桜木研究所
得体の知れない生き物が覆いかぶさってきたかと思えば、目の前が真っ暗になっていた。粘着質な音が耳を満たし、不快に撫であげる。ぞっと鳥肌が立てば、刺すような痛みが頬に弾けた。叫ぼうとして口に液体が入ってようやく、中が大量の粘液で満たされている事に気づく。もがこうにも、体は肉に阻まれ動かない。
――消化されているのだと、直感的に悟った。
びくりと体が震えて、目が覚めた。水中からやっと出られたような開放感。はぁっと大きく息をつけば、冷たい布が額に当てられる。
「おはよう。平気……じゃなさそうねぇ」
覗き込む赤眼に瞬きをする。体を起こそうとすれば、お腹がじわりと痛くなった。
「っ……」
「まだ痛むでしょう。横になっていて」
肩を押され、素直に元の体勢に戻った。そういえば、あの生き物の体液は肌にチクチクと刺激を残していた。それを飲み込んだのだから、とそこまで考え、私は目を閉じた。あの体を内側から食い破られるような痛みは、思い出したくもない。
「もう少し眠る?」
雪さんの問いかけに、私はまぶたを持ち上げ、ゆるゆると首を振った。瞳だけを動かし、他二人を探す。
手前にはあさひさん、奥ではじめさんが首を傾けて眠っていた。
「寝てても良いんだよ」
目の合ったあさひさんが微笑む。片目の焦点が微妙に合っていないような気がするけれど、彼もあの生物の胃酸を浴びたのだろうか。
だから、だから。
「眉毛が……」
思わず眉を下げると、雪さんが勢い良く吹き出した。
あさひさんががくりと項垂れる。隣ではツボに入ったらしい雪さんが肩を震わせて笑っていた。
「眉毛なんてすぐ生えるし」
あさひさんが唇を尖らせる。拗ねた様子の彼に私も笑いの発作が起きかけて、お腹の痛みにうっと呻いた。
「真美ちゃん?」
うかがうような彼に、頭を振って平気だと伝える。今の私は笑うのも一苦労らしい。
そういえば雪さんも胃酸でベタベタの私にたくさん触れていた。彼女の手元に目をやって、瞠目する。
「雪さん、その手……ごめんなさい」
銃を持っていた彼女があの粘液に触れる機会など、私を助ける時しかないだろう。少し手を伸ばすと、彼女の手が重ねられた。
「大丈夫よぉ、もう治ってきてるんだから」
それより、と彼女はあさひさんに視線を向ける。
「アレは、いったい何なの?」
私を飲み込んだあの生き物。中身は液体で満たされた袋のようなそれは、正直生き物とも思いたくなかった。
あさひさんは軽く頷くと、ホワイトボードのそばへ立つ。使い込まれて薄黒いホワイトボードは、今は夕日に照らされてオレンジ色だ。
「アレは対感染者用の掃除屋だ」
ぞっと、うなじに鳥肌がたった。消化されているという感覚は正しかったのだ。
雪さんが足を組み替えて口を開く。
「あの体液、酸みたいなものだと言っていたけれど」
「そう。でも中身は全くの別物。アレの説明をするにはもう少しこの感染症について話さなきゃいけない」
簡単に言おう、と彼は私を見て頷いた。
「ジャンクDNAの話、したでしょ」
塩基の文字化け。体にどう機能しているかが分からないDNA、それを解明できれば病気の治療に役立つ。
「俺たち桜木研究所は、その中で恒常性に関するDNAを見つけ出した」
また馴染みの無い単語が出てきた。私はぎゅっと眉間に皺を寄せる。
「それは何? 大発見なの?」
「上手く研究できれば病院で閑古鳥が鳴くだろうね」
はじめさんが力なく笑う。顛末を私達より知っている彼は、それが引き起こした惨事についても良く理解している。
「簡単に言えば体を正常に保つ性質のこと。これがきちんと機能すれば健康体でいられる」
病気になりにくく、体のバランスを保つためのそれ。今までの話から考えてそのホメオスタシスというものを制御、また向上させる何かを桜木研究所は掴んだのだろう。
「……でも、あんな、ゾンビみたいになるなんておかしくないですか」
どろりと溶けた皮膚は異臭を放ち、どこもかしこも膿だらけ。そのホメオスタシスというものが機能していればありえないはずだ。
「あれは代謝だ。細胞の入れ替わり。それが異常に高くなってああなってる」
つまり新しい細胞に押し出されて、古い細胞が膿んでいると。
「……入れ替わった細胞、っていうのは」
雪さんが思案顔のまま口を開く。彼女もゆっくりとあさひさんの説明を咀嚼しているらしい。
「ウイルスの持つ遺伝子が組み込まれた細胞だ」
あさひさんがホワイトボードに丸を二つ書く。その一つにウイルスと書き付けた彼は、さらに下に直線と波線を交互に描く。
