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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第三章
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 包丁を渡せば、彼は躊躇いなく手の平に刃を滑らせた。見る間に血液が溢れ出す。

「っふ……う……」

 真美ちゃんが呻き、また血を吐き出した。顔はぐしゃぐしゃで、涙だけが透明な水滴だった。彼女は今想像を絶する痛みにもがいているのだろう。腹を縮め、唇を震わせて。

 あさひくんが彼女の上半身を持ち上げ、手の平を押し付ける。真美ちゃんは嫌がるように顔を背けるが、それでも手の平は離さない。

「飲んで。大丈夫だから、頼む」

 懇願に、彼女の口元が僅かに開いた。こく、と喉が小さく動く。

 彼女に血を飲ませてから少し経って、息を切らせた岡部はじめが戻ってきた。

「精製水! ありったけ持ってきた」

 駆け寄ってこようとする彼を、あさひくんは怒鳴りつける。

「来るな! そこから絶対に近づくな。精製水そこに置いて。雪さん、自分の手洗って」

 岡部はじめは驚いた様子でたたらを踏み、次いで辺りに素早く目を走らせた。周囲は肉塊や私達の血で、所々汚れている。私にも目を向けた彼は、ボトルのうち一つのフタを開けた状態で置いてくれた。

「ありがとう」

 意図を察して、そのボトルに手を伸ばす。動かすだけでも痛いのに、ボトルを掴まなければならない苦痛に顔を歪めた。持ち上げる力もあまり無いので、ボトルを地面に付けたまま傾け、片手を洗う。

「とりあえずこんなもんで良いかな」

 あさひくんが真美ちゃんを横向きに寝かせる。一息ついたらしい彼は、壁に背を預け岡部はじめに視線を向ける。

「水、助かった。二人ともちょっと後ろ向くか目ぇ閉じてて」

「何よ」

「いやグロいからさ。目ん玉取るから」

 自然と眉間に皺が寄った。想像して口元に力が入る。

「軽く言うけど、ダメでしょ」

 岡部はじめも苦い顔で首を振る。MRというのなら、医療の知識もそこそこにあるはずだ。その彼が言うのだから相当だし、そもそもこの場合は知識が無くとも止めておいた方が良い事くらいは分かる。

