散策と雨、ときどき闇
闇に雨はどうしてこうも馴染むのだろう。
無意味な散策を始める前から、降り出しそうだとは思っていた。夕刻の空には分厚い雲が垂れ込め、すでに陽は翳り、ゆえに残照は薄く、漂い始めた夜気は湿り気を帯び、何よりおれの右肘がほんのわずかとはいえ、疼いた。寒暖差、気圧の変化におれの躯は敏感だ。寒ければ腰が、暑ければ膝が、雨が降り出す前には、大抵どこかの関節が、疼く。だからおれはビニール傘を持って家を出た。いつ買ったのか思い出せないほど薄汚れた傘だった。持ち手はささくれ立ち、石突は欠け、小間は白く濁っている。三、四年は使っていそうな状態だが、たかがビニール傘をそれほどの年月使っているはずもなく、そもそもおれは物の扱いが雑で乱暴で、だから何年も使っているなどあり得ない。よくて半年、早ければ一ヶ月。ビニール傘の寿命などその程度のはずだ。よってこの傘の余命は幾ばくもない。強風にでも煽られればそれだけで受骨は簡単に折れ、小間は破れるだろう。だが、今日は風が強くない。少なくとも今日は、まだこのビニール傘はおれの為に雨粒を凌いでくれる。だから、おれにはこれで十分、というより、おれにはこれが必要だ。余命の幾ばくもない傘。思わず、おれは笑う。傘の擬人化。擬人化された傘。おれはよく擬人化をする。意味もなく。本当に、意味もなく。そもそも意味とは何だ?
さあな、とおれはおれに答える。さあな。
正常でいるコツは、何事にも意味を見出さないことだ。最悪の精神状態を脱するためにおれが辿り着いた答えがそれだ。
意味を見出さない。
意味など、無い。
それがコツ。
ぽつり、ぽつり。
頬が、濡れた。やはり降り出してきた。大粒の、ゆっくりとした雨だ。降りは弱くも強くもない。ただゆっくりと、おれの上着の袖やジーパンの裾を湿らせていく。雨が落ちる速度は一定なのだろうか。それともその時々で変化する? 錯覚? 思い込み? 少なくともおれの感覚では、この雨はゆっくりと降っている。寿命の尽きかけたビニール傘(また擬人化か?)越しに映る世界は、酷くぼやけている。汚れにより視界は濁り、表面を伝う雨粒によってあらゆる物の輪郭が歪み、煙り、霞む。街頭や対向から走り抜ける車のライトが視界の端々を瞬間瞬間、白ませる。雨と闇の中の散歩に、この人工的な灯りは邪魔だ。夕陽の残照ならまだしも、科学的な人工光はこの散歩には馴染まない、というより相応しくない。傘を差し、闇に濡れながら、静かに歩くのが散歩だ。そう、それこそが散歩だ。夜の散歩。闇の散策。昏がりの散歩。聞こえるのは雨音と、湿った靴音と、静かなおれの息遣い。闇、闇、闇。雨の匂い。甘やかな匂い。吹き抜ける風。雨粒を伴った風。闇、闇闇闇闇闇闇。闇=漆黒。漆黒=中二病。闇からの聯想が次々とおれの脳から溢れ出ていく。敵/地獄/暗黒/怪物/化け物……あるいは〈魔〉。趣味で書いている小説を思い出す。然る小説サイトに、おれは小説を投稿している。すでに七年(※八年だ。この文章は去年か一昨年に書いて埋もれていたものをポメラから掘り出して投稿したものであり、だから正確には八年)も書き続けている小説。おれの頭の中にあるキャラクターたち。帰ったら続きを書こう。おれは大通りを迂回し、路地を曲がり、住宅地を抜け、駅前を素通りし、土手に辿り着く。ある土手。さる土手。つまり、荒川の土手。街灯や、それに類する灯りは無い。闇のような土手が、おれの前に横たわっている。慎重に、一歩一歩、ゆっくりと階段を登っていく。土手道に辿り着く。右を見ても左を見てもただの闇。どこまでも闇。おれは見果てぬ闇を見据え、歩き出す。
途端に、走り抜ける閃光。
おれの眼が眩む。
電車だ。鉄道橋を渡る、東京スカイツリーライン。
かつては東武伊勢崎線と呼ばれていたはずだが、いつの間にか東京スカイツリーラインなどというカタカナに変わってしまっていた。いつ変わったのだろう。いまだにおれは伊勢崎線と呼んでしまう。伊勢崎線がおれを照らしだし、おれの眼を眩ませる。
闇は無く、雨も上がり、無機質な光が、ひたすらおれの眼を眩ませ続ける。
いつまでも。いつまでも。
一体、いつまで?