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境界の勇者






 先月仕事をやめた。人といることに耐えられなくなったのだ。人の視線、体臭、気配、すべてがおれに不安を与える。恐怖といってもいい。職場ではエレベーターに乗ることが多かったが、他人と乗り合わせたりすると本当に辛かった。別に脂汗が出たり心臓の鼓動が速くなったりするわけじゃない。ただ不安なのだ。激しい雨が降りしきる深夜のようなものだ。得体がしれない。おれは他人が怖い。それなのに時たま、おれは人への恐怖を忘れたように怒り狂う。普段はまったく怒らないのに、精神のストレス許容範囲ラインが不意にガクンと下がり、怒る。よく短気な人を『瞬間湯沸し器』なんて揶揄するが、まさにそれだ。おれは一瞬で怒り、怒鳴り、そして一瞬で冷静さを取り戻す。そうするととてつもない自己嫌悪に襲われ、自分の醜態が恥ずかしくなり、迷惑をかけた人間に謝って回るのだ。その手の本などで調べたところおれの性格は『境界性パーソナリティ障害』に分類されるように思えるが、おれは医者にかかったことがないから定かじゃない。自分の抱えるものを規定したいと思う時もある。同時に曖昧にしておきたい、とも。確定させたくない。シュレーディンガーの猫のような精神状態を保ちたい。あるいはこれは二重思考ダブルシンクというやつか。いや、この場合は二重拘束ダブルバインドか。どちらにせよだ。あるいはこういう事を考えたりもする。この不安と怒りは結局のところおれの精神を健全に保つための防御機構のようなものなのだと。これは間違っていない。不安は他人が与える。その他人を遠ざける為に怒りがある。そして精神の安寧を求めるおれは一時的な自閉へと行きつく。仕事をやめる二ヶ月前から、おれは職場でほとんど口を開かなかった。多少の挨拶や雑談はしたかもしれない。だがほとんど突き放すようにおれはコミュニケーションを拒んだ。おれは安定していたい。おれは安定していたいのだ。なぜこんな文章を書いているんだろう。頭の整理か、たんなる自己顕示欲が、どちらにせよこれを書くことで心が落ち着くなら書くべきだ。


 能動的精神活動は重要だ、とおれは思っている。ようは創作のことだ。絵にしろ音楽にしろ文章にしろ、創作は一種のカンフル剤のような役割を果たす。掃除をしない部屋に埃がまるように、動かない精神には負の感情が蓄積されていく。心のおりは憂鬱や倦怠を引き起こし、気力を奪っていく。創作をすることでそういった感情から逃れられる。だがおれは今無気力だ。おれは趣味で文章を書いている。だから画面に向かう。しかしおれはそこでやめてしまう。何もしたくない。寝て、飯を食い、眠る。そして目覚めると正午を過ぎていた。カーテンから射し込む陽光を顔に浴びながら『少し良くない』とおれは思う。定期的に抑うつ状態におちいる。もう何年もこんなことの繰り返しだ。希死念慮に囚われるほど酷くはなく、希望を持てるほど良くもない。解決策は時間と、良質な小説映画の摂取、そして物理的な移動。物理的な移動とは散歩やサイクリング、あるいは電車に乗ること。とにかく移動するのだ。家、つまり生活の拠点から一時的に離れることで解放感を味わい、精神的な安定をはかる。そういうわけでおれは今、電車に揺られている。