「そうよ。だいいち治らないでしょう」

 眼球は一度傷つけば元に戻らない。それは眼鏡や義眼があることが証拠だ。

「大丈夫。水で直洗いしてまた入れてみる」

 事も無げに言う彼に、思わず顔が引きつった。岡部はじめも露骨に身を引いている。

「発想が化け物すぎやしないかな……」

「まぁ半分そう、かな?」

 今可愛子ぶっても微塵も可愛くないわよ。


 私達は顔を見合わせ、再度説得を試みる。けれどあさひくんは一向に退く様子を見せない。

「知らないわよ、本当に」

「治らなかったらどうしようもできないからね」

 結局根負けしたのは私達の方で、あさひくんが何故か苦笑する。

「大丈夫だって。片目は治りかけてるし。ほら二人とも、見たくないでしょ」

 促す彼に、私は小さくため息をついた。彼には肉塊を前に動けなかった私を背負ってくれた恩がある。

「手伝うわ。あなたの目、洗ってあげる」

「えぇ……」

「早く取って」

 せっつくと、彼は自身の眼球に手を伸ばした。その躊躇いの無さに鳥肌が立つけれど、それはおくびにも出さない。

 指先を眼孔にあてがった彼は、ゆっくりと奥へ差し込んでいく。やがてぐちゅりと、眼球が彼の手によって取り出された。途端に血液が彼の目元から溢れ出す。

「本当に良いの?」

「もちろんよ」

 渡す時だけは躊躇する彼に、私は頷く。手のひらに乗せられたそれは、思ったよりも軽い。

 ぬるついた眼球にそっと水をかける。付着した血液はあらかた流し終えたところで、彼の手に握らせる。

 彼は黒目の位置を確かめると、そのまま雑に眼孔へと押し込んだ。

「どう?」

「異物感」

 でしょうね、と私は自身の手を服で拭う。ちなみにあさひくんの少し奥では岡部はじめが頭を抱えていた。

「何だコイツ……怖……」

 でしょうねぇ、と今度は胸の内で深く頷いた。誰だってすぐ側で急に眼球を取り出し始めたら怖い。しかも当の本人は全く痛がっていないのだから、余計にだろう。


 ごぼ、と咳とは程遠い、液体を吐き出す音が聞こえて、私は弾かれたように真美ちゃんを見やった。顔周りには大量の血液。そのままけほけほと咳を繰り返す。

「吐き出した?」

「えぇ」

 熱を持った彼女の背中をさすってやると、段々と咳がおさまってきた。表情が少し和らぎ、やがてふっと瞼が開く。

「あ……」

 ぼんやりした瞳が私を捉えたのを確認して、彼女の体を起こしてやる。

「真美ちゃん、お水」

 あれだけの血を吐いたのだから、とりあえず何か飲ませようと、精製水のボトルを彼女の口元に持っていく。

「あっ、雪さん待って精製水は」

「なに?」

 あさひくんの制止に顔を上げるが彼女の唇は既にボトルについているし、今まさに水は流れ出した所だ。途端に彼女は顔を顰める。

 慌ててボトルを縦に直し、彼女から遠ざけた。彼女は苦い顔のまま、呟く。


「ま、まずい…………」

「不味いの?」

「ミネラルが入ってないからね」

 岡部はじめの補足に、私はしげしげとボトルを見つめた。純水は、不味いらしい。

「それは……ごめんなさいね」

 未だに眉をしかめている真美ちゃんに謝り、そのまま一言断って頬や腕の傷を精製水で流す。

 あらかた綺麗に洗い終えたところで、私は両目を閉じているあさひくんに視線を向けた。

「そういえば、これからどうするの? あさひくんがこれじゃ、研究の証拠なんて集めようがないわ」

 私では詳しい事は分からないし、研究していた彼自身の方が証拠集めも容易いはずだ。

「研究所内に休憩所かなんかがあったはずだから、いったんそこに行って休もう。あとは……肉塊はどうなってる?」

 あまり見たくはないけれど、と肉塊に目をやる。

 肉塊は小刻みに震えており、全体的にぐったりとしていた。完全に動きを止めた訳ではないようだから、冷静に考えればすぐにここから離れるべきだろう。

「元気ないチワワみたいよ。あっ、あの脳っぽいところ、刺しておきましょうか」

「喩え、上手ですね……」

 真美ちゃんが弱々しい息の下でぽそりと褒めてくれる。だいぶ落ち着いてはきたようだが、体力の消耗はかなり激しかっただろう。限界が近いはずだ。

「うふ。ありがとう、真美ちゃん」

 汗で額に張り付いた彼女の前髪を優しく払う。顔色もかなり悪いから、水だけでなく、何か食べさせてあげたい。

「雪さん、頼んでも良い?」

 遠慮がちなあさひくんに、もちろん、と包丁を再度取り上げる。血にまみれてはいるが、見える刃は銀色に光を照り返していた。立ち上がり、肉塊を見下ろす。

「くそ、二対一で突っ込めなかった」

「雪さんにツッコミとか考えない方が良いと思うけど」

