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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第三章
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概況

「ユズさんとナオトは」

 クワルツが戻ってきて開口一番、彼らのことを訊ねる。ふっとその顔が曇ったのを見て、僅かな落胆が胸をかすめた。

「……家は片付いた状態だったから、どこかに避難はしたんだろうけど。指定の避難所には居なかった」

「いつ」

「暴動初期だよ。避難者のリストがまだ送られてきてた頃に、そこそこ遠くの避難所までさらったんだけどね」

 見つからなかった、と肩を竦める。既にその事実は幾度も反芻したのだろう。悲哀の色は薄く、ただこちらを気遣うように瞳だけは僅かに伏せられていた。

 俺は一つ息を吸う。ある程度の覚悟は、していたが。

「そうか。……そばに居てやれなくて、悪かった」

 安否は分からないからという気休めを吐くには、現状は厳しすぎた。二人とも初老に入る歳だ。期待はもう、できないだろう。


 しばらく口を開く気になれず、ただ手元を見やる。脳裏に二人の様々な姿が浮かんでは消える事にずしりと胸が重くなった。こんな状況でなければ、まだ覚悟は必要ではなかったはずだ。

 

「あ、そうだ。ジェイド、何も食べてなかっただろ」

 一つ瞬き、顔を上げる。クワルツが胸ポケットから薄い包みを取り出した。どうやらクッキーらしい。

「若干期限切れてるけど。さっきの人達の食べっぷりならジェイドもこれくらいいけるでしょ」

「あぁ、ありがとう」

 ありがたく受け取り、包みを破る。が、俺はつまみあげる所のないそれにため息をついた。

「ヘッドロックなんかするからだ」

 クッキーは原型を留めていない程にボロボロで、かろうじて二枚目は大きな塊がある程度だ。毒づくと、弟はまるで悪びれずに笑った。

「悪い。つい頭に血がのぼって」

 まぁ良いかと、まずはある程度大きな欠片を口に放り込む。


「それで、ここの事なんだけど」

 窺うようなクワルツに、軽く頷いて先を促す。

「わりと初期のころから死守してたらしいね。補給所もあるし、人の少なくなった駐屯地の隊はここに統合されてきてた」

 それで班長もここに居たのだろう。図書館の一件で、隊員はかなり減ったはずだ。

「で、今は唯一生き残った外務大臣と政府らしい体裁を整えて、市民の確保中」

 鹿嶋とゴタゴタしている間に、そこまで事が進んでいたかと目を見開く。

「すごいな」

 感嘆を吐くと、しかし弟は小さく首を振った。

「正直ギリギリだよ。諸外国と連絡を取っているらしいけど、あちらも救援を頼める状況でもないみたいだね。それに、国民が少なすぎると相手にされない」

 そもそも国と見なされない、と。


「彼らは俺達よりも余裕はあるけど、このパンデミックの被害は似たり寄ったりだ。見返りが見込めないなら捨て置く可能性も否めない……ま、最悪の場合は、だけど」

 価値が無いなら助けない。いたってシンプルな、しかし人道的ではないその選択は、この状況では幾度となく採られてきたものだ。それでなくとも、人を助ければその国は圧迫される。受け入れるにせよ、支援するにせよ。

「酷いとは言えないな。原因が感染症だから、尚更」

「そうだね。……そうだ、ジェイド、桜木の事は覚えてる?」

 覚えているも何も、と苦笑する。誰のせいであんな化け物と戦う事になったか。

「当たり前だ。それについても話したい」

 防衛省と自衛隊で食い違う情報が送られてきたというのも、クワルツから聞いたことだ。それを最後に携帯は繋がらなくなった。

「オッケー。ならもうちょっとだけ話させて。桜木研究所とパンデミックの関係如何(いかん)で日本の国際的な立ち位置が決まる。まず糾弾は免れないだろうけど、その程度が桜木研究所の弁明で決まるわけ」

 このパンデミックは桜木研究所のせいだ、と国内でそうなったとしても、世界単位で見れば悪いのは日本だ。今は国としての成立も危ういようだが。


 弟は目に厳しい光を宿して続ける。

「だから俺達は一刻も早く、桜木の関係者を保護しないといけない。どこぞの国が軍を投入でもして桜木の人間が取られたら終わりだ」

 そんな事になったらまさしく戦争の体をようしてしまうが、今の日本に待っているのはそれではなく、一方的な蹂躙だ。

 そして蹂躙を逃れても、それは百年先まで続く、日本の汚名だ。その汚名を、謗りを、俺達の次代に少しでも残したくないのなら。

「桜木研究所は日本の切り札か」

「最悪すぎる、ね」

 桜木研究所が原因であれば、諸外国からはワクチンや薬の開発も求められる。どちらの開発も早期にできれば日本の足場は何とかなる。逆に言えば、それさえ掠めとられてしまえば、日本の立場は本格的に危うくなるだろう。

