おれは身じろぎしない
くだらないよねぇと正面の女が電話に向かって話している。おれは身じろぎしない。知らねぇよと隣のオヤジが独り言を呟く。おれは身じろぎをしない。明日デートだよ、マジかよ、マジ、と扉近くで大学生の二人組が笑っている。おれは身じろぎをしない。電車が揺れる。揺れにご注意くださいと遅れてアナウンスが流れる。おれは身じろぎをしない。おれは文庫本だけを見ている。あるいはKindleの画面だけを見ている。活字だけを追う。それ以外を追いたくない。あらゆる物がストレスになり得る。おれは活字だけを追っていたい。現実を視界に入れるのは苦痛だ。苦痛。苦痛。激痛ではない。鈍痛。どうしてこんなに痛いんだろう。昔は、どれくらい前だろう、高校の頃、あるいは二十歳の頃、もしくは二十五歳あたりの頃だろうか、だいたい五年に一度くらいのペースで思う。おれのこの現実に対する苦痛はあくまでも一過性のもので、歳を重ねていけば消えていく青臭い郷愁みたいな物だと、そう思っていた。だがそれは間違いだった。消えない。どころか酷くなっている。三十のおれが感じている痛みが一番酷い。何も考えるな、と自分に言い聞かす。あるいは頭の中に逃げ込め。おれはネット小説を書いている。その内容の中に逃げ込め。自分の書いた物をネット上にアップしたところで得られるものはほとんどない。金が手に入るわけではないし承認欲求というものは多少は得られるかもしれないが、正直小説を書く苦痛を上回るほどの価値があるとは思えない。じゃあなんで書いているのかといえば、楽しいから。あとは、他にやることがないからだ。おれには何もない。生きているだけだ。十分だともいえる。しかし時々虚しくなる。つらくなる。意味を考えてしまう。そんなことなど考えたくないのに、考えてしまう。だからおれが書いている作品の登場人物たちは考えたりしない。迷ったりしない。人間が一切登場しない。人間は嫌いだ。出てくるのは獣だけ。愛や友情はない。獣はただ、生きている。ただ、殺し合う。ある意味純粋だ。意味が無い。意味がないというのは素晴らしい。意味など求めるから追い詰められるのだ。おれは狂いたくない。
電車が駅に着いた。おれはすぐに降りる。人混みをかき分ける。人いきれ。エスカレーターに乗る。話し声。おれは耐える。足早に駅を出る。空は暗い。高架沿い。人の流れはまばらだ。ようやく、すこし安心できる。安心したい。安心するために必要な条件は、なんだろう。考えてみるが思い浮かばない。そんなものは存在しないのかもしれない。少なくとも、生きている以上、安心などできない。
自転車の鍵を外す。駐輪場の支払いを済ませる。リュックをカゴに入れる。自転車に乗り込む。ペダルに足を乗せる。漕ぐ。右。左。右。左。駐輪場の管理者がおれに挨拶をする。おれは目礼を返す。管理者がゲートを開く。もう一度、おれは目礼する。無駄な描写。この無駄な描写の連続は何だろう。一行『おれは駐輪場を後にした』とでも書いておけばいいものを、無意味に描写を長引かせ文字数を稼ぐ、この無駄は一体何なんだ。約四行(おれはこの文章をポメラDM200で書いている。おれの画面上では四行だ。これを読んでいる端末によって行数は異なるだろう。もっとも読んでいる人間などいるのだろうか。いないのだとしたら、なぜおれはこれを書いている? なんでおれはこんな無意味な言葉の羅列に神経を(以下、あまりにもとりとめがないため割愛させていただく))にわたる無駄。おれはこれで何を表現したいんだ。自分の行動を細かく描写することによって、自分の意識の流れ、あるいはおれの行動というものを画面上に再現したかったのか。いや、そんな意図はない。意味など無い。先ほど意味など求めたくないといったばかりだ。だから意味など無いのだ。
理由のない怒りはやり場を失い頭の中でぼんやりとした靄となって漂い続ける。時折おれはその靄のような怒りに脳内を支配される。すると意識が死んだようになる。おれは死んでいる。そういう時、おれは自分の死を想像する。
《反転》
《おれ、から、おれ、へ》
《裏返る》
いや、違う。そういう時、おれは人を殺すんだ。何年か前、おれはよく人を殺していた。たいてい少女だった。おれが殺した少女たち。皆猫目で、ショートカットで、唇から八重歯が覗いていた。おれの被害者の姿を瞼の裏に描いてみる。八重歯。眼にとまるのは八重歯ばかり。おれは殺した少女の八重歯を戦利品として持ち帰っていた。強引に口をこじ開け、ペンチで引き抜く。血に塗れた白い犬歯を口に放り込み、飴玉のように舌先で転がしながらおれは死体を解体した。四肢を切断し、汗まみれになりながら頭部を切り離し、そうしてその死体を、おれは、
「ノエル」
不意に、おれは懐かしい名前を口にしていた。
ノエル。
奇妙な女。
ノエル。
体温のない蒼白の肌。
ノエル。
死体、死んだ女、死肉を喰らう女。
ノエルはゾンビだった。アイツの言葉を信じるなら、そういうことになる。アイツはいきなり現れた。いきなり現れて、おれが解体した少女の死体を喰った。それが最初だ。おれが殺し、ノエルが喰う。ゾンビ女と解体するおれ。おれたちの利害は一致していた。一緒に住んだ。アイツはおれの本棚にあった川端康成が好きで、特に短編集をよく読み返していた。おれは映画ばかり見ていた。あの頃は、おれは金に困っていなかった。だから一日中家にいた。特に会話は無かったが、不思議と気詰まりではなかった。アイツはおれに似ていた。ベランダで煙草を吸ってるおれをアイツは退屈そうに眺めていた。怠惰な日々だった。よくセックスをした。ゾンビとのセックスは死姦になるのだろうか。アイツには体温が無い。おれの躯はノエルの中で冷えて、凍えて、死にそうになる。おれはそのまま死にたかったのかもしれない。アイツはおれの掌を噛んだ。滴る血を舐めながら嗤っていた。時々おれは発作に襲われた。視界が狭まり手の届く範囲にあるすべての物を壁に投げつけた。それからおれは頭を床にガンガン叩きつけた。おれが限界を迎えそうになるとノエルはおれを抱き寄せた。ゾンビってのは異常なほど筋力が強い。おれは身動きを封じられ発作が治まるまでノエルの囁きに耳を欹てた。大丈夫大丈夫世界なんて終わってるし人間なんて全部クソだしだから辛さなんて感じる必要はないどうしても辛いならわたしが殺してあげるそしてアンタの死体を食べてあげるだから大丈夫大丈夫。もう戻らない日々。ノエルとおれの日々。おれたちはふたりで殺し、解体し、喰った。そんなことばかり繰り返していた。
「ノエル、か」
おれはよくわからない懐かしさに胸を締め付けられた。
「もう一度、お前に会いたいなぁ」