 肉塊をあちらこちらから眺め、ようやくそれらしい突起を見つけ出す。まずは包丁の先でつついてみて、特に反応が無いことを確認する。

 少し考え、私は突起の根元へと刃を入れた。

「なんで?」

「倍のボケで返ってくるから」

 カツンと刃が何か硬い物に当たる。直感的に骨だろうと察し、一度引き抜いた。

「めんど、……愉快な人だね」

「まぁ結構、ユーモラスというか」

 包丁を振り上げ、切り込みに力いっぱい叩きつける。バキ! と骨の断つ音がそこそこの大きさで響いた。

「聞こえてるわよ」

 肉塊の向こう側の男性二人を睨めつけると、彼らはさっと明後日の方向を向いた。悪口すれすれの会話は、周辺が静かなおかげでしっかりと耳に入ってきていた。

 しかし首に当たるだろう部分を断ち切れば、肉塊はピタリと動きを止めた。溢れ出した血液が靴に付かないよう、さっと立ち上がる。

「あさひくん、頭っぽい所は残しておいたから。脳があるかは知らないけど、首の骨はあるみたいよ」

 あさひくんがぴくりと眉をしかめる。彼は静かにそうか、と返事すると、壁を頼りに立ち上がった。私は慌てて彼を支えに行く。

「ちょっと、動いて大丈夫なの」

「ん、歩けはする。真美ちゃんの方連れて行ってあげて」

 彼は取り出していない方の瞳を僅かに開いていた。壁伝いに一歩を踏み出す彼は確かに、歩けはするらしい。

 私は真美ちゃんを背負うと、彼のあとにつく。

「岡部は精製水を。汚れてないやつ」

 研究所内は殆ど白一色だ。構造さえ覚えればどうということはないが、何も分からず放り込まれたら多少は迷う。


 休憩所は同じ階にあり、倉庫室から少し間隔の空いた所にあった。ドアノブをひねり、僅かな隙間を開けて中を覗く。

「開いてる。何も居ないわ、大丈夫」

 先陣を切って入り、一番大きなソファに真美ちゃんを横たわらせる。ソファは一人がけ、複数人用といくつかあり、入って左手にはホワイトボード、右手には給湯器のついたキッチンが据えられていた。

 その横に冷蔵庫がある事に気づいて、私は早速開けに行く。

「あー疲れた」

 ぼすん、と恐らくはあさひくんがソファに座り込む音。

「目は治りそうなの?」

 冷蔵庫内には腐った食べ物が幾つか、横のポケットには飲みかけの二リットルのペットボトル。中身はお茶だ。精製水よりは美味しさが保証されている。

「ん〜痛くないから分かんね」

 そうか、と私は溜め息をつく。痛みが無ければ身体が正常かどうかも分からないのだ。

 残っていた精製水で手を洗って戸棚をあさる。丁度よく紙コップが見つかったから、ぬるいお茶を人数分ついだ。

「はい、あさひくん。残っていたお茶」

「ありがとう雪さん」

 顔の怪我はもうかなり良くなっている。片方の瞼はきちんとあるし、額の方も、と上に視線を滑らせて。

「雪さん? 何で笑ったの?」

「いや、ふふ、ううん、ごめんね。眉毛は生えないのね」

 薄いという次元でなく、毛穴も見当たらない。今は火傷の後のつるつるしたような状態だろう。

 あさひくんが眉毛の辺りをさすり、困ったように笑う。

「まじか、だっせぇ」

「ださいというか、少し不良っぽいわぁ」

 三白眼と長めの前髪のせいで、かなり怖い人相になっている。まぁ彼だから怖くないけれど。

「はい、あなたも」

 岡部はじめにもお茶を手渡すと、彼は小さく頭を下げた。

 真美ちゃんが飛び出してきたとき、彼女は一人ではなかった。彼と共に行動していた様子だった。最低限、真美ちゃんは岡部はじめを信頼しているのかもしれない。それでなくとも息を切らせて精製水を探してくれたのは彼だ。感謝しなければならない。

 真美ちゃんにもお茶を飲ませ、私達の間にようやくほっとした空気が流れた。

「真美ちゃん、少し眠ったら?」

 疲れ切って顔色の悪い彼女に声をかける。彼女はゆっくりと視線をこちらに向けると、瞬きで返事をした。もう限界だったらしい彼女は、そのまますぅと寝息をたてはじめる。

 その入眠の速さにあさひくんが軽く笑う。

「真美ちゃんが起きたら、ウイルスの授業でもしよう。丁度黒板もある」

 声量をおさえた彼に同じく、私も声を潜めてお願い、と返す。


 ウイルスの事を知ったところでどうにもできないけれど、被害者として知る権利はある。行使できるのならすれば良い。

 ソファに身体を預けると、嗅ぎなれない匂いが鼻についた。ソファに染み付いているのはどちらかと言えば消毒液の匂いに近く、心が落ち着かなかった。

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