未来に近づく手
隔離から一週間と少し、クワルツの言っていた専門家が霞ヶ浦駐屯地に到着した。てっきり複数人で来るものだと思い込んでいたが、聞き取りに来たのは一人だけのようだった。我慢しきれなかったらしい、と大賀班長が含み笑いで言っていた。
専門家だというその男は、細身でいかにも学者といった風貌だった。壮年のように見えるが、どうも多少は体を鍛えているようだった。切れ長の鋭い瞳が、興味深げにこちらを覗き込む。既に感染者に噛まれた事、それにも関わらず発症していない事は伝わっているのだろう。
「君か、感染者に噛まれたっていうのは」
「飯村ジェイドです。暴動初期に噛まれました」
どうせ採血するのだからと、噛まれた左腕の袖をまくる。失敬、と男は腕を掴み丹念に傷跡を見た。
「本当に、人の歯型だな……失礼、挨拶が遅れました」
男は居住まいを正し、視線を初めてこちらに合わせる。
「国立感染研究所所属芹内と申します。今日は感染時のお話を伺いに参りました。早速ですが」
軽く会釈をした芹内の、その目がどこか興奮気味に光っていた。医官にも言われたように、傷も浅く、すぐに血も絞ったものだから、熱を出した程度で済んだ事は、事例として無いわけではないだろうに。
「噛まれたのは正確にはいつ頃でしょうか。発熱以外で明らかな体調の変化は? その時に何か特別な事はしましたか」
「おそらく二月辺りです。他は、特には何も。……そこまで珍しいですか」
答えられぬことが申し訳なくなる程の食いつきの良さに、思わず聞き返す。すると芹内は深く頷いた。
「自衛隊の保護の度確認していますが、誰も。同様に浅く噛まれて生き延びた者は居ますが、発熱して生き延びた者は居ない」
発熱したということは、ウイルスが体に入ったというのが明確なのだろう。つまり、と芹内は少し上擦った調子で続けた。
「あなたはウイルスに対して抗体を作れるのかも。ひとまずは血清が作れるかどうか、試してみます」
話の間に準備ができたらしい医官が、腕にゴムを巻き付ける。採血はものの数分で終わり、芹内が再度口を開いた。
「これで抗体が発見できたら、あなたはこの世の救世主ですよ」
真剣な眼差しに、俺は小さく苦笑した。それは俺の功績ではないだろうに。歴史に残るのは、芹内やその周辺の学者の名前だろう。
「あとは、感染者のほうに何か異常は見られませんでしたか」
問われて、苦い味が口に広がった。しかし答えなければならない。どの要因が俺を生き延びさせたのか、芹内は慎重に見極めたいのだろう。
「感染者は四、五歳の幼児でした。彼女自身噛まれての感染と言うよりは、血液の付着した手で目口に触れたことによる感染だと思います。俺が噛まれたのは、その子が発症してすぐの事です」
感染源はおそらく母親だ。母親の頭部にしがみついていた小さな手を思い返して、知らず眉が寄った。
芹内は束の間考え込む素振りを見せたが、そこに俺が生き延びた要因は見いだせなかったらしい。ふと表情を変えると、芹内は訝しむ口調で尋ねてくる。
「そういえば、人らしくない感染者にでくわしたとか」
俺は軽く息をつき、クワルツに話したこととほぼ同じ内容を伝える。
「……その感染者は傷一つありませんでした」
目前に迫る巨体と対峙して、刹那の疑問だった。壁を突き破り、幾つかは銃弾が肌を掠めたはずなのに、その顔や皮膚にはかすり傷一つ無かった。
頭の片隅に追いやっていたそれは、もう一つの光景を思い起こさせる。煙と炎を上げる車で傷を負っていた、医師だというあの男性。
「もう一人、感染して傷が瞬く間に治った人を知っています」
芹内は胡乱げに眉を寄せた。そもそもあの化け物の話でさえ、簡単に信じられるものではないのだ。
「男性です。理性を失うまでの症状は発熱だけ、意識混濁は」
言いかけて、俺は束の間口を噤んだ。薄暮に滲む、毛布に包まれた遺体。
「分かりません。その前に心臓を刺しました」
芹内の目が僅かに見開かれて、しかしすぐに表情を戻した。軽く頷いて続きを促されたことに内心安堵しつつ、口を開く。
「その後、傷が治っている事を確認して、頭を撃って処理を」
「頭を撃った後に生き返ることは?」
俺は首を振った。少しの間様子を見ていたが、動き出す気配はなかった。
