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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第三章
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レンズの向こう側

「クワルツ。……一つ、提案があるんだが」


 提案と聞き、眉を寄せる。兄なら無茶な事は言わないだろうが、そもそも何か主張する事自体が珍しかった。

 小さなテーブルに昼食を置き、軽く頷いて続きを促すと、ジェイドは言い淀む事もなく話し始めた。彼の中では既にまとめられていた話らしい。


「救護した者の中から、動けるものをまとめるのはどうだ。市民の保護には混ぜずとも、連携のとれたチームを作っておくのは悪い事じゃない」

 先に話した、人員が不足しているというぼやきへの解決策だろう、その提案。だが、と俺は首を振った。


「それ、海音ちゃんや海麗ちゃんの前で言える?」

 そこそこに痛い所をついたつもりだったが、兄はしかし、顔色一つ変えなかった。


 保護された女性陣は全員、素人が作る自警団の、――組織の危うさを知ったはずだ。弱者は切り捨てるなんていう酷薄を嫌という程その身に受けてきた彼女達が、この提案に納得するとは思えない。たとえ今はただの相談で、二人きりだからこその言葉でも、却下するしかない。


 ジェイドが口を開くより先に、俺は首を振って言い募る。

「俺達が自衛隊で、制服を着た一般人じゃないからこそ彼女達は安心できるんだろう? 確かに件の自警団よりかは荒れもしないし、させもしないけどさ」


 自衛官が率いていたといっても、所詮は一人の人間だ。その手に余って瓦解したのだろう事は容易に想像がつく。自衛官自身が下劣な思想の持ち主だったからこそ起こった事だとも認識している。隊として向き合うならパンデミックにおいて心強い集団になるかもしれない。


「けど彼女達にとっては違う。集団が出来るだけで脅威かも――」

「待て」

 静かに言われて、ぐっと言葉を飲み込む。

「紛らわしい言い方をして悪かった。俺を含め今回保護された人を、女性含めチームとして動けるようにしたい」

 先程の提案はどうも、かなりオブラートに包んだものだったらしい。その事にそろりと肩の力を抜くと同時に、顔をしかめる。

「それなら初めからそう言ってよ」

 兄がそこまで人の気持ちをはかれない奴だとは、思いたくなかった。だからつい、却下するための材料をきつい口調で言ってしまった。


 ジェイドが僅かに苦笑する。

「……これは俺のわがままだからな」

「わがまま、ねぇ。チームとしてまとめておきたい理由は?」

 腰を据えて聞こうと、ジェイドを真っ直ぐに見つめる。

「クワルツの言う通り、女性らには新しい集団は脅威だ。だからこそ今の、以前よりかは安心できるグループごと立場を作ってやりたい」

 テーブルに肘をつき、体を支える兄はほんの僅かに緊張している。しかしおそらく、まだ本題には入っていない。

 それを感じ取ったからこそ、俺はゆっくりと話を進める。

「確かに役割があれば人は安心するものだけど」

「最初の内は引き継ぎやらで大変になるかもしれないが、今は感染症と市民の保護への対応に人手を割きたいんだろう?」

 普段と変わらぬ口調。だが透けて見える焦燥に、胸がざわついた。嫌な予感がする。この話を今すぐにでも切り上げたい自分がいた。

 しかし兄はそんな胸中など知るはずもない。遠慮なく言葉を重ねる。

「女性陣にも感染者に対応できる者はいるから、何をやるかは本人らと相談しながら決めればいい」

 それから、と兄は金色の前髪から翠瞳を覗かせる。


「俺は桜木芽を探す」


 一度目はどうにか流す事のできたその話題。しかし真っ直ぐにかち合った視線は適当にあしらう事を許さない。

「……でも」

 手のひらに汗が滲む。どうにかしてこの話を却下しなければと思考を巡らせるが、却下するための材料は見つからない。


 事実人手は足らず、どこかから人を引っ張ってくるしかない状況だ。そして兄が信頼し、信頼されている者達からの協力を得られるとなれば好都合だ。要注意人物はいるものの、割合と精神状態の良い彼らにならば、協力を仰げるだろう。

