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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第三章
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私だけの審美眼

 頬に陽の当たる暖かさで目が覚めた。少しの期待を胸に窓を見上げれば、鈍い銀色が覆うその一部だけ、僅かに太陽が顔を出していた。けれどその太陽もすぐに雲に隠れた。頬に当たっていた暖かさが消える。今日も一日中曇天が続くのだろう。

 次に時計へと顔を向けて、私はため息をついた。時刻は朝の七時過ぎ。はるさんが朝食を持ってきてくれるまで、あと一時間弱もある。


 隔離されて二日目。本当に、する事がない。それから実感するのは、白樺さんや海麗ちゃんの存在がどれだけありがたかったかだ。彼らと出会う前だってジェイドさんが居た。話せば何か返ってくるという安心感は、実は結構大事だったんじゃないかと思う。

 はぁ、と二回目のため息をつく。一人で居ることの問題は、次々と嫌な記憶がフラッシュバックする事だ。忘れられていたのは彼らのおかげだった。


 もう読み終えてしまった小説に手を伸ばす。物語は入ってこないけれど、文字を追うのは良い暇つぶしになる。

 数枚、数十枚。既に頭に入っている物語をもう一度読み込んで。私はちらりと時計を見上げた。

「まだ十分しか経ってない……」


 ぱたりとベッドに倒れ込めば、硬いマットレスが僅かに振動する。それはまだ、ほんのりと暖かい。




 私は朝食を食べながら、さりげなく視線を壁際に滑らせた。そこには二人、私達を見張るように自衛隊の人が立っている。

 そろそろ海音ちゃんに会いに行きたい。保護されてすぐの昨日は一日中眠ってしまった。誰かとすぐに会える状態の、退屈さとしてはデパートに居た頃と変わらない状態の今、誰とも話せず何も出来ない海音ちゃんはどれだけ暇を持て余しているのか。


 今日のご飯は食パン一枚とミニトマトだった。明日はスクランブルエッグの日だよと、配膳してくれた女の人が笑っていた。その時に海音ちゃんに会いたいと言えれば良かったのに。

