レンズの向こう側 2
5月中に出そうと急いで書いたので誤字脱字、話の流れがおかしい所があるかもしれません。変な所があればそーっと教えてください。
どうにか帰路につく二人に追いついて、俺は荒い息を整える。存外に平気そうな兄は、けれど俺を認めたその一瞬だけ顔を歪めた。
だが実父のトラウマからは徐々に回復していたのだろう。兄はあの人形の瞳には戻らなかった。その事に漸く胸を撫で下ろす。
「……ていうか、俺、岡部も結構悪いと思うんだけど」
兄が夕食を摂った後、早々に部屋へ引き上げたタイミングで俺は顔をしかめる。
よりにもよって親に大切にされていないなどと。アレはどうやら俺達兄弟に哀れみを持って接していたらしいが、それを攻撃材料へ変えればただの見下しだ。
「俺もそう思うよ。目の前で言われていたら俺だって何してたか」
ふん、と鼻から息を吐くナオトも、そこそこに怒っている。その隣でユズさんが柔らかく笑った。
「でもきっとジェイドくんには伝わっていたのね。私達がちゃんと家族として大切にしている事」
どこか満足げに、穏やかに彼女は言う。それを聞いたナオトが毒気を抜かれたような顔をするから、俺は小さく笑った。気の立っているナオトを上手く落ち着かせるユズさんを見ているのは面白い。本人も落ち着かせようとしている訳ではないのが尚更。
ナオトが、幾分落ち着いた顔つきで深く息を吐いた。
「とりあえず俺からも少し話を聞いてみよう。クワルツ、先に風呂入ってこい」
促された俺は素直に頷いた。さっと用意して、湯船に浸かる間思考に沈む。
殴ってしまった事を、仕方ないとは思いたくなかった。たとえ岡部が先に言葉で殴ったとしても、悪いのは兄だ。言葉で返せなかった、自制心の無かった兄が悪い。
でも、と俺は手で顔を覆う。嫌だった。兄は悪い奴じゃない。誰かを傷つけようとする奴じゃない。あいつとは、実父とは違う。
それなのに、ジェイドのやった事を事情があるからと肯定してしまったら、実父の事も肯定しなければならなくなる。俺を容易にはたき、母親を殴り殺したあの実父を!
ポチャン、と水滴が湯に落ちた。俺はのろのろと手を離し、髪をかきあげる。
風呂の中で揺らめく自身の手足は、白く頼りない。髪から垂れた雫が水面を揺らして、さらに不安定に見せた。それはまるで、幼い頃に逆戻りしたような。
ふ、と息を吐けば、あたたかい空気が唇に触れた。ハッと我にかえって、俺はかぶりを振る。
何をうだうだと考えているのか。ジェイドを肯定しても実父を肯定した事にはならない。だって、二人は違う。事実は同じでも何もかもが違う。
俺が、俺だけがそれを一番良く知っているはずだ。
風呂から上がった後、ジェイドを呼び出す。入れ替わりに部屋へ戻り、俺はドアにピタリと耳を当てた。
ジェイドとナオトの話し声が、僅かに漏れ聞こえてくる。その会話を聴きながら、俺は思わずため息をついていた。やはり兄は自分が許せないのだ。
少し話してみるかな、とベッドの上段に登り、兄を待った。
話をしてみれば、明らかに兄は戸惑っていた。自分と周りの認識が違う事に、望む反応ではない事に。
「……いい加減気づけよ」
吐き捨て、兄が何か言う前に掛布団へ潜り込む。馬鹿な兄だ、とまた心の中で詰った。
それが劇的に変わったのが、秋頃の事だった。小学校で行われる祭りは、神輿も出てそこそこに賑わう。その中で兄が迷子の女の子を保護したのだと。
途方に暮れる兄が少し面白く、通話を切った後も、わざとのんびりと歩いた。
それが、焦った様子の兄が駆けてきて、僅かに眉を寄せる。今までに無いほど焦燥に駆られている兄は、女の子が居なくなったのだと語る。
それで、そんなにも感情を顕にしているのかと得心すると同時に、何かが胸の底をちくりと刺した。
「大丈夫でしょ。流石にこんなに人の多いところで誘拐なんか」
言った途端、兄の顔色がさっと変わった。あ、と思う間も無く、兄は走り始めていた。それはもう、火のついたように。慌てて追いかけるが、なかなか追いつけない。人混みを抜けているというのに、やたらと速いのだ。
そういえば兄は妙に身体能力が高い。幼い頃から一緒に遊んでいても、追いつけない事が度々あったのだ。帰宅部のくせして、と俺は足を速める。
グラウンドを出て、兄が誰かを追いかけているらしい事に漸く気付く。やがて兄との距離が近くなり、追いつく直前で、人混みから外れた道に入った。
角から顔を出せば、男が鞄を振りかぶっているその瞬間だった。重そうに持ち上げるその仕草に、まさかと血の気が引く。鈍い音を立てて、鞄が兄にぶつけられた。聞こえた小さな呻き声に、ざっと鳥肌が立つ。
兄と男の前に割り込めば、むちゃくちゃに振り回した男の拳が肩に当たった。錯乱しているらしい男から逃れようとしゃがみこんで、兄をちらりと振り返る。