 それに、兄は今回のパンデミックに深く関わっているらしい桜木芽を探すのに適役だった。なんせ彼は、桜木芽の顔を見ている。


 何もかもが、魅力的。現状を打破するに値する。

 俺はぐっと奥歯を噛み締めた。

「いや、そうだね。上に掛け合ってみる」

 兄が薄く唇を笑ませた。肩の力を抜いた様子に、俺は背を向ける。


 耐えろ、耐えろと、自身に言い聞かせた。

 廊下に出て、兄の視線が分厚い壁に遮られた途端、小さく言葉が漏れた。

「……守りたいのに」


 今度こそ。漸く何も知らない自分を脱したと思っていた。

 メガネを外しても殆ど何も変わらない視界の中に、過去を見る。



「お母さんは、すきだけど」

 口ごもれば、バチン、と大きな手のひらが薙ぐようにして顔を払った。

 痛いより先に涙が溢れたけれど、兄がすっ飛んできて、俺の上に覆いかぶさったから、恐怖はすぐに薄れた。兄が必死に何か叫んでいる。

 しかし平手打ちの衝撃か、耳はぼんやりと遠く、視界も滲んでいた。ただ兄が自分を守ってくれている事だけが分かって、彼の服を強く握りしめた。


 恐怖が体の隅々まで強ばらせていたからか、後の事はよく覚えていない。ただ警察に保護され、とりあえずの寝床についた時の兄の顔は、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。

 すっぽりと感情の抜け落ちた、人形のような。俺が話しかければ、反応はするものの、瞳はガラスのように焦点が合っていなかった。兄が心を閉ざしたとは、幼い俺でも察せられた。


 それから、俺は良く笑った。どんな時でも。飯村夫妻に引き取られる時も、日本語学級に入る時も、普通のクラスへ編入する時も。楽しそうだ、面白そうだと。

 兄に笑って欲しかったからだった。しかし兄はそんな俺を見て目を逸らした。その顔に殆ど感情は浮かばないのが、何故か腹立たしかった。


 日本に来てからも、どこか魂の抜けたように過ごしていた彼は、ただ一度、俺がメガネをかけ始めた日に涙を流した。


 父に頬を張られたあの時から、視力が弱くなっていたのだ。左目だけが異常に弱っていたからそうと気づけたが、兄はその経緯を聞くや否やみるみる内に顔を青ざめさせた。

 取り乱しはしないが、明らかにショックを受けた様子の兄は、それからどこか怯えたように俺と接するようになった。

 たった一人の肉親に怯えられ、目を逸らされる。それも罪悪感などという身勝手な感情で。それにナオトやユズさんだって、兄に元気になってもらいたいと手を尽くしていたのだ。それを知らず、無下にし続ける兄。


 耐えきれなかった。馬鹿な兄貴だ。愚かで、どうしようもない。俺はジェイドの事が大切なのに、お前はそうじゃないのか。


 大切だから触れられないのだと分かっていても、矛盾した苛立ちは募った。だから小学生の頃、兄が自室に来たのを見計らって、わざと二段ベッドの上から落ちた。思い返せばただの試し行為で、俺も馬鹿だった。

