるく、視線の先ではくずくずに崩れる寸前の、半熟卵の黄身のような大きな夕陽が陽炎のように揺れ動いている。ベランダで吸う煙草がこの世で一番美味い。夕方が良い。春ならなお良い。つまり、今おれは幸せだと云うことだ。フィルターギリギリまで吸った煙草の吸い殻を足下の水を張ったバケツに抛り捨て、おれは静かに嗤う。幸せか。こんなことが幸せなのか。おれはパックからもう一本ロングピースを取り出し、ライターで火をつける。甘さとは裏腹にズドンと重たい煙を深々と吸い込み、おれは夕焼けに背くように手摺りにもたれ掛かる。硝子扉を一枚隔てた先に見えるのは、壁際に並ぶデカい本棚、安っぽいローテーブル、脱ぎ散らかされた衣服、フローリングに直に敷かれたマットレス──そしてローテーブルの上に置かれた、ポメラDM200の黒い画面。おれは二本目の煙草を燻らせながら、ぼんやりとその画面を見つめる。文章を書くことのみに特化した小型のワープロ。黒い画面から視線を逸らし、おれは一際深く紫煙を吸い込む。甘く重い眩暈、それは酩酊に似ていなくもない。──ジーンズの後ろのポケットが震動している。スマホを取り出すと、編集者からの電話だった。おれはスマホを眺めながら震動が収まるのを待つ。出る必要はない。もはやおれには関係のない事柄だ。そもそも最初から関係などなかったのかもしれない。おれは煙草を手摺りで擦り消し、吸い殻を抛る。空が翳っている。この時期の夕暮れは思ったよりも早く夜に変わる。どこまでが自分の作品で、どこからが自分の作品ではないのだろう、などと益体も無いことを考えながらおれは部屋に戻る。


 デカい本棚があるとは云ったが、だからといって本が片付いているわけではない。本棚から溢れ出した無数の本──大部分が小説──が乱雑に床に積み上がっている。先ほど描写を省いたのは、その光景が当たり前すぎて描写する必要性を感じなかったからだ。しかし考えてみれば、それはあまりにおれ自身の主観に寄り過ぎている。これを読んでいる人間がおれの主観を完璧に理解することなど出来ない。誰にもおれを理解することなど出来ない。おれでさえおれを理解しきれずにいる。だから、描写を付け足すことにした。おれの部屋は無数の本で散らかっている。


 おれは片付けるということが出来ない。する気もない。おれの部屋は混乱であり、それはおれの内面の混乱を顕している、などとそれっぽい説明をしてみるが、あまり関係はないと思う。おれは別に混乱などしていない。以外とクリアなんだ、おれの意識は。澄明とまでは云えないが、別に濁ってはいない。おれは病んではいない。病んでいる方が作品を書けるなんていうのは大部分が幻想だと思う。中にはそういう人間もいるのかもしれないが、病んでいると云うことは、常に消耗しているということに他ならない。体力とか、気力とか、精神力とか、とにかく云い方は何でもいいが、病んでいるとただ生きているだけですべてのパラメーターがゴリゴリ削れていく。部屋を出るのも億劫で、布団から起き上がるのも億劫で、しまいには息をするのも億劫になる。そんな状態で文章が書けるだろうか。おれには無理だ。実際、無理だった。精神が地べたを這っている時は、すべてが無理になる。飯を喰うことも、寝ることも、自慰することも、生きることも、死ぬことさえも。


 そう云うわけで、おれは病んでいない。正常ではないかもしれないが、少なくとも病んではいない。病んでいないから書ける。この文章も、かれこれ九年近く書き続けている竜を殺す的な小説も、だから書いていられる。


 と云うわけで、ここらでこの文章も終わりにしようと思う。書こうと思えば延々と書けそうな気もするが、これ以上言葉を積み重ねたところで意味があるとも思えないし、だからこの辺で切り上げるのがベストな選択だと思う。この後におれを待ち受けているのは長い夜と、二時間の激闘の末に三行しか書けなかった小説の断片と、もう何回も観ているのに年に一回は観たくなる映画の視聴と、もう何回も読んでいるのに一年に一回は読み返したくなる小説の再読と、あとは夕飯と、煙草と、風呂と……だから、これ以上書く必要はない。


 一日が無為に過ぎていく。それくらいが丁度いいのだろう。






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