 車両は混んでいるわけではない。席は空いている。だが狙っているのか偶然なのか ―――偶然に決まっているのだが――― おれが座席に腰かけると、必ず両側に人がいる状態になる。車両の座席の、あの距離感がおれに凄まじい拒絶感をもたらす。肩がふれあい、肘があたるあの超至近距離。対人距離パーソナルスペースを無視したあの感覚がおれにストレスを与える。男であれ女であれおれの個人空間パーソナルエリアに踏み入るのをおれは赦せない。だからおれは扉の脇に立ち窓の外を眺めている。血のような真っ赤な夕陽が見える。けた鱗雲に空が爛れる。電車の速度のせいか、夕陽の方向のせいかしらないが、流れゆく家屋や電柱すべてが濃い影に覆われている。おれの視界には赤と黒しかない。カラスの群が飛んでいる。赤い空に黒い鳥。これは何かの暗示、あるいは啓示か、と思考をめぐらせるがたんなる強迫観念的妄想にすぎないと首をふる。おれはこの一連の文章を書いていた時、夕焼けの描写を次の一文で終わらせようとした。『窓外にはコーマック・マッカーシーの描写したような夕陽が浮かんでいた』だが色々と考えたすえおれはこの部分を削除した。そこには共通認識にたいするおれの独善性が含まれていた。この文章を読んでいる人間 ―――おそらく百人もいないだろう、五十人もいないかもしれない――― そのうち何人がコーマック・マッカーシーを読んでいるのかわからない。そういう限定的な場所で独りよがりな共通認識を求めるのは間違ってはいないか、それにコーマック・マッカーシーのあの情景描写、詩的で哲学的で残酷かつ美しい文章を『窓外にはコーマック・マッカーシーの描写したような夕陽が浮かんでいた』などという一文で表現できるなどと思い上がっているおれのその浅はかさは、アマチュアとはいえ文章を書いている人間にはあるまじき軽薄さ、度しがたい軽率さ、おれはそこまで粗忽な人間だったのか、いやまて、おれはまた同じ過ちを犯してはいないか、『詩的で哲学的で残酷かつ美しい文章』という一文でコーマック・マッカーシーの・・・などと思考は同じような場所をぐるぐると回る。おれの考えは些か強迫性を帯びすぎている気がする。そこまで深く考え、思考にたいして潔癖である必要はない。潔癖とは完璧や理想と同義だ。そういうものは人を縛り、犯し、狂わせる。ならばおれは狂いかけているのか。どうだろう。わからない。おれはおれが狂っていないと証明できないが狂っているとも証明できない。電車が速度を落とす。目の前の扉が開く。風景が揺曳ようえいしているように見えるのは錯覚か。なまぬるい風。烏の鳴き声。血のようは夕陽がおれを照らしている。おれがホームに降り立った時、悲鳴が聞こえた。太った中年の男が放心したように立っていて、その足元に女が倒れていた。女の黒髪は潤沢で、墨汁をぶちまけたように点字ブロックを覆い、夕焼けの見せる錯覚か黒髪の所々が赤く見えた。だがそれは錯覚ではなかった。地面に広がっているのは髪ではなく血だった。女は頸から大量に出血していた。おれの目を鋭利な閃光が射った。太った中年の男が右手に握るナイフの刃面はづらが夕陽を反射し神々しく感じられるほど輪郭の浮いたそのナイフが血を求めていることをおれは瞬時に理解し、そしてその瞬間おれは自分の逃れられぬ死を理解したのだった。ゆえにおれは









 そこで彼は揺り起こされた。


「傷口はなんとか塞がりました。臓器の損傷も明日の朝には治っていると思います。貴方の体内循環魔力から術式維持の魔力を供給するように組み直しちゃいましたけど、かまわないですよね?」