 若干後悔しながら、私は二人の男の人のうち、どちらが優しく取り合ってくれそうかを考え続けた。


 食事を終え、お盆を下げるためにキッチンの方へ向かう。返却口へお盆を差し込んだタイミングで、もう一つのお盆が横から差し込まれた。

 見上げると、白樺さんだ。こちらの視線に気づいたのか、彼は僅かに眉を寄せて、挨拶もなしにため息をついた。

「嫌悪感が露骨すぎるんじゃない?」

「難しい言葉使わないで。別に嫌悪感とかないし」

 ただちょっと、まだ認められていないだけだ。私はご馳走様を厨房に投げかけ、お盆から手を離した。

「……ねぇ」

 声は少し細くなった。背を向けかけた白樺さんは、けれど私を振り返る。

「あの、海音ちゃんに、会いに行こうかなと思ってて」

 あー、と白樺さんが察したような声を上げた。それから彼は壁際に視線を向ける。

「あっちにいる左の人、俺その人に会いに行きたいって言っといたから。同じタイミングで行けるように言おうか?」

 私はこくこくと頷く。ほっとした心地で私は口を開いた。

「ありがとう。どこで待ち合わせすれば良いの?」

「十時くらいに行くつもりだから。宿舎の前に居てくれれば良いよ」

 それだけ言うと彼は、じゃあ、と簡素に投げかけて背を向けた。


 その背中を見送ると、いつの間にか彩瑛さんが背後に立っていた。気配も何も感じなかったので、肩が跳ねる。

「わ、彩瑛さん」

「あはは、ごめん。びっくりさせちゃったね。海音ちゃんの所に行くなら私も行きたいんだけど、着いていってもいい?」

 上目遣いの彼女に、私は笑って頷いた。出会ってからずっと彩瑛さんは私を気遣ってくれる。でもどこか一線は越えないような、他人のままで居たいような雰囲気だった。

 それが少しずつ、解けてきている。歳の差はあるけど、それでも同性と仲良くできるのは嬉しい。

「十時に宿舎の前だって。何持っていこうかなぁ」

「絶対に暇だよね、あそこ。遊べるもの持っていこうか」

 彩瑛さんと他愛ない話を続けつつ、私は白樺さんとの会話を思い返す。

 あの人も気遣ってくれたのだ。私が男の人を怖がっている事に気づいて、話さなくても良いようにしてくれた。

 あーあと心の中で唸る。男の人への拭えない嫌悪感が罪悪感に変わってしまう。でも絶対に信じきれるかと言われれば、まだわからない。

 正直に言ってまだ怖いのだ。海音ちゃんの周りに居たような人達はまだ話せる。でも他の人はすれ違うだけでも体が固まる。その一瞬で何かされないか、恐ろしかった。




 コンコンとドアがノックされた。私は半分ほど読み終えた本をベッドに置いて立ち上がる。まだお昼には早い。

 返事をすれば、ドアからはるさんが顔をのぞかせる。どこか悪戯っぽい顔で微笑んでいるのがマスクの上からでも分かった。

 首を傾げると、はるさんの後ろから海麗ちゃんがひょこりと顔を出した。

「海麗ちゃん!」

 私と目が合った彼女がぱっと微笑む。私が二、三歩進みかけると、はるさんがこちらに手のひらを向けて制止した。

「ストップ。私以外はこの部屋に入っちゃダメだから。海音ちゃんは室内から、他の子は廊下からお話するんだよ」

 大賀さんは窓越しなら、と言っていた。それなのにこうして対面で会えるのは気遣いだろうか。

 私はこくこく頷き、姿勢を元に戻す。はるさんが体を横にずらすと、海麗ちゃんの他にも見知った顔が見えた。

「白樺さん、彩瑛さんも」

 目を丸くすると、更にその隣から八木さんと三ノ輪さんが顔を出す。

「お、元気そうだな。手の方は」

「だいぶ良くなってます」

 傷口は乾き、痛みも多少はましになっている。それを見せれば、三ノ輪さんは軽く頷いた。

「痕にはなるだろうけど」

 少し気の毒そうな様子に、私は小さく首を振ってみせた。

「気にしません。それに、ジェイドさんとおそろいですよ」

 ジェイドさんが火傷を負ったのは右手だけれど。小さく笑ってみせると、三ノ輪さんは呆れた様子でため息をついた。隣の八木さんもそんな顔をしていて、私は慌てて取り繕う。

「お医者さんにも診てもらったし大丈夫ですよ、本当に」

 次の検診は隔離期間が明けてからだ。医官の男性はこの駐屯地と保護した市民を集めた地域とを行き来しているらしく、かなり忙しいスケジュールのようだった。

「そうだ、ジェイドさんは」

「ジェイドなら元気だよ」

 扉の影から飯村さんが現れた。曇りの光量でもはっきりと見える、深い緑色の瞳。加えてジェイド、と慣れ親しんだような呼び方。

 その目を見て、とりあえず胸を撫で下ろす。元気の程度は分からないけれど、心配させまいと言っているふうでもないのだから、やっぱりジェイドさんは疲れきっていただけなのだろう。

「良かった。……あの」

 白樺さんと目配せをして、私は意を決して口を開いた。

「ジェイドさんとは、お知り合いですか」

「? うん」

 若干遠回しになった言い方に、飯村さんは事も無げに頷いた。

「っていうか、兄弟」

 やっぱり、と私と白樺さんは頷き合う。以前に聞いた、一つ年下の弟はこの人の事だ。

 それからふと疑問が湧いて、私は首を傾げた。ジェイドさんは苗字がフローレスだ。でもこの人は。

「飯村さん、ですよね。ジェイドさんとは苗字がちが、」

 疑問をそのまま口に出そうとして、何やら白い紙を広げた白樺さんに遮られた。

「わー! わーわー! 見てこれすごろく作ってみた皆でやろ? ね?」

「うるさいな君」

 飯村さんが急に大声を上げた白樺さんに眉を顰める。白樺さんはその視線から逃げるように用紙を持ち上げた。

「いいじゃん飯村さんもやろう?」

「……自己紹介すごろく、ねぇ」

 内容を読んだらしい飯村さんは感心したように顎に手をあてがう。

「良いよ。そちらの――三ノ輪さんと八木さんもやりましょうか」

 唐突に水を向けられた二人があからさまに嫌そうな顔をする。それに対し飯村さんはにっこりと笑ってみせた。

「信頼を得るには自己開示しませんと」



 そうして始まったすごろくは、そこそこに出来の良いもので、さらに自己紹介すごろくという名の通り、上手いこと自己紹介が出来るものだった。

 名前、誕生日、好きな色に好きな食べ物。王道な話題のそれは、今まで一緒に居たにも関わらず知らない事ばかりで。

 私は海音ちゃんをちらっと見やる。楽しげに笑い、嬉しそうに他人の回答を聞いている。

「はい、海麗ちゃん」

 彩瑛さんから手作りのサイコロが渡される。私の番だ。サイコロを手の中で転がしつつ、次は何が来るかなとすごろくのマスを見て、私は少し迷う。今止まっているマスの三つ先に、――『一番のトラウマ』。