 桜木研究所のせいで追いやられたのに、今度はそれに縋らなければいけない状況。

「随分と背負うみたいだな」

 苦い笑みが込み上げる。今の話は全て仮説であり、起こる見込みも低いもの。だがそんな腹積もりでは、全てを最悪に食われかねない。

 そんなものを、――自衛隊ではない、この土地に居る全員が背負っている。


 しかしその切り札に関する情報は、少しだけ手に入っていた。


「班長の元を離れてから、茨城の研究所へ向かったんだが」

 弟の目がこちらに向くのを確認して、俺は続ける。

「先に居た隊員は一人。そいつはワクチンがあると言っていた」

「それって、」

 クワルツが目を見開き身を乗り出す。だが、と俺は逆接を強調した。

「そのワクチンを打ったそいつは、感染者になった。だから真偽は分からない。ただ」

 例の感染者のメモを思い出して、持っていたリュックの存在を探す。医務室に行く前には既に無かった覚えがある。

「俺の荷物は?」

「いったん中身を見てから本人に戻される。武器は没収。でも今必要なら持ってくるよ」

 腰を浮かせかけたクワルツを、首を振って止める。

「いい。荷物に桜木研究所に落ちていたメモの写しがある」

「メモって?」

 感染後の経過観察、発症の過程と条件が詳細に書かれていたそれ。覚えている限りの内容をそらんじると、クワルツはくしゃりと顔を歪めた。

「それ、桜木はクロってこと?」

 察しの良い弟に頷きかけ、さらにつけ加える。思い出すのは白い眼帯と、敵じゃない事を示すような、わざとらしい最低限の笑み。

「桜木芽に会った。そいつは――」

「桜木芽? 桜木って、」

 思わずといったふうにクワルツの声が大きくなる。その反応は最もだが、言葉を遮られた事に片眉を上げた。気づいたクワルツはまだ顔に驚きを浮かべつつも、口を噤んだ。

「桜木芽はそのメモを回収しにきた」

「俺達の手に渡ったら困ると?」

 眼鏡の奥の瞳に、僅かな嫌悪の色が浮かぶ。しかしすぐに自制したのか、コツコツと眼鏡のツルを叩く。

「桜木は故意にパンデミックを起こした。国家転覆でもしたいのか、にしては行動に一貫性もない」

 国家転覆などと、目論んでどうするというのか分からないが、それが目的ならばわざわざ匿名で情報を送らず、日本が沈みゆくのを眺めていればいいだけだ。情報が無ければ研究所周辺の掃討は行われず、状況はあちらにとって狙ったものになった筈だ。


「その桜木芽は研究所の創始者の血縁かな。彼? 彼女?」

「彼女だ。俺達が感染者に囲まれていたところに、何を使ったかは知れないが感染者を溶かして助け出した。その目的が、メモの回収だ。明らかに関係者だな」

 関係者というか、もはや直接的な原因の一端だろう。

「溶かしたって……まぁ、うん。とりあえず分かった。メモの写しと一緒に上にあげとく」

 納得しきれないながらも頷いたクワルツが請け負う。

「それから」

「まだあるわけ?」

 遠慮なく顔を顰めたクワルツに苦笑する。話せば話すほど問題が積み上がっていくのだ、もう手一杯なのだろう。

「感染者についての事だ。専門がいるならそちらに話しても良い」

 俺の言葉にあー、だのうーん、だの散々呻いたのち、クワルツは大きなため息をついた。

「うん、一回話してみて」

「おそらく感染者はこれから人に近くなっていくぞ」

 海音と秋と、茨城の研究所を目指していた途中に出会った医師だという男性。彼の傷は異様な速さで治ってしまった。加えて火を忌避する行動。さらに爆発音と火を、つまりは危険を結びつけられる知能。ドアを開ける感染者も、知能の向上が要因かもしれない。

 それらを根拠として上げつつ、俺は昏い気持ちで結んだ。

「その果てに凶暴性が無くなるなら良い。そうでなければ人間しか食えない野生動物になる。パッと見で人と判断のつかないな」

 今まではまだ、外見に違いがあった。元人間と形容できるくらいだった。それが人と言える見た目になればもはや共食いだ。そして同じ見た目になっても躊躇いなく倒せる人間はそう多くない。