「このウイルスの遺伝子のベースは桜木芽。そしてこの部分」
波線をもう片方の丸へと矢印で引っ張る。桜木芽は名前からして研究所の一員と考えて良いのだろう。既に遺伝子のベースについて理解できていなかったが、私はじっとあさひさんの手を追う。
「この部分に、ホメオスタシスに関する塩基と、人体を頑丈にする遺伝子が入ってる」
つまりそれを組み込まれた人間は、人間離れした体力と筋力を得るのだ。
「桜木芽がベースである意味は?」
はじめさんが厳しい声で投げかける。
「彼女がデザイナーベビーだからだよ。ホメオスタシスの向上や安定を見つけ出したのは桜木芽。人体を頑丈にする遺伝子は、桜木芽が持たされたもの」
「デザイナーベビー?」
聞きなれない単語を繰り返すと、はじめさんがこちらに目もくれずに説明する。その瞳には怒りがありありと浮かんでいた。
「遺伝子組み換えをした受精卵を、そのままに成長させた子の事だよ。……遺伝子治療として認められない限り違法だ」
ぎり、とソファを強く握りしめる音が聞こえた。
「しかもその言い方。これは紛れもなく人体実験だろう!?」
わざわざ法に触れると言われずとも分かる。これは道徳の問題だ。人の手で人を変えてしまうだなんて、いったいどんな思考で。
桜木芽は被害者なのだろう。勝手に体を決められてしまった。
「そうだ」
あさひさんは冷めた瞳ではじめさんを見下ろした。
「お前の働いていた場所は、そんな所だったんだよ」
勤めていた場所が道徳に反する人体実験を繰り返し、その果てのこの状況。
はじめさんは額に手を当て、どこか諦念を含んだ声で絞り出す。
「最悪だ。何も知らなかった、ただ僕は……」
でも、と彼は顔を上げた。
「ここまで正確に遺伝子組み換えはできない。そもそもそのウイルスはどうやって遺伝子を組み込んでいるんだ」
まだ私達は全てを知らないのだ。気持ちを落ち着けるように、ゆっくりと息を吐く。いつの間にか腹痛はおさまってきていた。
「ウイルスは遺伝子のコピーの仕方が人間と違う」
あさひさんの目がこちらを向いた。
「ヒトの遺伝子は紙に書かれた説明書って言ったでしょ。あれをコピー機でコピー、それかハンコで写す事を考えてみようか」
コピー機はよく知らないけど、ハンコに彫るなら一度鏡文字になるだろう。ハンコにインクをつけて紙面に押せば遺伝子情報の書かれた紙がたくさんできる。
「……遺伝子を反対にしてからコピーする?」
思いついた事をつぶやくと、あさひさんは少し微笑んだ。
「そう。そうやって遺伝子をコピーして、細胞を作っていく。でもウイルスはコピー機やハンコに当たるものが無い。ぐるぐると回りながら遺伝子を繋ぐんだよ。だから自分じゃ複製できなくて人間の細胞に自身の遺伝子を注入して増えるわけだ」
それはもはや寄生だ。肉眼で見えないウイルスにそんな機能が備わっていることにぞっとする。殖えるため、ただそれだけのために存在するウイルス。
「そのウイルスに今話した遺伝子を組み込めば、あとは勝手にぐるぐるとその遺伝子を回してくれる。そのままヒトに感染すれば、遺伝子が組み換えられてああなるわけ」
なるほど、と私は頷いた。きっと彼はごく簡単に話してくれているから、これが全てではないのだろう。けれど何となくは、理解できた。
はじめさんがソファに背を預け、脱力したように息を吐いた。
難しい顔をしていた雪さんが、ふとあさひさんへ目を向けた。
「あの掃除屋は?」
「あぁ。あの俺達にとって強い酸性を持つ体液は、全部桜木芽の細胞だ。俺達は多分、ウイルスの遺伝子を持った細胞同士かち合うと強い方が食われるんだよ。
一番強いのは桜木芽の遺伝子、これは体の説明書として完璧だろうから……まぁ、あらゆる感染者にとっての毒だな」
多分、とつけたから、まだ彼の中では推測なのだろう。けれど穴あきのある説明書よりも、完璧なものがコピーされやすそうなのも確かだ。
私はゆっくりと起き上がる。さぁっと血の下がる感覚はあるが、なんとか座れそうだ。手を差し出しかけた雪さんに目礼して、私は気になっていた事を口に出す。
「あの、ボロボロのゾンビと私達の違いって、なんですか。どうして色が抜けちゃったんですか?」
他のゾンビは、私達よりもすぐに回復しない。理性もない。それに白髪赤眼の個体は今まで見当たらなかった。
「そこだよ。他はともかくこんな風に色素が抜ける理由がわからない」
あさひさんが自身の目元に触れる。まぶたの辺りに引き攣れのようなものができていた。