 少女が彼を覗きこんでいた。大きな瞳だ。薄翠色に縁取られた虹彩はエルフ族の証。黒いローブの胸元には王立魔術騎士団の紋章が銀糸によってあしらわれ、そのすぐ下に一級宮廷魔術師を示す勲章がとめられている。ほとんど白金といっていい美しい髪が彼の顔に垂れかかり鼻孔をくすぐる。柑橘類を思わせる爽やかな香りの中に屠殺臭とでもいうのか血と臓物、それも恐怖の中で死んでいった家畜だけが死の間際に撒き散らすような濃密な死臭が絡みついていており彼はその嗅ぎ慣れた臭いによって『ここ』がどこなのかを思い出す。少女の手を借りてゆっくりと起き上がり周囲を見回す。すでに底知れぬ闇が緞帳どんちょうのように降りている荒野は、しかし壮絶な殺戮の果てに積み上げられた死骸の山陵とこの土地の許容力を遥かに上回ったがために荒野に溢れ夜風に揺蕩たゆたう血の海だけはどれだけ深い闇でも隠しようがないというように死臭を放っている。ここはすでに魔王の領域であり闇の眷族は彼の行く手を阻んだが召喚されし勇者である彼の力は絶大であり聖剣を手に勇者は虐殺の限りを尽くし血のような夕陽が沈む頃にはここは地獄となっていた。王国の民たちがこの光景を見たら果たして彼を勇者と讃えるだろうか、もしかしたら勇者など魔王と変わらない単なる虐殺を繰り返す狂人であり英雄とは結局のところ殺戮者の別名でしかないと知ることになるだろう。だがここに民たちはいない。語られず記録されない歴史とはたとえそれが真実であろうと膨大な時間の渦に呑み込まれ消え去ってしまう。消失したものはもう二度と人々の意識に立ち現れることはなくそれゆえ歴史は繰り返されいつの世も戦争は終わらない。いい加減神も人間を見放している。


「念のためポーションを飲んでください」


 たきびの前でぼんやりと火を見つめる彼に向かって少女は小瓶を差し出す。ありがとう、と彼は受け取り中身を一気に飲み干すとふたたび少女に向かってありがとうノルヘ、と笑う。


「これも私の仕事ですから」とギクシャクしがらノルヘは彼から顔をそらす。きめ細かくすべらかな彼女の白い頬がやや赤みをおびるがそれは薪のせいかもしれない。


 彼は干し肉とパンで簡単な夕餉を終えるとコーヒーを飲みながらまた薪を眺める。まるでそこに救済や安息があるかのように見つめ続けるが炎がもたらすものは炭と灰と夜をわずかに掻き消し死霊や夢魔などを牽制することだけだ。それでも火を見つめていると心が休まると彼は思いそういえば寝る前にYouTubeで薪の動画を垂れ流し炭のはぜる音を聞きながらいつの間にか眠っていたなんてことを思い出し笑い、しかしそういった日常はすでに絶対に手の届かない所にありそういった記憶はすでに果てしない過去のように彼には思え、そしてその消え去った過去が一片の郷愁も呼び覚まさないことに彼は驚かない。なぜなら彼にとってその頃の生活は生きているのか死んでいるのか曖昧な仮死状態でありまるで自らの身体が腐っていくのを自覚しながらただ条件反射的に肉を喰らうゾンビのようなものだった。今現在の生活が満足いくものとは言えないが少なくともあの頃よりマシなことは確かだ。彼はコーヒーを飲み干す。


うなされてましたよ」


 ノルヘは心配そうに彼を見る。


 元の世界の夢を見たんだ、と彼はいう。


「元の世界」ノルヘは雲の隙間から微かに覗いた月を眺めている。「故郷の夢なのに魘されるんですか?」


 ああ、そうだよ。


「どうしてです? 帰りたくないんですか?」


 帰りたくないな。ノルヘは帰りたいか?


「私は帰りたいです。森に残してきた家族にも友達にも早く会いたい。でも私はノルドリーバ樹海の神樹王に選ばれた精霊の魔術師です。私の使命は勇者様とともに魔王を討滅とうめつし世界を正しい運命に導くことです。魔王はいずれ私の故郷を滅ぼします。だからその前になんとしても魔王を倒したい。そして大手を振って故郷に変えるんです。それが私の夢です」