 結果、兄は俺をきちんと受け止めた。共々にほぼ十字になる形で床に転がる。落ちる前に体を滑り込ませた兄は、痛みに呻きながらも、俺の頭に手を置いた。

「怪我、怪我は」

「ない」

 クラつく頭を振って兄を見やれば、ほっとしたような顔をしていた。しかしそれも一瞬の事で、兄はすぐに体を起こす。

「なら起きれるだろ。ほら」

 どこか投げやりな口調で、兄が俺の肘を掴んで起こそうとする。俺はそれに抗い、手を振り払った。

「待って」

 自分で体を起こし、逃げられないように相手の膝を抑えつける。

「何で避けるの? おれの事きらいなの?」

 ふいっと兄は嫌がるように顔を逸らした。それに苛立った俺は兄の顔を覗き込み、兄にとって無視できない言葉を吐いてやる。


「おれが、あいつに似てるから?」

 弾かれたように兄がこちらを見た。凍りついていたはずの瞳は、濃く燃えている。噛み付くように、兄は言った。

「そんなわけないだろ!? 何で、そんな」

 思った通りの反応に笑みが浮かびそうだったが、何とか堪える。漸くこちらに向き合ってくれたのだ、この機会を逃すわけにはいかない。

「おれの事避けるからでしょ。違うなら何で? 言うまでどかない」

 きっぱりと宣言すれば、僅かに兄の力が抜けた。それから長い沈黙が部屋に落ちる。俺は兄が言葉を発するまで、辛抱強く待った。漸く、兄は言葉を絞り出す。

「……俺のせいで、クワルツの目が」

 はーっと俺は息を吐き出した。それをどう捉えたか、兄はびくりと体を震わせた。

「ごめん、俺が守ってやれなかったから。お母さんに言われたのに。お母さんも、お前も守ってやれなくて、俺が」

 堰を切ったように溢れる自責を聞いていられず、俺は兄の首に手を回して抱きしめた。あぁ、この体が暖かくてよかった。硬く冷えていたら、兄を抱きしめられなかった。


 血が通っていて、良かった。


「そんな昔の事謝れなんて言ってない。おれは今、お前が、ジェイドが不幸そうな顔してるのが嫌なだけ」

 もうお前は幸せになれるのに。


 兄は俺の言っている意味が良く分かっていないらしく、言葉を発する前の息だけを吐いて固まってしまった。きっと自分の気持ちさえ分からないのに、俺の気持ちが分かるわけがないのだ。

 だから、これだけ。

「お医者さんはね、成長するにつれて目も治っていくだろうって」

「……本当に?」

 微かに声に色がついた。ようやっと滲んだ、嬉しそうな感情に泣きそうになる。ユズさんはジェイドにきちんと説明していたのに、その時は伝わっていなかったのだろう。


「本当だよ。だからおれの事無視しないで。ユズさんとナオトの事も。ジェイドの事、皆心配してるから」

 やはり戸惑うような雰囲気に、今度は苦笑してしまう。どうせ、どうして心配されるのか分からないのだろう。

「今はいいから、とりあえず色んなこと無視しないで」

 真っ直ぐに見つめると、兄はその顔を神妙に引き締めて頷いた。


 今度は俺が兄を守るのだ。傷ついてしまった兄を。

 とはいえ、そこからは穏やかな日々だった。兄も少しずつ回復して、家族とは普通に話せるようになっていった。


 他人と交友関係を築くのはからきしなようだったが、転機が訪れたのは中学生の時だった。隣に越してきたらしい同級生の男子と兄が関わりを持つようになったのだ。

 隣だから、同じ中学校に通っている弟の俺とも顔を合わせる機会はある。二人になったその時に、兄の話をそれとなく振った。

「あぁ、お兄さんはね」

「兄は、あんまり」

 少し困った表情に、俺は分かったようなフリをして頷き、少しだけ言いかける。隣人はそれだけで口を滑らせた。

「僕の意図が伝わらないことは、あるかな」

 やはり、と俺は胸の内で苦笑する。しかし隣人の話し口調には要所でプライドの高さが見え隠れしていた。

 そこに引っかかりは感じつつも、出会えば軽く雑談をするような仲を続けていた。世話好きなようで、良く話しかけてくれる人だった。


 しかしある日、兄とその人が喧嘩したのだと、部活中に顧問から報せが来た。顧問は気遣いからか、皆から離れた場所で、兄が手を出したのだという事も伝えてくれた。


 耳の奥に平手打ちの弾ける音が響いて、ゾッとした。これではまたあの、ガラス玉のような瞳に戻ってしまう。


 急ぎ足で職員室へ向かえば、兄は既に学校を出たらしかった。ユズさんも一緒である事や、担当教師から様子を聞いた限りは落ち着いているらしい事も併せて、少し安堵する。

 しかしどのような事情であれ、兄は誰かを傷付けた自分自身を酷く責めるだろう。――実父と同じ事をしたと。


 いつもの通学路を走り、兄とユズさんを探す。

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