 紙製のサイコロは音もなくすごろくの上に落ちた。真上を向く黒い点は、三つ。

 三ノ輪さんが同じマスを見たのだろう、うわっと声を上げた。

「お前この質問は良くないだろ」

「いやっ、もっと軽いもんのつもりっていうか、その、答えたくなかったら飛ばしていいから!」

 何故か手をわたわたと動かす白樺さんに、私はきゅっと口を結んだ。

 信用を得るためには、自己開示を。

「……空気、重くなるかもしれないけど」

 一言置くと、周りがしんと静まった。手が震えている。

「私は、男の人がトラウマ、です。何でかまでは、ここでは言えないけど。ちょっとすれ違ったり、目が合うのも怖いです」


 この人達に言って、なんになるの。私を傷つけた、母親を傷つけたあいつらと同じ男なのに。海音ちゃんを傷つけたあいつと同じ生き物なのに。皆そうだ。私達より力が強いから何をしても良いと、だからこんな告白なんて、鼻で笑われて。


 違う。


 皆、真剣な顔で私を見ている。蛍姉さんも男だ。でも優しい。怖いと思った事なんてない。白樺さんは私を気遣って、わざわざシャベルも探し出してきてくれた。不知火さんも嫌な事はしなかったと、そう、私は彼を許せた。

「見下ろされるのとか、大きい声も怖いです」

 心臓がどくどくと脈打っている。ここから先を言ってしまえば、これから先、あの針のような自己嫌悪を抱く事になるだろう。

 けれどこれだけは、言わなければ。そっと、隣から手が添えられた。彩瑛さんの手だ。ゆっくりと自身の手に熱がうつっていく。

 私は俯きかけていた顔をくっとあげた。

「でも、最近ちょっとずつ克服してきてて。白樺さんとか、三ノ輪さんとか話せる人が増えてきてるんです」

 喉にわだかまっていた塊がすぅっと溶ける。そうだ、私は許す人も好きな人も選べる。男性なんていう縛りをあえてかけなくても良いのだ。

「だから、」

 言いかけてはたと気づく。そう言えばお題は一番のトラウマだ。途端に結びが分からなくなって、内心慌てる。

「えっと……うーん、仲良くしてください?」

 なんとか言葉を捻り出すと、三ノ輪さんが堪えきれなくなったように笑いだした。馬鹿にした笑いでもなく、嫌な気持ちにならないからりとした笑い方だった。

「三ノ輪さん笑うのはさぁ」

「白樺の顔が面白くてつい、悪い。御陵の事を笑ったわけじゃねぇよ」

 白樺さんの顔、とまじまじ見つめれば、彼は面白いほどに目を泳がせる。

「何でもないから。てか八木さんは? 八木さんはどう?」

「おい、つつくな」

 そういえばさっきは名前を上げていなかった。八木さんが鬱陶しそうに白樺さんの手を払う。

 うーんと私はまたも首を傾げる。もし、一人で八木さんに話しかけろと言われたら。

「八木さんは」

 私は人差し指と親指で少しだけ空をつまむ。

「ちょっと怖い」

「だって! 八木さんすぐ怒るもんな」

 我が意を得たとばかりに白樺さんが大きく頷いた。その顔には満面の笑みが浮かんでいる。

 その太陽みたいなピカピカの笑顔を始めて向けられたな、と考えてから私は自嘲する。この人に不機嫌な顔をさせていたのは、私だった。私がこの人に対してキツく当たっていたから。

「誰のせいだと思ってんだよ」

 賑やかになった雰囲気の中、飯村さんと目が合った。彼は微笑みながら首を傾げる。

「じゃあジェイドは?」

「見た目は怖いけど良い人、です」

 あと海音ちゃんと白樺さんには激甘なのも知っているので、あまり怖くはない。

「なら弟の俺も怖くないよね、オッケー?」

 ぱちっと丁寧にウィンクを付ける飯村さんに、私は曖昧に頷く。

「クワルツさん暴論すぎる!」

「そうかな。……ところで彼女はどうなってるわけ?」

 つっこみを適当にいなした飯村さんの視線を追えば、何故か海音ちゃんがはるさんに捕まっていた。両腕を後ろに抑えられてしょんぼりと俯いている。

「御陵の克服してきた、の辺りからそわそわし始めて、仲良くしてください、で立ち上がりかけてたからな」

 三ノ輪さんがまたくつくつ笑う。さっきはそれと併せて笑っていたらしい。私は不思議に思って俯く海音ちゃんをうかがう。

「でもなんで?」

「せめて一撫で! って言ってたよ」

 はるさんの言葉にさらに首を傾げると、彩瑛さんがあっと声を上げた。何に気づいたのか、素早く私を抱き寄せる。

「海音ちゃん、代わりにやっとくね」

 言うなり、髪をわしゃわしゃとかき混ぜられた。ぶはっと白樺さんの吹き出す声。

「戸倉さんめちゃくちゃ笑顔になるじゃん」

「え、これがやりたかったの?」

 それであんな風に取り押さえられたのか。じわじわと可笑しさが込み上げてきて、ついに私は声を立てて笑った。


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