しかし一日や二日では治るはずのない傷が、調達に出たあの数時間で治ってしまった。その時感じた戦慄を、芹内は同じく感じ取ったらしい。
「……ウイルスは、変化が早い。大抵は人に感染していく中でその威力は弱まります。殖えることが目的ですから。ですが傷の治りが早くなるというのはどうも」
顎を手でさすり、伏し目がちに、憂うように芹内は続ける。
「自然には考えにくい変化です。自衛隊に送られた感染者への注意喚起がここまで含まれていたのなら、他の情報も信じて良いでしょう」
芹内が斜め後ろに控えていた大賀班長へ視線をやる。
「他の情報?」
感染者への警告と、桜木研究所への警戒を促す以外にも、匿名の人物は情報を自衛隊へと送っていたらしい。
怪訝に眉を顰めると、大賀班長は軽く頷いた。それを認めた芹内が口を開く。
「ええ。……このウイルスは感染すれば我々の遺伝子を組み換えられる、と」
顰めた眉は、しかし答えを聞いても解けなかった。
「そんなことが、できるものですか」
遺伝子組換など、食品関係でしか聞いた事のない代物だ。それが俺たちの遺伝子を変えるなどと。
「容易ではありません。ですが出来ます。今の技術であれば、病の原因である遺伝子の配列を切ることや、そこに正常な遺伝子を組み込む事も。しかし熟練した研究者にしか扱えません
そこにきてウイルスを使い遺伝子組換を可能にし、ましてやそれに拡散性を持たせるなど、到底信じられない事なんです」
今回の話で情報の信憑性が増したのだと、芹内は言う。次いで思い出したように苦笑した。
「……ただやはり、その化け物に関しては有り得ないとしか。確かに遺伝子の配列を変えられるのなら、筋骨隆々にしたり、体を頑丈にする事はできますが。もし人の手が入っているなら、余程頭のネジが外れた人でしょう」
俺は桜木芽の言動を思い返し、内心でため息を吐く。ネジの外れ具合は、あの化け物を生み出す程だったのか。まだ見当がつかない。
黙り込んだ俺に、芹内は僅かに笑む。
「ともかく、血液もいただけたうえに、良いお話も聞けました。今日は大収穫です」
わざとおどけた調子で言うのは、俺の懸念を感じ取ったからだろうか。見かけによらず、その言動にこまやかな配慮が見えた。
「あまり詳しい事は言えませんでしたが」
「十分です」
芹内は首を振り、医官に目配せする。
「私は研究所に戻って出来ることをやりますが、何かあったら連絡を」
来たばかりだというのに、すぐに帰るらしい。ここには研究のための設備も無いから当然だろうが、負担は大きいだろう。その苦労を思えば、自然と言葉は出た。
「お気をつけて。……よろしくお願いします」
頭を下げ、芹内と医官を見送る。これで抗体やワクチンができれば、桜木だけに頼らなくても良いのだろう。
閉じられた扉から視線を外し、俺は軽く息をついた。
「何だか久しぶりねぇ」
扉口に立つ熊谷が、にっこりと笑う。
「筋肉痛で参ってたらしいな。今は平気か」
「むしろ前より元気よぉ」
ぐっと、力こぶを見せるように片腕を曲げる熊谷は、確かに顔色も良さそうだった。その背後にクワルツしか居ないことを確認して、俺は口を開く。
「他の奴らは来ないのか?」
「えぇ。私一人だけ」
ならばと俺はクワルツへと視線を滑らせた。
「悪いが、会話の聞こえない距離まで離れてくれないか」
「えー、仲間外れ?」
軽い調子だが、隔離をうたっている手前、万が一にも接触があったらまずいのだろう。顔はしっかりと渋面を作っているクワルツに、頼む、と目で訴える。
ややあってクワルツが小さくため息をついた。
「……仕方ない。少しの間だけね。一歩でも部屋に入ったら貴方も隔離ですからね」
熊谷にも釘を刺したクワルツは廊下の向こうへスタスタと歩いていく。それを見送った熊谷は感心したように頷いた。
「本当に聞こえなさそうな距離まで行ってくれたわぁ。律儀ねぇ」
「良い奴だろう。そこの椅子、自由に使っていいぞ」
あまりにも人が来るものだから、いつしか部屋の前には椅子が置いてあったのだ。持ってきたのは大方秋か三ノ輪だろう。
「ありがと。人気者ね」
丸椅子に腰を下ろす熊谷に、俺は首を傾げた。
「もう男口調でも良いんじゃないか?」
熊谷にとっては、どちらも素の口調だと言っていた。しかし大多数の前では女口調が常だと思わせたいはずだ。今、会話を聞く者は他に居ない。