 そうか、それはいいね。


「勇者様の夢はなんですか?」


 その問に彼はしばらく押し黙り、成すべきことを成すことだよ、という。


「成すべきことですか」


 そう、成すべきことだ。おれはこの世界に来てはじめて目的というものを手にいれたんだ。前の世界でおれはほとんど死んでいるのと変わらなかった。だがこの世界に呼び出されて勇者と呼ばれ魔王を殺せと命令されたときおれの背筋に電流のようなものが走った。こんなおれに世界を救うなんて大役が務まるはずがないと思う反面、途方もない目的を与えられそれを達成できなければ死ぬという絶対的な危機感に悦びを感じた。おれの暮らしていた世界にはそんなものはなかったんだ。いやおれの国が平和だっただけかもしれないがそれでもたぶんあの世界のどこを探したって世界を救うなんて大役が転がってるはずがない。なぜならあの世界はもうすでに限界を迎えつつあり正確にいえばそれは資本主義経済の限界でそれが崩壊したとき何が起きるのかおれにはまったく予想がつかなかったがおそらく極貧と餓死と暴動と革命の果てに多くの人々が死ぬんだと思う。戦争も起きるかもしれない。核戦争も。まあこんなものはおれが皮膚感覚で語っているだけだからまったくあてにならないんだけど、なんていうか酷くペシミスチックな空気の漂う場所だったよ。きっとこの世界の住人はおれの世界に憧れを抱くと思うしそれはまったく間違ったことじゃない、なぜなら人は自分の手の届かない何かを欲するという無意味な貪欲さを持っていてたぶんそれは遺伝子に組み込まれているんだと思う。隣の芝生は青いというヤツだよ。だけど見ているうちは素晴らしくても手に取ってみると腐臭を放ちたちまち崩れてしまう物なんていくらでもあるんだ。もしかしたらそういう物しかないのかもしれない。おれが勇者という役割に甘んじているのも錯覚なのかもしれない。勇者という称号はおれの手に渡った瞬間に、いやそのはるか以前から形骸化していたのかもしれない。


「ところどころ意味の掴みかねる単語も混じってますが、勇者様の言っていることはなんとなくわかります。勇者様がどういう人間なのかもわかっているつもりです」ノルヘは傍らで眠る獣人けものびとの女の子の髪を撫で、悲しそうにいう。「でもシリカにはそういうことを語らないでください。この子は貴方のことを本物の勇者だと思っています。純粋に、世界のために神が使わしてくれた光の使途だと信じているんです」


 シリカはおれがどういう人間か気づいているんじゃないかな。


「だとしたら、この子は気づかないふりをしているんだと思います」


 見たいものしか見ないわけだ。


「みんなそうじゃないですか? 民も貴族も王族も、みんな見たいものしか見ていません。自分たちが絶対的な正義であり魔物は駆逐するべき悪魔だと思っています。まるで人間は運命の名において絶対的繁栄と勝利を享受できると定められているというように。王国は傲慢すぎます。いずれそのツケを払う時が来るかもしれません」


 払わせてやればいい。


「その時は勇者様もツケを払うことになるんですよ」


 どうかな、おれに払うほどのツケがあるとは思えないな。


「払うことになります」


 そうかもしれない。だがそんな先のことを考えたって仕方がない。今おれたちがやらなきゃいけないのは魔王を殺すことだ。そのためにはまだまだ魔物を殺し魔族を血祭りに上げ魔公爵どもを吊し上げなければならない。そしてやがて魔王の咽喉のどを聖剣で掻き切りその首を掲げながらおれは王都を凱旋する。歓声と嗚咽がおれを迎え入れる。まだまだ時間はかかるがおれは勇者としてやり遂げるつもりだ。成すべきことを成すつもりだ。なぜならおれにはそれしかないからだ。それしかないならとにかくそれをやるしかないのさ。たとえその道が血と死と臓物の果てにある地獄だとしても、立ち止まるわけにはいかない。おれはやる。やりとげる。勇者だからな。


 ノルヘの言葉は返ってこない。


 重くこごった沈黙だけがすべてを満たしている。


 おれはやる。


 最後にそういうと彼は目を閉じた。






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