逃げろ、と叫ぶことに意味はない
出撃を控えて装備を整えていると、アガレスが予想だにしないことが起こった。
驚くべきことに、砦長のメイサがふらりと姿を現したのだ。
責めるような言葉を寸前のところで飲み込み、アガレスは冷静を装って問いかけた。
「どのような御用件で?」
抑揚を殺して問いかけると、メイサは顔をしかめて嫌そうにアガレスを見返してきた。
「アガレスのくせに嫌味っぽいわね。砦が騒がしいから目が覚めたのよ。そういえば、貴方までそんな格好をしてどこに行くの?」
「西の方角に大型魔獣の咆哮が確認された。斥候兵の報告によると、低速型大型魔獣だそうだ。咆哮が聞こえていなかったので?」
砦中が魔獣の脅威にさらされて浮き足立っているというのに、あまりに場違いなやり取りに嫌気がさす。
「なんですって? 私は聞いてないわ」
メイサが言った。
「今、言ったから良いだろう」
「良いはずがないでしょう。私は出撃許可なんて絶対に出さないんだから!」
「うるさい。……肝心な時にいなかったくせに、今さら口を出すなっ!」
我が儘で気難しい魔女がかつてないくらいに怒っていた。理由は不明ながらも、ここで理由を問いかけられるような機転があるアガレスであれば、初めから怒鳴り合いになどならない。
お互いに言葉を発したあと、言葉を飲み込んで睨み合う形になった。
顔が近い。吐く息が鼻先を掠めていきそうな距離だった。触れ合うことはないにせよ、これまでで一番二人の距離が近付いたのが今であることに間違いはなかった。
動揺するアガレスになど構っていられないらしいメイサは、言い募る。
「貴方は馬鹿よ。ほんとに、馬鹿よ。せっかく私が昔の伝手を使って貴方を中央へ戻そうとしたのに。それなのに、なのに……寿命を縮めちゃったら意味がないじゃない」
声は震えていて、どうしてなのか今にもくじけてしまいそうだった。
最後には俯いてしまって、アガレスにはその表情を知ることができなくなった。
「言うことはそれだけか。前回の小型魔獣の時も上手くいったんだから、今回もきっと上手くいく。あんたはここでおとなしくしていろ」
つい勢いに任せて大見得を切るが、そんなはずがない。メイサが同行するならばまだ勝算があったのかもしれないが、メイサはアガレスたちのためには動かない。少なくとも、アガレスが赴任してきて四年間ずっとそうだった。期待は裏切られ続けて、もはやアガレスの中のどこを探してもそんなものは見つからないほどだ。
だから次にメイサがとった行動は、誰もが予想しないものだった。
びゅうと風が強く吹いて、鼓膜を揺らした。
一歩砦の外へと出ると、そこには音の乏しい極寒の世界が広がっている。
目に見える天災の形。それが、大型魔獣の在りようだ。
姿は未だ目視できず、魔獣の咆哮だけが否が応にも緊張と恐怖を煽った。
怖気付く自身を抑え込んで、いざアガレスが戦いの舞台へと向かおうとすると、それを阻む透明な壁があった。
何を言っているのかアガレス自身にも説明が付かなかったが、それはまさしく透明な壁としか言いようのないものだった。
戸惑ったのは束の間のことで、こんなことが可能なのは一人しかいないことをアガレスは知っている。もしかすると中央からの使者にも可能なのかもしれないが、アガレスの脳裏を真っ先に過ぎったのは砦長のメイサの姿だった。
案の定、皆が見守る中でメイサだけが透明な壁をすり抜けて、たった一人で大型魔獣の前に立った。
「砦長っ!」
息を飲んだアガレスは我に返るなり叫び、咄嗟に鞘から剣を引き抜いて、ありったけの魔力を込めて振り下ろす。
咄嗟の行動に意味などなかった。考えるよりも先に身体が動いていた、それだけだ。
アガレスとしては、メイサのもとへと行けるならば何でも良かったのだ。
けれども、それは叶わない。
ついには役立たずの剣を投げ捨てて、アガレスは無我夢中で透明な壁を殴り付ける。
透明な壁は殴った手を傷付けることなく、アガレスの手を優しく跳ね返した。
「砦長っ!」
どうしようもなく自分の手は届かないのだという事実に打ちのめされながら、アガレスはまた叫んだ。
すると、メイサはまるでアガレスの声が届いたかのように一度だけ振り返り、だがまたすぐに前へと向き直る。
大きい。ついに姿を現した山のような大型魔獣の影が、小柄なメイサを今にも飲み込んでしまいそうだった。
逃げろ、と叫ぶことに意味はない。だからアガレスは、代わりに信じてもいない神に祈った。
その時だった。メイサの指先から音もなく光が迸り、弾けた。
続いて大きな影がゆっくりと傾いて、轟音が大地を震わせる。
吹雪く雪とは視界を奪い、音を削ぐものだ。だからその現実味のない光景はともすれば酷く簡単なことのように映った。だが、そんなことはあり得ない。
すさまじすぎて言葉もなかった。自分の目で見たことが信じられなかった。
これは、本当に人間の成せることであるものか。
……初めから、この砦に必要なのはたった一人の魔女だけで良かったのではないか。本当に自分は砦の戦力として必要とされているのか。
そんなことを考えたのはアガレスだけではなかったらしく、誰しもが一様に言葉を忘れたかのように呆然と魔女を見ていた。
「これで驚異は去ったはずよ。全員、砦へ引き返しなさい」
ふらつきながらメイサが声を張り上げる。吹雪でかき消されていたはずの声が、確かに耳へと届く。
りんとした甲高い声は、こんな時にまで耳に障った。心臓を抉るような命令に、誰もが複雑そうな顔をして安全に守られた場所からメイサを見ている。
誰一人として動こうとしない。声を発することもない。
時が凍り付いたかのような時間の中で、中央からの使者だけが何食わぬ顔で魔女へと歩み寄り、崩れ落ちる小柄な身体を受け止めて見せたのだった。