「俺達に理性があるのはおそらく、発症前に死んだからだ」
あさひさんが自身の頭を指さした。
「脳に繋がる場所には、関門がある。ウイルスやら細菌やら、悪いものを通さないためのね。生きているうちに感染して、発症した人は、免疫系も併せてこれが良く機能しているわけだ」
「機能しているのに、正気を失うんですか」
説明を聞いて、私は首を傾げた。その関門がきちんと機能しているならば、ウイルスに入り込まれず理性も失わないはずだ。
あさひさんは、ホワイトボードに再度円を描く。今度は半楕円の、脳の形を模したものだ。
「脳は体に命令を出す機関だよね。こっちが理性、こっちは本能を司る領域」
内側に小さく丸を描いて、前者は外側、後者は内側を指してみせる。
「細かい事は分からないけど、こっち」
彼は円の内側の、本能を司る領域をコツコツとペン先で叩く。
「こっちのほうがウイルスとの入れ替わりが早いんだろうね。まず本能の入れ替わりが完了して、そのあとに理性の部分をコピーし始める」
「ウイルスに入れ替わる途中だから、理性を失っている状態になると」
はじめさんが顎に手をあてがう。
私達はウイルスが脳に到達する前に死んだから、本能の領域と理性の領域の時間差が起こらなかった。だから目覚めた時点で理性を保っていた。
「じゃあ出会った時のあさひくんが度々正気を失っていたのは」
「まだ脳が完全な状態じゃなかったから。言葉が時々分からなかったのも、言語野が――言語を司る場所が欠けていたからだ」
記憶喪失も同じ理由だろう、と彼は付け加える。
「そこらにいる感染者が回復しづらいのも、免疫系がまだ戦っているからだろうね。ウイルスはウイルスだから、攻撃して膿になって、さらに入れ替わりが遅くなってる」
一通りの説明が終わったのか、彼はペンにキャップを被せると静かに元の位置に戻した。
そうしてどこを見るでもない瞳の奥に硬い光を宿して、あさひさんは誰に聞かせるでもないような、放り投げるような声で呟く。
「……時間が経てば彼らも、俺達と同じように正気を取り戻す」
弾かれたように雪さんが顔を上げた。慄然とした様子で目を見開き、あさひさんを見つめている。
彼ら――私達がゾンビと呼んでいるもの――は。
痛いほどの静寂が部屋におりた。人でないと吐き気を押し込め銃弾を撃ち込んだのは、人でないと忌避し、同じ化け物になったとなじったそれは。
それは、いつかヒトになり、人と同じく感情を持つ。
く、と雪さんの喉が動いた。同時にあさひさんが髪をぐしゃりと乱雑にかきあげる。
「胸糞悪いのはここからだ。俺達が赤眼である理由」
「まだ、あるの?」
雪さんが硬い声で、けれどその顔には精一杯の嘲笑を浮かべて続きを促す。
「色素が抜けるなんて、ウイルスの変異で起こるとは考えにくいんだよ」
赤く光る瞳が私達を見回す。警告を示す赤色は、近づくなとでも言うように毒々しかった。
「だから誰かが、人為的に。感染者とそうでない人を分けるためにDNAをいじったとしか考えられない」
それはつまり、この状況は故意に起こされたもので。その全ては誰かのせいで。
一瞬、視界がくらついた。貧血だろうか。それともありえない悪意を目の当たりにしたからだろうか。
「――ふざけるな!」
全ての激情を堪えて静かだった空気が、その一言で弾けた。彼女は立ち上がり猛然とあさひさんに近寄った。雪さんは勢いのままあさひさんの胸ぐらを掴み、背後のホワイトボードに打ち付ける。キャスターの情けない悲鳴。
学校の外で助けてくれた時以来の大声は怒気を孕んで低く、とても彼女とは思えなかった。その威圧に気圧されて、私は身を竦ませる。
「このパンデミックは計画だてて――人を貶めようとして起こされたものだって!? 人が人を殺して、その果てに感染者には焼印入れて、あなた達はいったい何がしたいの!?」
憤る雪さんに、それでもあさひさんは静かだった。ただ一瞬、顔を歪めただけですぐに無表情に戻る。
「ウイルスでの遺伝子組み換えを発見したのは――桜木芽だ」
「責任逃れできるとでも、」
「研究を、倫理に外れると知りながら進めたのも俺達だ!」
悲痛を滲ませ、あさひさんが顔を歪める。その目に薄らと涙の膜が見えて、私は思わず視線をずらした。
彼はそっと、雪さんの手を掴んだ。ゆっくりとその手を下ろさせて確かな声で言う。
「桜木芽に落とし前を付けさせる」
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