 クワルツがぐしゃりと前髪をかきあげ、苛立った様子で言う。

「あームリ。もう無理。なんで振り出しに戻るんだよほんとイヤ。まだある顔しないでくれる?」

「人っぽくないのにも遭ったが」

 クワルツが唖然として束の間動きを止める。これから先同じような化け物が出てくる可能性を伝えたかったが、限界が来たらしい。少しのフリーズののち、クワルツは頭を抱えた。

「うん、近いうちに専門呼ぶからその時に話して。今は無理」

「分かった。専門家も保護できたんだな?」

 病原菌関係の専門家を呼びウイルスについて詳しく解析できる暇は日本にはなかっただろうに、きちんと確保している事に、またも感心する。

「生物研究所をね。管轄区域の警察がいの一番に抑えていてくれてたんだ。市民を集めているのもその近くだよ」

 その管轄区域の警察署には、余程先見の明が立つ者が居たのだろう。抑えてくれた警官達がどうなったかは知れないが、多数犠牲は出たはずだ。

 一瞬、祭りで出会った警官を思い出し、俺は目を伏せる。

 それから不意に鮮やかな炎と燻る黒煙が頭をよぎって、俺は顔を上げた。

「そういえば、あのヘリはどうして墜落したんだ?」

 順番は前後したが、これも気になっていた事だ。訊ねれば、クワルツはやはり重たいため息をつく。

「あれはね、例の研究所に生け捕りにした感染者を連れていくヘリだったんだよ。奇妙な感染者でね」

 さっきのため息は、嫌な懸念を思い出したかららしいと、俺は哀れみの目で弟を見る。

「奇妙っていうのは」

 クワルツは手元に視線を落とし、僅かに顔をうつむける。

 

「虹彩が真っ赤に染まってた、ってね」


 翳った深緑の瞳が静かにこちらを向いた。

「瞳だけ、だよ。まずありえない。さっきのジェイドの話も合わせれば、ウイルスは変容している可能性が高い」

 後天的に、しかも瞳だけの色素が抜け落ちるなど、到底ありえない。明らかにウイルスの影響だった。

「それも相当厄介な方へか」

 クワルツはやはり目だけを向け頷く。

「でもその感染者を研究所へ回そうしていた矢先に墜落だ。詳細は分からなくなった」

 なるほど、それで。ヘリ内で発砲の光が見えていたわけだ。

「俺達は一刻も早く、ウイルスの究明をしないと」

 クワルツが組んだ手に力を込める。焦燥に駆られたその声は酷く硬かった。俺は弟の肩に手を回し、引き寄せる。

「大丈夫」

 囁く声量で言えば、クワルツが僅かに眉間の力を抜いた。少し話しすぎていたらしい。緊張させてしまっていたようだ。

 気を緩ませようとクワルツの肩を軽く叩く。弟は少し気を張りすぎるきらいがある。それはこの状況では仕方のない事かもしれないが、気休めでも安心してほしかった。

「さっき秋とも言っていたんだ。桜木芽を探す」

 深い緑の瞳が月明かりを受けて薄く光る。俺はその目に微笑みかけて続けた。

「それでお前も安心できるなら――ッ!?」

 ゴツンと額に衝撃が走り、危うく舌を噛みかける。クワルツが至近距離で頭突きをしたのだ。回していた腕を外し、頭を抱える。

「ふざけるなよお前……!」

 唐突なその行動に、咄嗟に出る事のなかった英語が久しく口から飛び出た。

「ふざけてんのはお前だろ、この冷血漢! この緊急事態で! 弟の事忘れといてそれか!?」

 弟ががっしりと両手で俺の肩を持って容赦なく揺らす。

「忘れるわけないだろう」

 目が泳ぎそうになるのをぐっと堪え、一言ひねり出す。しかしクワルツはきっとまなじりを釣り上げた。

「忘れてるわ! じゃなきゃとっくのとうに会えてるんだよ。っていうかいっつもそうだよな! 目先の事に気を取られすぎなんだよお前は!」

 最もな主張に、俺は口を噤む。図書館で自衛隊という組織から離れなければ、確かにクワルツとはもっと早くに会えていただろう。

「悪かったよ……」

 しっかりと目を見て謝罪すれば、クワルツは一番の溜め息をついてようやく手を離した。

 

「でもま、無事に会えて良かった」

 

 ずれた眼鏡を直し、クワルツが笑う。心底から吐き出したようなそれに、俺もふっと笑って頷いた。

 どれだけの心配をかけたのか、今ならわかる。途中に出会った二人でさえあんなにも気を揉むのだ。行方の知れなくなった俺を弟はずっと探していてくれた。それなら出会い頭の手刀も、甘んじて受け入れられる。


 俺はもう一度、感謝の意を込めて弟の肩を叩いた。

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