怪我は無さそうな様子に少し安堵する。しかしジェイドは鞄を抱え込み、またもや青ざめた顔で俺を見ていた。鞄は明らかに人のシルエットで兄に抱えられている。その兄の後方から、ブチ切れているらしいナオトが見えて、俺は心底ほっと胸を撫で下ろした。
母が死んだあの日も、ナオトは怒った顔で、しかし優しく俺達を外へ連れ出してくれた。
どう、と男が地面に組み伏せられる音。駆けつけた警官がナオトのもとへ走るのを横目に、俺はジェイドへと向き直った。傍では白髪混じりの警官が心配そうに兄を覗き込んでいた。
「大丈夫かい?」
視線がこちらにも向いたので軽く頷く。肩の痛みは既に引いていた。
それから兄はハッとして抱きかかえていた鞄から女の子を出してやる。毛布で包まれ芋虫のようになっていた女の子は、拘束が解けると、兄へとまっさきに飛びついた。
兄がぎこちない仕草で女の子の背に腕を回す。すると女の子はひしと兄にしがみついた。無愛想な兄に、よくもこんなに懐いたものだ。
妙な感心を覚えていると、女の子の両親の元へと向かう話になった。
ジェイドが彼女を抱き上げ、警官と横並びに歩き出す。……その、道すがらの事だった。
「おにいちゃん」
先程までぐすぐすと泣いていた女の子が、やけにしっかりとした声を出した。不思議に思って女の子を見やれば、彼女は一点の曇りもない瞳で、いやに澄んだ声で、言うのだ。
「おにいちゃんは、」
いいひとだよ。
あ、と声が出そうになった。ジェイドの、僅かに開かれた瞳が光に透けた木の葉の裏のようだった。俺のくすんだ曇天の緑とは違う、柔らかいその色が、俺はずっと好きだった。
今しかないと思った。瞳に蔭がさす前に、気づけば言葉は滑りでていた。
そうだ、兄は"いいひと"だ。飯村ジェイドだろうが、ジェイド・フローレンスだろうが、俺の兄はずっといいひとだ。何かを必死に守ろうとするひとだ。
ああ、悔しいな。この素直な言葉を吐けなかったことが、ジェイドの心を変えられてしまったことが。
「気づいてくれて、ありがとう」
それなのに、こんなにも嬉しいことが。
それから兄は劇的に変わった。少しずつ他人と関わろうとするようになった。前向きに、ひたむきに、何かを目指すようになった。それが自衛隊だったことには少々驚いたが、納得もできた。
ただナオトが、
「俺はあいつが折れた時が一番怖いよ」
などと、酒を飲んで零していたので、俺は首を傾げた。
「やっぱりキツいの?」
いや、とナオトは首を振る。机の上の進路調査表をなぞり、ため息をつくように言う。
「ジェイドはまだ上手く人間関係やれないだろう。自衛隊に属する理由はあいつみたいに殊勝なものばかりじゃない。みんな、ただの人間なんだよ」
言い終えたナオトがぐいと酒をあおる。それから俺を見やって、赤い目元に苦笑を滲ませた。
「悪い。お前に言う事じゃないな」
俺は首を振って、ナオトの前に腰を下ろす。
「……ジェイドは自衛隊に向かない?」
ナオトが苦笑を深めた。しかし同時に可笑しさも混じるような、優しい、むず痒くなる笑みだった。
「いいや。向きすぎる」
言い切ったナオトはしかし、瞳を陰らせて続けた。
「心配なのはウマの合わん奴と衝突なくやっていけるかだよ。集団生活だからな、ずっと近い場所に合わないやつが居るんだ」
ようやっとナオトの心配事に納得がいく。ジェイドがそれに上手く我慢できるか、そういう話だった。
「ジェイドは、」
我慢はできても、不満は溜まっていくだろう。それはきっと、メンタルに響く。けど、と今度は俺が苦笑した。
「きっと大丈夫だよ。優しいもん」
不意をつかれたようにナオトが目をみはって、それからふわりと相好を崩した。
「そうだな。そうだ。心配する事じゃなかったな」
ナオトはどこか嬉しそうに進路調査表を机の真ん中へと置き直す。俺はそれをじっと見つめ、胸の内で言葉を転がした。
「お前は」
ふっとナオトが視線をこちらに向けた。
「何か、したい事はあるか」
ナオトが小首を傾げる。その表情からは期待も読み取れず、ただ返事だけを待っていて――何を言っても肯定するつもりだろう事が良くわかった。
だから俺は、少し逡巡して笑った。
「もうちょっと待って」
俺は兄ほどに覚悟を持てない。だからまだ、時間が欲しかった。
言うと、ナオトは意外そうな顔をしたが、頬を緩めて頷く。
「ゆっくりで良いよ。俺とゆずは幾らでも待てる」
のんびりした調子に、俺はほっと胸を撫で下ろす。
中学、高校と、覚悟を決めるまでは少しかかったがそれでも――俺は兄を追っていた。兄に何かあれば、すぐ手の届く範囲に居たかったから。心をすくうには一足遅かったが、もう遅れはとらない。
俺が、兄を守るのだ。