だからこその発言だったが、呆気にとられた顔で、熊谷はしばし固まる。
「なんで?」
「一人で来たのはそっちの口調で喋りたいからだろう? 違うのか」
重ねると、熊谷はゆるゆると首を振った。
「こっちの口調は家族向けだったからね。何だかんだ気が緩む。ありがとう」
確かに大勢と居る時とは顔つきが違う。口調一つで変わって見えるものだなとぼんやり考えていると、熊谷は窺うようにこちらを見た。
「海音ちゃんの怪我の事、聞いた?」
「ああ。無茶をする」
しかも今回は無茶と知りながら行動に移したのだからタチが悪い。
「僕がもう口うるさく言ったから、あまり怒らないであげてよ」
苦笑気味な熊谷に、知らず眉が寄った。
「どうだろうな。叱らずにはいれるかもしれないが、怒らない約束はできない」
「自分に対して、でしょ。それはただの八つ当たり」
痛い所を正確に突かれて、俺はふいと視線を逸らす。
「……僕が来たのはね」
僅かに沈んだ声に、俺は熊谷へ向き直った。わざわざ一人で来た事から、何か相談事があるのだろうとは思っていたが、内容については皆目見当がついていなかった。
グループ内での対立を避けようと動く熊谷の事だから、また何か諍いが起こったのかもしれない。顔を引き締め、促すように頷くと、熊谷は先程と変わらない調子で続けた。
「恋バナするため」
「は?」
伏し目がちに俯く熊谷に、聞き間違いではないかと額をおさえる。
「恋バナするために来たよ」
察しの良すぎるこの男は、何を言わずともその単語を繰り返した。聞き間違いではなかったらしい。今度こそうなだれる。
「……本気で言ってるのか?」
「……そうだけど?」
何故お前が怪訝そうにする。
「そういうのは弟の方が得意だよ」
一気に気が抜けて、返事はおざなりになった。それが気にさわったのか、熊谷が不満げに眉根を寄せる。
「まだ恋バナできるくらい仲良くない。ま、恋バナって程可愛らしい話でもないけど」
俺は軽くため息をついて、左脇にあるベッド柵へ腕を乗せた。
「とりあえず話してみろ」
聞く姿勢を見せると、熊谷はほっとしたように頬を緩めた。しかしそれはすぐに困ったような笑みに変わる。
「海麗ちゃんがね、僕の事を好きだって」
「それは、」
目の前の途方に暮れた顔に合点がいく。それは確かに、困るだろう。
「いつ」
「デパートを離れる直前」
また随分と前から思い悩んでいたものらしい。二人ともに変わった様子は見られなかったから、全く気づかなかった。
「それで、どう返事したんだ」
問うと、熊谷は力なく笑った。
「世の中が、世界が元通りになったら返事するって」
ふ、と胸の底が疼いた。
「逃げたな」
「逃げた。悪役にも王子様にもなれる気がしなかったから」
だから、返事を世界に委ねた。元通りになる時など、曖昧な期限だ。その保証もない。
「……間違えたと思う?」
不安に揺れる声に、俺は逡巡する。待つ身としては、これ以上無いくらいに辛い言葉だろう。だが、そう答えてしまう気持ちは否定したくなかった。
ゆっくりと言葉を選び、俺は口を開く。
「でもお前だけが言えることだろう」
彼女の心身を守れるお前だけが。他の誰がその返事を間違いだと言っても、口にする権利は、きっと彼女の周りでは熊谷しかいない。
腑に落ちない顔をしている熊谷に、俺は付け加える。
「間違いかどうかなんぞ、後からでしか分からないと、俺は思う。だけどその時お前が言える事はちゃんと言えたんだろう。内容はともかく、行動は正しいはずだ」
逃げだろうが何だろうが、本心に嘘をつかずに答えたという、その行動だけは肯定できる。
「そうかな」
目の奥に点っていた硬い光が和らぐのを見て、胸を撫で下ろす。だから俺は、ちょっと笑って付け加えた。
「お前の悩む顔が早く見たいよ」
「人生で一番悩むだろうね」
返事をしなければならないその時が、早く来ればいい。
不安げに唇を結ぶ顔を、揺れる深い緑の瞳を思い返す。先に感じた疼きが、形を成していた。
色んなものを守りきれなかった自身の手を、ぐっと握りしめる。
いくらか気が軽くなった様子の熊谷を見送り、昼食を持ってきてくれたクワルツに話を振る。
「クワルツ、一つ提案があるんだが」
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